マヨイザト
十年ほど前の話になる。
当時、私は転勤である地方の営業所に配属になった。
あらかたの引越し作業も終わった三月の土曜日。
気楽な独身者であった私は、天気も良かったので、ドライブがてらに自分が担当する営業エリアを一度見ておこうと思い立った。
ナビはあってもそれほど普及していなかった時代だ。私はロードマップを頼りに車を走らせた。
二時間ほど経った頃だろうか。
私は退屈を感じ始めていた。
最初はアップダウンに富んだ山道や、路肩に咲いた春の草花を楽しんでいたのだが、集中力の途切れとともに、感動もすっかりと薄れてしまった。
そろそろ休憩が必要かもしれないな、と生欠伸をかみ殺していると、水滴がフロントガラスを打った。
空は春らしい薄い青色が広がっている。天気雨だ。
走っていたのは山と山とを繋ぐ真新しい道路である。気にならなかったが、この辺りでは天候も変わりやすいのだろう。私はワイパーで水気を払った。
そのまま車を走らせるうちにトンネルが見えてきた。
このトンネルを過ぎれば、私が担当することになる小さな街に着くはずだ。しかし、道路標識によれば後何キロも走らねばならないらしい。
トンネルの手前に、下りの細い坂道を見つけたのはその時だった。
このまま真っ直ぐに走り続けるよりは、わき道にそれた方が休憩をとれる店がありそうだと考えた私は、ウインカーを左につけハンドルを切った。
下るにつれて坂道は細くなっていく。
どうやら、山の谷間に入る生活道路であったようだ。
運転席側のサイドミラーは山の斜面に触れそうなほどで、時折、背の高い草を弾いてヒヤリとさせた。助手席側も似たようなものだった。ガードレールもない斜面にタイヤを落としてしまわないように私はハンドルに細心の注意を払わなければならなかった。
道の選択を間違えたか。
私が自分の失敗をようやく認めた時だった。
谷の底に田畑と民家の屋根が見えた。
所々に紅い花が咲いているのが分かる。
民家と言っても茅葺きの木造のもので、随分と古い。
私は助かったと思った。
正直、道の先が行き止まりであったらどうしようと思っていたのだ。
見下ろす集落の景色は田舎の原風景そのものと言った感じで、のどかなものだった。
しかし何かが、違和感のようなものが私の胸をざわつかせていた。
Uターンできる場所を見つけたら、さっさと来た道を戻ろう。
正体不明の不安に押され、私はそう決めた。
この頃には道路もアスファルトで舗装されたものではなく、砂利敷のものに代わっていた。
大きめの石を踏むたびに車は上下し、ハンドルは不規則に左右に揺れた。
冷や汗を知らないうちにかいていた。
私は、ふと右側に山の斜面側に視線をやった。
石垣にも見えたものは何十体、下手したら百体以上の地蔵だった。
赤い前掛けをつけ、所々苔むした石の地蔵はかなり古いものらしかった。地蔵と地蔵の間には赤い花が、彼岸花が咲いている。
心臓が止まるかと思った。
この季節に咲くはずのない花が咲いていたのも異常であったが、もっと直接的な事実に気づいたからだ。
無数に並んだ石の地蔵。
そのどれもが、人の顔をしていなかった。
角のあるものがあった。
牙のあるものがあった。
嘴があるものがあった。
顔の真ん中に眼が一つしかないものがあった。
犬の顔をしているものがあった。
私は情けなくも悲鳴をあげていた。
もう我慢ならなかった。
こんな不気味な場所にはいたくない。
強くブレーキを踏んで車を停めると、ギアをバックに入れて来た道を引き返した。
一秒でも早くこの場から離れなければならない。
ここは人のいて良い土地ではないと直感した。
パニックになりかけた頭は恐怖でいっぱいで、どうやってアパートまで帰ったのかも覚えていない。
ただ私はひどく疲れており、洗面台の鏡に映った顔は幽霊のように青白かった。
後日、私は前任の担当である同僚と引き継ぎのために同じ道を通った。
助手席に座った私は、ハンドルを握る同僚に休日にあった出来事を話した。
「それはおかしいよ」
と同僚は笑った。
「だって、この道はずっと一本道なんだから」
私は反論を試みたが、体験した出来事であってもまるで夢の内容を話しているように自分でも現実味がなかった。
「トンネルの手前と言ったら、この辺りだろ。どう? そんな道あったか?」
同僚は私が坂を下りたと言い張った地点の近くから、車の速度を落として走ってくれた。
ガードレールと崖を目の当たりにしては認めるしかなかった。
私は夢を見たのか。それとも幻を見たのか。
あるいは、本当に入ってはならない場所に入ろうとしていたのか。
その後、私は二年近くその地域を担当し、何度も同じ道を通ったが、再びあのわき道を見ることはなかった。
―― 終
ホラーを書くのは難しいですね。