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月の笑い声が堰を切り

「写真集の題名は、『月の笑い声が(せき)を切り』にしようと思うんだ」


 無邪気な笑みをむけて、彼が言う。


「タゴールかな?」


 私は上機嫌な彼に軽く頷き返し、続きを促した。


「『月の笑い声が堰を切り、月光があふれる。

  おお、月下香(チューベローズ)よ、おまえの芳香(かおり)の雨を降らせておくれ』

 どうだい? 美しいだろう?」


 彼は艶のあるよく通る声で、インドの詩聖タゴールの詩の一節を朗々と口ずさんだ。くっきりと長い睫毛に縁どられた、きらきらと輝く星空のような眼を細めて。


「そうだ。この写真集の出版記念に新しいドレスを作ってやろう。極上の黒絹にベルギー製のレースをたっぷり使って。ウェディングドレスを着せてやろう。きっと似合うに違いないよ」


 人差し指で自分の下唇の輪郭を何度も確かめるように触れながら、彼は肩越しに私を振り返る。



 振り返る。

 同じ椅子に腰かけていた、彼女の怯えた面影が瞼裏に振り返る。

 その艶やかな、豊かな河の流れにも似た黒髪が、波打つ。揺れる。



 陽の落ちたばかりの紺青の庭にむかって開け放されたフランス窓から、湿っぽい、だが日中よりはよほど涼やかな風がさわさわと吹きこんでくる。


 私は窓辺に佇み薄闇に目を凝らす。かすかに(まと)いつく芳香に呼ばれた気がして。


 彼が右腕を高く伸ばして私を呼んだ。

 細く、骨ばった、それでいて優雅な手が、のりの効いたシャツから覗いている。催促するように軽く曲げられる白い指先。



 白い指先の感触が、肌を走る。

 声になることのなかった、その指先からほとばしる言葉。

 刻みつけられる。断末魔にも似たか細い喘ぎ声。



「出版までに間に合うかな?」

「間に合わせる」


 彼に応えるために、その(てのひら)に自分の手を打ち合わせた。互いの肌を打つ乾いた音が響く。



 肌を打つ音が聞こえるようだった。赤く染まった白皙の頬。彼女は声を出さずに泣いていた。長い睫毛にくっきりと縁どられた、深い淵のような眼を見開いたまま。



「写真を何枚か差し替えたいんだ。もっとエロティックなのを思いついたんだ。薄い黒の長靴下(ストッキング)を履かせてね。ドレスをこう、跳ねあげるんだ。こんなふうに」


 彼の背後で背もたれに手をかけていたわたしを振り仰ぎ、彼は勢いよく長い脚を跳ねあげた。細い足首が剥きだしになる。その肌を包む黒靴下。エナメルの光沢がわずかに掠り、ガラステーブルが揺れる。乱雑に置かれていた写真が数枚、真鍮(しんちゅう)の猫脚の横にはらはらと落ちる。



 黒雲が月の輝きを覆うように、するすると上がっていくレースの長靴下。先端の指先が、神経質に何度も折り曲げられる。怯えたように。確かめるように。



「あまり挑発的なものは、不味(まず)いよ。ただでさえきみは、」

「退廃的だって言われているのに?」


 揶揄うような声音で、彼は私を覗きこむ。


「たかが人形遊びじゃないか」


 猫のように喉を鳴らし、彼はくっくっと笑っている。そしておもむろに立ちあがり、ガラスキャビネットを覗きこむ。


 マホガニー材で縁どられた彼の宝を守る城。彼に、富を、名声を、すべてをもたらしてくれた祈りの結晶。ケイム仕上げのガラス扉の透明の輝きの向こう側に座す、静寂の檻に住む黒髪、黒曜石の瞳のビスクドール。



 彼の瞳が愛おしげにドールを映し星空の如く輝くたびに、彼女の瞳は宵闇に沈んだ。一点の燈火を得ることもなく。

 


 何年もの歳月をかけて、彼は彼女の輪郭を指先でなぞり、陶器よりも滑らかな白磁の肌を撫で、一滴、一滴、甘美な毒を塗りこんでいった。「愛している」「愛しているよ」と囁きながら。そうやって作りあげられた、毒に蝕まれ、微笑みを失い、絶望に喘ぐ彼女の表情が、彼を人気作家に押しあげたのだ。


 月下香(チューベローズ)。彼女の面差しをそのまま写しとった人形(ドール)。彼の作りあげた、最愛の(ドール)




「退廃、背徳、結構じゃないか。みんな、刺激が欲しいのさ。もっと、甘美で(よこしま)で、後ろめたいやつがね。違うかい? 健全な美なんてもう飽き飽きだってさ。もっと、もっと、もっと……。どん欲だねぇ、人間って奴は」


 愛おしさの溢れる眼差しのまま、彼は私に一瞥をくれる。



 人形にしか注がれない。決して向けられることのなかった彼のこの眼差しを、彼女がどれほど欲していたことか。




「泊まっていくかい?」


 キャビネットの縁にもたれて、彼の瞳が無邪気に笑う。




 雲が切れ、天上から月光が溢れ落ちる庭に、危険な悦楽という花言葉をもつ白い花が咲き乱れる。

 夜の中で目覚める、むせ返るような月下香(チューベローズ)の強い香りが漂いはじめる。


 ――二輪ずつ、いっしょに咲く花だから。


 そう言ってこの花を慈しんでいた彼の妹は、所詮空漠でしかない人形にすべてを奪われ、朝焼けにその身を赤く染めて散った。



 乱れ咲く花の芳香に酔いしれる、狂える風には聞こえない。


 ふりそそぐ月の笑い声も。

 自らを呼ぶ悲しみの声も。





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