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幼少期

作者: 雅 未



私は生まれた時の光景をもうよく覚えていない。私は、静岡県浜松市に生まれた。


ただ、アパートの部屋の窓から見える、松林と駐車場の風景をぼんやりと覚えている。


その当時は祖母と母と、父が一緒に暮らしていた。父は自動車関係の製造の仕事をしていた。


幼稚園に入園すると、私は恥ずかしがり屋だったので、人前に出ると、変に照れた。

私は別にその頃は、さりとて変わった様子はなく、普通だったようである。ウルトラマンを観て、友達とウルトラマンごっこをしたり、機関車トーマスを観て喜んだりしていた。

幼稚園の給食の時に私は偏食であった。野菜や果物を残すのである。そのため、保育士の先生から無理矢理、野菜を食べさせられて、益々野菜嫌いになった。

私は良く絵を描いていたようである。ウルトラマンの絵をよく描いていた。


実家ではよく祖母に構ってもらった。チョコバットや、きな粉餅をご馳走になった。当時祖母は狂気が内在していて、私は内心恐怖していた。それでも、祖母は私に優しく良くしてくれた。


幼稚園が変わり、浜松から愛知県豊橋市に転居した。





幼稚園が変わり、私はあまりその幼稚園には行かなかった。

両親は離婚していて、母と祖母と生活していた。母は事業を始めていた。人材派遣会社であった。

私は小学校に通い始めた。さほど、勉強は苦痛ではなかったように記憶している。

私は、些細なことでよく泣いていた。本当によく泣いた。感情が豊かであったのだろうか。私は泣き虫のレッテルを貼られることも少なくなかった。

私はその当時は本をよく読まず、漫画もよく知らなかった。ゲームも知らなかった。読み書きか、テレビを見ているような子供であった。

住んでいるアパートの同じ学校に行っている友達からゲームを知るようになったが、鬼ごっこなどで遊んでいた。

黄昏の太陽が、アパートを照らしていたのを、私は忘れずにいる。

私は学校では従順な生徒であった。この頃は、友達と一緒に楽しく生活していた。学業も順調に進んでいた。

だが、小学校3年生の時に、豊橋市から名古屋市に、転居することになった。

私はショックであった。友達もショックで泣いていた。私は友達に悪いことをしたように思った。

アパートの遊び場のブランコは、静謐のなかで空をきっていたのが、記憶に残っている。








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