夢違えの護符(2)
空の蒼はゆっくりと色褪せて灰紫にとって変わられ、樹々の緑は鮮やかさを奪われ鈍色が広がる。息をひそめた夜がしめやかに忍びよる、僕を捕まえに――。
象牙色の窓枠から見える漆黒の樹々のシルエットが、稜線を際立たせて衝立のようにほのかににじむ茜色を阻む。くっきりとした輪郭の向こう側に色が追いやられる黄昏時、勿忘草色は、僕の内側を静かにしくしくと蠢き始める。
息を殺し、じっと動かずに、空から色が消えていくさまを眺めていた。瞬き一つすることなく。濡羽色の一人掛けソファーに深く腰かけて。
皆が皆同じに溶ける呂色ならばまだいいのだ。なのになぜ、僕を塗り潰すのは、勿忘草色なのだろう。僕はこの色に、どんな記憶も、思い入れも、ないというのに――。
やがて闇色に沈んだ部屋に、白練のスタンドの明かりを灯す。白熱灯の蜜柑色に照らされて、胡桃色のカーペットには、薄らとぼやけた玄色の影が被さる。
ふと、交換したばかりのベッドシーツに目が向いた。パイン材のクローゼットにしまってあったボックスシーツは藍色。掛け布団カバーは白藍色と藍色のリバーシブルだ。どちらも野草のシルエットが白くプリントされている。僕の趣味じゃない。でもしかたがない、これしか替えがないのだから。肌に触れるシーツや枕カバーは、週に一度は取り換えて洗濯しなければ勿忘草色に染まってしまうもの。
白熱灯の柔らかな蜜柑色が密に詰まる輪郭のぼやけた僕の部屋。白ぬきの草花の散る白藍色のベッドも、今は蜜柑色。この暖色を呼吸する。勿忘草色に塞がれて、凍えきった肺を温める。
暖かな蜜柑色に包まれて、僕は、僕を忘れてしまいそうになる。
アスファルトは鉄紺色。その上を月白のラインが走る。そこに載る僕の靴は、濃藍。スーツは深縹。シャツは水縹。袖口から覗く肌は、浅黄色。檳榔子黒の革製鞄を持っている。僕は、勿忘草色の息を吐きながら、ぴんと透明に澄み渡る空気のなかを仕事へ向かう。
名前を呼ばれて振り返った。そこに立っていたのは――、白藍色のジャケットとタイトスカート、僕の掛け布団カバーと同じ色。内側のシャツは青磁。黄褐色の長い髪。ほんのり乙女色の頬。栗皮色の瞳。――確か、僕の同僚。
「おはようございます。いいお天気で良かったですね」と、彼女は言った。「おはようございます」と僕は答えた。
白藍色の彼女と言葉を交わすのは初めてではないだろうか。そのまま彼女は僕の歩調に合わせ、今日の空模様について喋り始めた。そういえば、僕は忘れていたのだ。今晩、業務終了後、懇親会と称する強制花見の会が開かれるのだった。新入社員の彼女にあれこれ尋ねられたのだけど、毎年恒例のこの花見の記憶は薄い。勿忘草色に塗り潰されて。僕は曖昧に、「さぁ」とか、「覚えてないなぁ」を繰り返すだけなのに、彼女は気にする事もなく喋りつづけている。
浅葱鼠色の僕のデスク。デスクトップパソコンは銀色。純白のメモが貼られている。今日の花見についてだ。頭のうえを声が通りすぎていく。勿忘草色の声――。
はっ、とした。
こんな朝から、いったい僕はどうしたっていうんだ? 勿忘草色の夢はもう、僕の内側に戻っている。僕は今、ちゃんと目覚めている。浅葱鼠、のデスクの上の、若菜色、のファイル。卯の花色、の古い書類。その下から覗く撫子色――、のアクセサリー? 卯の花色を持ちあげて、キラキラとしたそれを摘まみあげた。僕のものじゃないものが、僕の浅葱鼠の上にあるなんて。誰かの落とし物だろうか?
浅黄色の掌にのせて、じっとこの撫子色を凝視した。それはぷくぷくとした泡のような、無色透明と撫子色の合わさったいくつものビーズの連なりだ。愛らしくて、思わず笑みが零れるような――。