正体
自宅でメールを受け取ってから一時間も経たない内に弾丸はメールで指定された場所、伏竜高校校舎三階にある二年A組教室の二つある引き戸の内の一つ、後方のロッカー側の前に立っていた。命と昴が所属するクラスの教室でもある。
制服姿の弾丸は普段背負っているリュックサックとは異なる、肩から掛けるタイプのスポーツバッグを左脇に抱えていた。
「やはりこれは罠か。我らが校門を通った瞬間、学校を覆う結界が変異、否、内側に別の結界が新たに張られたな。しかも脱出不可能と来た」
「罠じゃなくて俺を絶対に逃がしたくない思惑だな、これは多分。
結界自体はさ、神前の結界は改変出来なかったんだろう。
それでも一流には及ばずとも十分強力なこの結界を閉じ込められた内側から破れるのはそうだな、結界のエキスパート神前一族とジジイと母さんと叔父さんと妹の六連院宗家と本気になった豪四朗さんと美鶴先生くらいかな、俺が知っている限りでは。あれー、結構いるなー、意外と多いなー」
弾丸は右手の指を折って数えながら割と大きい声の茶化し口調で言った。扉の向こうの教室内にも声が届いた筈だ。
「そち、わかって言っておるな」
「まあな」
メールに邪魔されて自宅では言えなかった件を弾丸はつくのには伏竜への道中で伝えていた。つくのも聞いた時には多少なりとも驚いたが、然もありなんとその内容に呆れていた。
首をゆっくりと二回回し、深呼吸をする。
この扉の向こうに弾丸を招待した悪魔がいる。柳瀬薫子を含む三十六人の女性を襲い、その内六人を手に掛けた人の世に仇をなすモノ。退魔士が討滅せねばならぬ敵。
ガラッと勢いよく引き戸を開けた。
電灯はついておらず、教室内は暗い。室内は血の臭いで満たされている。弾丸は一般的な日本人の生活を送っていれば無縁のこの臭いを一切気に留めず、足音無くすっと入室した。
教室までの校内も暗く、弾丸の目はすっかり暗闇に慣れていた。そんな彼の目が倒れた司旗と夜叉丸を直ぐさま発見した。
メールに添付された写真と同じまま、一人の特科講師と一柱の式神は床に転がされていた。
弾丸は写真に写っていたもう一人である命の姿が見えない事に気付いていたが今はあえて無視し、彼らに近付き足で司旗の体を軽く小突いた。講師に対して失礼ではあるがしゃがみ込むと何か起こった際に初動が遅れてしまう可能性がある。特科講師ならば許してくれるだろうなんて弾丸は考えない。加えて、写真を見た時から予想していた事態を確認する為なのだ。
小突かれた司旗の体から反応は見られなかった。弾丸の予想通り、彼は既に絶命していた。
致命傷となった一撃は司旗の胸を貫通しており、心臓は完全に破壊されていた。一見して彼の死体に抵抗や戦闘の痕が無い。床が流れた血であまり濡れていない。ここではない別の場所で奇襲を受け、背後から鋭い刃で一突きされたのだと弾丸は判断した。
弾丸は心の中で司旗の冥福を祈りつつ、隣の夜叉丸も同様に小突く。本来、霊的な存在には触れることが出来ない弾丸だが、実体化していれば彼でも触れられるし霊視が出来ない一般人にも見える。故に弾丸は司旗に関しての予想とは異なり、夜叉丸については楽観的に考えていた。
小突かれた夜叉丸は小さく呻き声を上げた。生きている。
「夜叉丸」
弾丸は周囲への警戒はそのままで夜叉丸の側に片膝を突いた。すぐに動ける様、態勢は低くし過ぎない。
写真に写っていた夜叉丸を見て、実体化は解けていない事実に夜叉丸はかなりのダメージを受けてはいるが消滅する程ではないと弾丸は考えていた。もし深刻なダメージであれば実体化が解けるどころか、高位の犬神とはいえ現世から消滅していただろう。
弾丸は左手でスポーツバッグの口を開け、それと同時に右手でブレザーの右ポケットから紫色の球を一つ取り出した。それを夜叉丸の口の中に放り込み、右手で吻を掴んで飲み込ませた。
そして、教室に入ってから初めて弾丸は姿勢を低くして夜叉丸の耳元に口を寄せ、二言三言小声で言った。
聞いた夜叉丸は目を一瞬見開くと微かに頷き、どこか安心した様にも見える表情で目を閉じた。
弾丸が夜叉丸に与えたのは神前製の丸薬だ。神を含む霊的存在が負った傷や体力をある程度まで癒やし回復させる効能がある。欠点は人が飲んでも人には効かない事、霊的存在も実体化出来なければ飲めない事、最後に値段がべらぼうに高い事だ。
実体化出来ないつくのには無用のそれを主である弾丸が持っていたのは、昴が退魔の仕事で弾丸に持たせていた荷物の中にあった品だからだ。神前から購入したのは陸奥家なので彼の懐は全く痛んでいない。必要だったとはいえ躊躇無く夜叉丸に使えたのはこういった事情があった。自分が購入した物だった場合、弾丸がどうしていたかは夜叉丸は知らない方が良いだろう。結果的には助かったのだし、些細なイフでしかない。
「さて、そろそろホストさんもわざわざ来てあげたゲスト様に姿を見せてくれないか」
弾丸は立ち上がると静かに、しかし明瞭な声でこの小さな地獄を用意した主催者に呼び掛けた。
相手は自分に今はまだ危害は加えないという確信が弾丸にはあった。
教室に入ってからこれまで周囲に注意を払っていたが、気配はなかった。
殺気や害意といった意志も全く感じられなかった。
夜叉丸に薬を与えている時には無防備な姿を晒したが何の動きも無かった。
つまり相手は自分をいつでも殺せるという自信を持ちながら、殺す前に自分に何かをしたいといった思惑で動いているのがわかった。だから、呼び掛けたのだ。
「あら残念。折角御招待したのに僕の趣向はお気に召さなかったかしら? 動揺したり、怯えながらも気丈に振る舞ったりしている姿の方が男の子は可愛らしいのに」
「退魔士の家に生まれたんだ、知り合いの死体見たくらいで動揺したりしねぇよ」
「強がっている、わけではなさそうね。つまらない、ああ、つまらない。聞いていた話での印象と全然違うじゃない」
ハスキーボイスが教室に響いた。
弾丸が立っているロッカー側とは反対の黒板側、彼以外生きている人間が居なかったこの教室の教卓の前にいつの間にか一人の女が立っている。
美しい女だ。
紫色のルージュがよく似合う、寒気が走る程の色気を持つ女。
形の良い大きなバストや艶めかしいラインを描く腰から尻を黒の生地に赤い斑点がいくつも散らばった模様のチューブトップとデニム生地っぽいホットパンツで着飾っている。
見える素肌にはあちこち刺青の様な赤紫色の独特な紋様が走っていて、特にへその周りには魔方陣が描かれている。
顔は肉体の豊満さに反してあどけなさが残っており、特に鋭い犬歯と猫目がキュートな少女の印象を女に与えている。
だが、この世の物とは思えない美しさとは別に、女にはこの世のモノとは思えない見逃せない異常な特徴が二つあった。
一つは首にかかる長さで切り揃えられたブルネットの髪と同色の猫耳とその間に被った王冠。
一つは背中から伸びている毛の生えた節くれ立った四本の蠢く蜘蛛の脚。
人の姿を基にしながらも人ではない異形の女。
人外の化け物、悪魔が姿を顕した。
「神前の姫君と陸奥家の麒麟児が見えない。二人はどうした? 要求通り誰にも教えず一人で来たんだ。二人の無事をまず確認させろ」
「焦らないでね、六連院の長男くん。あなたの言葉一つで彼女達がどうかされちゃうのよ?
それに早漏は女に嫌われちゃうわ。ゆっくり、じっくり楽しみたいのが女なのよ、……んんっ」
悪魔は口から蛙の様に細長い舌で舌なめずりをし、紫色の長い爪が映える両手で己の巨乳を揉みしだく。
「イニシアティブはそちらにあるってか。六連院の長男くんって俺を知っている、いや訂正する。俺を指名して呼び出してんだ、知っていて当然か。
で、俺に用があるのはあんた、じゃないな。あんたを召喚した屑野郎の方か」
「君をここに呼び出したのは僕じゃないよ。君には個人的な興味はあったけどね。
そんな事より、僕の事あんたなんて呼んじゃいや。僕にはバエルって立派な名前があるんだから。
次にあんたなんて僕を呼んだら落ち込んで僕、人質のお目々を抉り出して、その硝子体を混ぜて作ったカクテルを飲みたくなっちゃうよ?」
「オーケィ、オーケィ。バエルだな」
「うん、従順なのは嫌いじゃないよ。ご褒美にお姫様と王子様を見せて上げる、って言っても二人共すぐそこに居るんだけどね」
バエルがそう言った途端、教室内が一部変化した。彼女から生えた蜘蛛の脚一本の先に引っ掛けられぐったりとした姿の昴が突然出現した。彼に意識は無いようだ。
そして、両手足を拘束され宙に吊された状態の命も弾丸のすぐ隣にいきなり現れた。昴とは違い彼女に意識はあるようだが、何か様子がおかしい。
悪魔が突然現れても驚かなかった弾丸でも、そこに居なかった者が側に一瞬で現れるのには心底驚いて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。それでも姿勢を崩さなかったり、周囲への警戒を怠らなかったのは祖父と母に叩き込まれた修業の成果であろう。
「驚いた顔も意外と可愛いね。弾丸くん」
「魔王だろうが何だろうが会長以外が会長の声で俺をそう呼ぶんじゃねぇ」
「ふふふ。本当に君は可愛いよ、弾丸くん」
人を惑わす悪魔由来の業なのかバエルは『弾丸くん』の部分だけ声を命の声にした。
その声を聞いた弾丸は睨み付けるが、彼女は気にせず命の声でまた呼んだ。あからさまな挑発に乗る気なんて彼にはさらさら無いが、胸くそが悪いのに変わりは無い。
「…………! ………………! ………………! ……!?」
「会長?」
宙吊りにされている命が口を大きく開いて何かを伝えようとしているが弾丸の耳に彼女の声は一切届かない。彼の耳が突発的に悪くなったのではない。彼女の口から声が全く出ていないのだ。
命本人も己の声が失われている事実に途中で気付き、為にひどく驚いていた。
「バエル、お前が会長から声を奪ったのか?」
「違うよ、変声は自前。奪ったんじゃなくて封じたが正解。あと僕がやったって決めつけちゃうのはひどい冤罪だよ。やったのは僕の主様。主様曰く彼女の祝詞を上げた術は厄介だとね」
「神前の祝詞を知っている主様、ね。バエルの召喚者の真の狙いはやっぱり会長。柳瀬を含む三十六人の女は決して目的ではなく、ただの手段だったわけか」
腕を前で組んだバエルが微笑んだ。両腕で潰した彼女の豊満な乳肉が脇から溢れて、ひどく扇情的だ。
対して弾丸は、大抵の男なら目を奪われる光景を前にしても美鶴先生並かと脳内で判ずると、命が宙吊りにされている天井に一瞬だけ目を向けた。そして、彼女を蜘蛛の糸で二箇所から吊っているのを認め、それら二本の起点も一緒に見つけた。
「僕にとってはどっちも手段であり目的でもあるんだけどね。彼女と三十六人との間には重要度の高さという違いはあるけど。主様については御明察のとおり。
しかし、僕が聞いていた以上に凄いね、弾丸くんは。僕が魔王の座にある悪魔だって知っていたしね。でも、どうしてわかったのかな?」
「昔うちのジジイが海外で西洋の悪魔共を相手にドえらい目にあってな、それで西洋系のオカルトの研究つーかマジな勉強を一族全部に命じたんだよ。だから、知識だけは俺にもあるってわけさ。で、バエルって名前といえば」
弾丸はあえて言葉を続けなかった。気を失っていた昴が目を覚ましたのだ。
気が付いた昴の目は最初寝起きすぐの様なボーッとした物だったが、宙吊りで拘束された命の姿が映ると普段の輝きをすぐに取り戻した。
「ん、…………っ!? 命ちゃんっ! くそっ! 動けない! だ、弾丸っ!? 何でここに!? いや、今は僕の事はいいっ! 何よりも命ちゃんを優先してっ!」
昴に声を掛けられた命は何故か苦い表情を浮かべ、彼を見詰めながら何かを言おうと口を開くが相変わらず声が全く出せない。
「王子様もお目覚めになったんだね。こういうシーンならお姫様のキスがお約束じゃないかなと僕は思うんだけど?」
「黙れ、この悪魔がっ!」
「こういうシーンでのお約束って言うが、おいバエル。吊された眠れる王子様にこれまた宙吊りになったお姫様がキスをするってどんな童話だよ? ドM向けか?」
「ふふっ。僕みたいな美女に踏みにじられて悦ぶブタ用かな? 君もそんなブタの一匹なのかな?」
弾丸の言葉にバエルは声を出して笑った。彼も冗談は勘弁と言って、くくっと小さく笑いながら右手でブレザーのボタンをそっと外した。
「何を暢気に笑っているんだ、弾丸!? 早く命ちゃんを!」
「さっきの続きなんだがバエル、またの名をバアル。豊穣の神を起源としたソロモン72柱の一。
もっとおどろおどろしい姿だとイメージしていたんだが、実際はとんでもない美人だな。バエルについて王冠を被った人間と猫と蛙の頭を持った蜘蛛みたいな化け物って本には書いてあったんだが?
まぁ、それらのキャラ要素はその姿でも見られるけど」
「あは、君の言うおどろおどろしい姿にも僕達悪魔はなれるけどね。低位の雑魚共はいざ知らず、僕みたいな魔王や位持ちに姿形なんて無意味なモノだからね。
化け物の姿で在りたいなんてナンセンス、醜さよりも美しさ!
僕としてはKAWAIIを目指した姿でもあるんだよ、この姿」
「あ、なるほど。だから猫耳ってわけ」
「ね、KAWAIIでしょ? そうだ、これは君達人間が神々と定義する連中にとっても同じだよ。これ高位存在トリビア♪」
「高位存在、ね。いや本当に参ったな。ジジイや母さんを引っ張り出すレベルとは聞いていたけど、予想以上で流石に参ったな」
「弾丸っ! 命ちゃんを連れて逃げるぐらいなら君にでも出来るっ! 僕を置いて早くっ!」
端から見れば暢気に談笑している弾丸とバエルに苛立ち昴は声を荒げた。
弾丸はアメリカ人がする様に手の平を上げ肩を竦めた。この危険な状況下での彼のどこか芝居がかった仕草を目にして、昴の苛立ちが一層増す。
昴に睨まれた弾丸は溜息を一つ吐いて、何故か失笑した。
「逃げろ逃げろ言うけどよ、昴。この魔王からそう簡単に逃げられるわけないだろ。その事を一番よく分かっているのは召喚者であるお前だろ、昴」




