ラファエロの画集
ラファエロの画集が、エアメールで届いた。ずっしりと重量のある素描画集だ。宛先は私ではなく娘。つい先日までうちに滞在していた私の友人から、娘へのプレゼントだった。
日本滞在中、英国からの友人に使ってもらった部屋は、高校生の娘の部屋だ。初めはほとんど家にいることのない息子の部屋を、と思っていた。けれど、ベッドがあるし暖房の効きがこっちの方がいいから自分の部屋を使っていいよ、と娘が提案してくれた。そのお礼である。
その話をなにげなく友人に話したとき、彼は顔をしかめて首を振った。
「娘さんに申し訳ありません。僕がその年頃のときに、親の友人が来るから部屋を出ていけなどと言われたら、きっと激怒したでしょう」
「出ていけなんて言っていませんから。彼女は自分からそう言ってくれたんだし」
「僕はベッドでなくてかまいません。彼女に部屋を返します」
想定以上に気温が低すぎて、客室代わりにできる部屋が他にないのだ。寒すぎるのだ。息子の部屋では……。今さらだが、内輪の事情である。
「気にしないで。今さら部屋を変えるのは、かえってその方が面倒だから――」
「娘さんに何かお礼をしなければ――」
彼は深刻な顔をして考え込んでいた。
翌日、画箋堂に行きたいというので、清水寺へ行く前に、その画材専門店に遠回りして案内した。彼は美大の出身で、職業はウェブデザイナーだ。だから、日本ならではの画材に興味があるのだと思っていた。
ところが彼は、輸入品の水彩色鉛筆のセットを手に取って私にみせた。
「娘さんのプレゼントに、これどうでしょう?」
「同じものを持っています」
「たくさんの色にしたら……」
「24色セットが家にあります。それに彼女はもう絵を描かないので、これ以上要りません。使いません」
昨夜、娘が部活のチラシに描いた挿絵や、部屋に置かれたままのレポート用紙に描かれていた落書きを、彼はとても感心してみてくれていた。彼女は絵が好きで、少しの間習っていたのだ。でも、美術コースに進むことも、絵を学ぶことも早々にやめてしまっていた。
――どうしてやめてしまったの?
――自分には才能がないことに気がついたからです。
娘の返答に、彼は残念そうに首をふっていた。
それから、彼が手に取ったのは、デッサン用鉛筆のセット。「これも持っています。サンタさんのプレゼントで――」色取り取りのカラーペン。「彼女のペンケースを見せてあげたい。こんなに入っている」何本あったか覚えてないほど。そして最後に、コンテパステルのセット。
「これは使いこなせないと思う」
「簡単だよ。ドガはパステルで絵を描いてるんだ」
わざわざドガの絵をスマートフォンで検索して見せてくれた。
「使い方がわからない。あなたが娘に教えてくれる?」
彼はやっと諦めてくれた。
「彼女へのプレゼントは、あなたが英国へ戻ったら絵葉書の一枚でも送ってくれた方が喜ぶと思う」
「それなら、綺麗なカードを選んでそれにチョコレートをつけて送ります。きっと、その方がいいのですね」
彼は肩をすくめて、いささか残念そうにこの店を後にした。
そして届いたチョコレートが、ラファエロの素描画集だったわけだ。
娘は素直に喜んでいた。チョコレートが画集に変わっていても構わないみたいだ。
「せっかくもらったのだから、この本で英語の勉強する」と、娘は無邪気に言った。
「美術書の英語は専門用語ばかりで、実用的じゃないよ」
「いいよ。綺麗な表現を覚えられるかもしれないし」
私はひとり苦笑していた。
きっと彼は、娘に絵を続けて欲しくてデッサンの基礎の素描集を送ってくれたのだと思うのに。
あれだけ言葉を尽くして、娘は絵を学ぶことをやめたのだ、もうかつての情熱はないのだ、と説明したのに画集を送ってきた彼――。
なぜそれがプレゼントとして選ばれたのか、その想いを汲み取ることもなく、綺麗な画集の絵ではなく、英字に興味を示して喜ぶ娘。
どちらも相手のことなんて、本当には考えてはいない。けれどそれぞれに満足している。
そして私だけが――、英国製のチョコレートを食べ損ねたのはちょっと残念だったな、と小さくため息をついたのだった。