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朧夜にすべり行くは鈍色の水面

 英国から友人が遊びにきている。


 有名な観光名所をほぼ周り、明日はお土産を買いに繁華街へ行く予定にしたので、ついでに高瀬川の桜を見に行こうと誘った。ただの花見というのも何なので、漱石好きの彼に、鴎外の「高瀬舟」の英訳を渡した。短編なのですぐ読める。明日はここへ行こうと思う、と。


 そして家事を終わらせに席をたった。




 自分の失態に、しまった、と気づいたときには遅かった。まさか明治の文豪の小説と、今の彼がリンクするとは思わなかったのだ。自身の想像力が及ばなかったというよりも、現実としてとらえることができていなかった、そのことへの配慮が足りなかった。


 

 彼のお兄さんはパーキンソン病なのだ。この家に迎え入れて一番に彼が私に伝えたのが、お兄さんのことだった。


「以前、あなたが兄のことを尋ねたとき、僕は嘘を言いました。兄は元気です、と言いました。でも、兄はもう、家にではなく介護施設(ケアハウス)にいます。医者からは、後4、5か月の命だと言われています」


 そばにいても、もう何もできることはない。彼はひとりで何もすることができない。話すこともできない。僕の話に応えてくれることもない――。


 だからこうして、予定通り旅行に出ました。



 初めにそう聞いていたのに。


 そして、哀しいことがあるときは、楽しいことをして、笑ってやりすごすのが英国流なのだ、と言われたのだった。




 

 そんな彼の現状を考慮することもなく、のほほんと戻って来た私に、「高瀬舟」を読み終えた彼は、とても真剣な顔で尋ねたのだった。

 

「あなたなら、どうしますか」と。


 喜助のように弟の自殺を助けるか、どうか――。自殺幇助は罪だと思うか?


 私には家族がいる。だから喜助のように弟以外の家族のいない状況ではないので、家族のためとは言っても罪を選ぶかどうかはわからない。けれど、彼の弟の立場でなら答えられる。家族の負担にならないために、重い病気になったら自ら死を選びたいと思う。


 そう私が答えると、そこから堰を切った様に、彼は喋り始めた。お兄さんは子どもの頃から身体が弱かったこと。病を得てからの三年間、口癖のように、病気が重くなったら自分は自殺するつもりだ、と言い続けていたこと。けれど、決して自分で死を選ぶことはできなかったこと。その兄をずっと介護してきた彼自身、兄の苦しみを終わらせるために、そして自分のためにも、何度も、何度も兄の横たわるその枕で、兄の口を覆って殺そう――、と、傍らに座したまま思い描いていたのだということ。


 日に日に弱っていく家族をその枕許で見続けることを、その苦しみを終わらせたいと願うのは罪なのか? 



 スイスには、重い病を抱え、死を願うそんな患者の願いを叶えるための団体がある。だけど、英国の法律では、そこに彼を連れて行くだけで自殺幇助の罪になる。家族を巻き込みたくなければ、動けるうちに、自分ひとりで、すみやかに終わらせなければならない。



 自らの死を思う時、その時を決めることが一番難しい。今日ではない。もう一日、あと一日と引き延ばすうちに、きっと、他者の手を借りねば動くこともできなくなっているのだろう。その時を自ら選ぶことは、人にとって、とても難しいことなのだ、と。


 

 逆に、私は朧に考えていた。彼に対する申し訳なさを感じながら。


 見送る者は、本当は、どちらを望むのだろうか、と。ともに苦しみの中を生き、最後までかたわらにいることか、それとも――。

 命はどこまでが自分のもので、自分の身体を生かす責任は、いつまで自分が持つことができるのか? 私は、いつまで私でいられるのか?


 その時、を考えることそのものが、まるで罪のようだ、と――。


 


 最後に、彼はこう締めくくった。


「もし、あなたが本当にそうすることを望むのならば、必ず、やりとげて下さい」








 

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