第百二十三話 今夜が山だ
「爺さんの他に医者はいないのか」
「この村で医者はわし一人じゃ」
「だが町や王都に行けば――」
「残念ながら今夜が山だ。とても間に合わん」
「くそおっ!!」
焦りに声を荒らげる俺に、爺さんは怯えも怖がりもしなかった。ただただ自分の医者としての無力さを詫びるように、「打つ手無しじゃ」と言いにくい事を言いにくそうに言った。
「こう言ってはなんだが、あんただけでも生き残ってくれて良かったよ」
そう言い残して、医者の爺さんは済まなさそうに屋敷を後にした。帰り際、「気休めにしかならないと思うが」、と前置きをして薬を渡してくれたが、俺もこれが効くとはどうしても思えなかった。
絶望的な気分で食堂に戻る。渡されたばかりの薬の入った布袋をテーブルに投げ出し、力尽きたように椅子に座る。
どうすればいいんだ。力任せにテーブルを殴りつけると、布袋が力なく倒れて床に落ちた。この布袋は俺だ。何の力も無く立ってる事もできない。
何もできない俺だけがどうしてぴんぴんしているのか。あまりの理不尽さに怒りが込み上げてくる。自分の無力さを突きつけられ、足掻く事も抗う事もできずにただ見守る事しかできない自分を殺したくなる。あの爺さんもこんな気分だったのだろうか。今となってはどうでもいい事だ。
そんな事よりもこれからどうするかだ。医者が言うには今夜が山だ。もう町や王都の医者にみせる時間も無い。バロンに助けを求めようにも、北の領地まで行く時間も無い。
こうしている間にも時間はどんどん過ぎ、コングたちの容態は悪化している。焦るとただでさえ考えるのに向かない頭がぐるぐると回り、苛立ちが怒りに変わり手当たり次第に当たり散らしたくなる。
どうして俺はこう無駄に元気なんだ。せめてこの元気をみんなに分けてやる事ができれば――
いや、待てよ。
握り締めた拳から力が抜ける。
できるかもしれない。
だがそれには大変な危険が伴う。おまけにまだ一度も試した事が無い方法だから、上手くいくかどうかもわからない博打みたいなものだ。
迷っている時間は無い。それでも俺は直ちに決断する事ができなかった。
決断を下す事ができないまま、俺はホーリーの部屋に入った。
彼女の部屋は俺のと同様に物が必要最低限しかないが、俺のとは打って変わって綺麗に片付いている。おまけに俺やコングの部屋のように汗や体臭が混ざったすえた臭いはせず、温めた牛乳のような柔らかい匂いがほのかにする。
寝台に横たわるホーリーは苦しそうに呼吸を乱し、顔中にびっしりと汗をかいている。この分だと身体のほうも汗まみれだろう。俺にできるのは、水で濡らした布で彼女の額の汗を拭いてやる事だけだった。
拭いた端から汗が滲んでくる。拭けば拭くだけ汗が出て、ホーリーの呼吸が荒くなっていく。このままでは汗が出尽くして身体が乾いてしまう。何とか水を飲ませようとするが、意識が無いのでどうにもならない。
「うぅん……」
苦しそうにホーリーが呻く。悪い夢でも見ているのか、歯を食いしばっている。もしかすると夢の中でまだ黒い霧と戦っているのかもしれない。
だったら俺も戦おう。
俺は覚悟を決めた。




