退魔
静寂が支配する深夜の街。
日付が既に変わって家々の明かりも消えた頃、たまに聞こえるのは近辺をタクシーやバイクが走り抜ける音だけだ。
週末明けの夜更けに外を出歩く人も少ない。
『グゥアァァァァっ』
そんな静寂を破る苦悶の唸り声。
獣のものと思わせる様な恐ろしい響きを持った声色。
だが、この唸り声は人の耳には届かない。常人には聞こえない。誰も眠りから覚めることはない。たとえ聞こえたとしても、聞いた者の身も心も竦んでしまう超常の声。
それは化け物。
この世の闇に潜む、人には見えぬ聞こえぬ感じられぬ故に識られぬ人に仇する存在。妖怪、怪異、怪物とも呼ばれる人が想像上のモノだと思い込んでしまっている魔の輩。
とかく化け物は人より遙かに強く、人は化け物より遙かに弱い。
人は知らず知らずの内に化け物の魔手にかかり、不条理な運命を嘆きながら死んでいく。遺された人々は死者の不運を哀れむ、その死の本質には気付けぬまま。
これでは化け物だけが有利なワンサイド・ゲームではないのか。
世界は奴らが人を弄ぶ狩り場でしかないのか。
人は奴らに対して絶望しかないのか。
否。
『う、動けんっ。お、おのれ……! 人間如きが鬼であるオレをこうも容易く捕らえるだとぉ!?』
人は弱い、だが無力ではない。
人の中に闇に潜む化け物共を関知し、戦い、討ち滅ぼせる者達がいるのだ。
「その様子だと僕達みたいに君ら悪鬼を降伏する退魔士がいるって事、知らなかったのかな?」
「おい昴、そんなワケないに決まってんだろ。こいつら化け物共でもこの世じゃない向こう側でコミュニケーションぐらい取ってるだろうが。あ、そこの鬼が重度のコミュ障だったらあり得るか。
それよりな、僕達って言って俺を含めるんじゃない。鬼が勘違いする」
動けぬ鬼に応えたのは二人の少年。
鬼と対面する私立高校の制服を着た少年の名は陸奥昴。彼の両手の三指に嵌めた指環六本の内二本、正確にはそれらに填め込まれた宝玉二つが神秘的な輝きを放っている。照らされた面差しが美しい、十代後半の少年だ。
さらに昴の足下にはこれまた美しい、大きな体躯の白い犬が彼を護る様に逞しい四肢で立つ。牙を剥き唸る、昴と対峙する鬼を威嚇する為に。全身には朱い紋様が走り、唸り声を立てる度鈍く光った。その姿はこの世に存在しているのかと疑ってしまう程、幻想的だ。
この犬は召喚され昴と主従の契約を交わし彼の式神となった高位の犬神。主である昴が付けた名は夜叉丸。神格の高い犬神で力は強く、その牙と爪は主の眼前に立つ鬼程度ならば容易く切り裂き食い千切るだろう。人の身でこのレベルの霊的存在を召喚し契約するのは不可能ではないとはいえ、相応の才能と実力を術者に要求する。
そもそも昴の生家はさる高名な退魔を生業とする大家の分家にあたり、その陸奥家の中でも彼は退魔士として麒麟児と呼ばれる程の才能を持った術者なのである。
「にしても相変わらずだな。開始早々こんなんだと夜叉丸の出番が今夜もないじゃねぇか」
「いつも頑張ってくれている夜叉丸にはこの程度の事で手間をかけさせたくないんだ」
「この程度って。昴くーん、君がこの程度って評した目の前の動けなくなった鬼ですが、並の術者だと相手するのに半ダースは必要だと思いますよー」
「並の術者だったら、でしょ。分家の出とはいえ、六連院の末席に名を連ねる身だからね。これくらいで音を上げられないよ。君がそれを一番解ってなきゃだよ、弾丸」
「アーキコエナイキコエナイー。宗家を超えると期待されているホープにそう言われると俺の立つ瀬がなくなるー」
鬼と正面で対峙している昴の約二メートル後ろで両耳を塞いで首を大袈裟に横に振るもう一人の私服にネックレスを着けた少年、名を六連院弾丸。
古より魔に属すもの達から日本を守ってきた大家の一にして退魔の名家、六連院。
リュックを背負いトレーナーのポケットに両手を突っ込み観戦している、鬼と戦っている昴と比較すると見た目不真面目な少年、弾丸は六連院宗家の嫡男である。将来、陸奥家を始め分家全てを率い六連院という退魔の一族を導いていく者である。
「あー、そこの鬼ー! お前の不運は相手が既に退魔士として一流の昴だった事だ!
俺は関係ないからな!
俺を恨むなよ!
恨んだり呪ったりするなら昴だけにしろよ!
俺はお前に何にもしてないからな!
俺は昴の荷物運びしているだけだからな!
俺はお前ら化け物を見たり聞いたり感じたりは出来るが、術とか使えないどころかお前らに触れもしないんだからな!
お前を退治する事には全く関わっていないんだからな!
勘違いするなよ!」
退魔の一族を導いていく者である、筈なのだがこの弾丸、退魔の才能が皆無なのだ。化け物や霊的な存在を見る聞く感じるのは生来出来るのだが、退魔に必要な術を一切行使出来ない。
つまり六連院弾丸は無能、なのである。
「弾丸。それでも君は宗家の一員なんだ。将来、僕達分家を率いる宗主にもならなきゃいけないんだよ」
「嫌だ!
俺は高校卒業したら株とかをコロコロして大金作ってアメリカに移住するんだ。宗主なんてやってられっか!
それにジジイ生きているし現役だし、まだ大丈夫さ。ジジイがくたばっても母さんがいるから当分大丈夫。未来を約束された才媛って評判の妹もいる。六連院は安泰だぜ!
何なら俺がジジイに推薦するから昴が六連院の養子になって宗主になれば」
「弾丸。馬鹿な冗談も程々にしないと僕も怒るよ」
「悪い」
冷たい声の昴に即座に謝ったが、弾丸は未だに小声で冗談じゃないのにと呟いている。
この少年、才能も無ければやる気もない。六連院宗家の人間とは思えない程に。先に語られた通り、弾丸の周りには傑出した才能の持ち主が揃っている。
しかし、彼は別に諦観しているわけではない。
他は他、俺は俺。そう考えているだけなのだ。
実際、大金を得ようとする手段も退魔を生業とする家に生まれたからこそ得られた眼や耳を最大限利用すると企んでいる。
退魔の大家に生まれ落ちたのを悲観しているわけでもないのだ。宗家だの跡取りだの分家が己を見る目だのは心底面倒くさいと感じてはいるが。
『ぐ、ぁぁ、おぉ…………。おの、れ。おのれぇ』
「このまま省エネ志向でじりじりと削って穏やかに封印しようと思ったけど、明日も学校があるし、一気に滅するよ。いい加減、見苦しいしね」
『おのれおのれおのれおのれぇぇぇぇ!』
「うん、やっぱり見苦しい。
風よ、啼け。風の嘆きを聞き吼えろ、炎。朱く猛り吼え続けよ、己が尽きるまで。
六式退魔術、滅魔の章、謳風炎吼!」
『いぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ!』
辺りから強風が身動き一つ出来ぬ鬼の元に集まり旋風になる。そして、鬼の足先に小さな火が灯り、刹那に鬼の全身を業火が包み込む。数瞬後、猛っていた炎は消え、鬼は跡形もなく消滅していた。その悪しき魂さえも。
「お見事。でも、あれってオーバーキルじゃないか?」
「ありがとう。んー、一仕事終えて飲む冷えたスポーツドリンクは美味しいね。
そうかな? 早く終わらせたいのもあったし、実戦での威力を確認したかったのもあったんだ」
弾丸が労いの言葉をかけながら昴にリュックから取り出したペットボトルを手渡した。昴は渡された物を一気に半分近くまで飲み、弾丸の質問に答えた。
犬神の夜叉丸は鬼が滅した後も昴の側を離れず、周囲への警戒を解いてない様子だ。
「そうか。あのな昴、術の威力がまた上がってないか? 俺の見た感じなんだけどさ」
スポーツドリンクの残りをまた一気に飲み干した後、昴は口を開いた。
「間違っていないよ、弾丸。最近、僕の地力が強くなり続けているみたい。成長期、なのかな?」
「成長期、ね。体の調子が悪いとかじゃないんだったらいいんだけどよ。最近、お前キツそうというか辛そうにしていた時があったからさ。あ、たまにだからな」
「うん、たまにちょっとキツいかなって感じる時はあるかな。成長期の成長痛みたいなものだよ、きっと。自分の実力が上がっていくのが嬉しくて、無茶な修業をしてみたりもしたから。張り切り過ぎるのも良くないね。
心配かけてごめんね、弾丸」
「気にすんなって。今日は学校でも仕事でも元気そうだったしな。お前が倒れると困る」
「ははっ。そうだね、肝に銘じておく。僕が仕事出来ないと弾丸が困るからね、金銭的に」
「あのな、そうじゃなくて、いやそこは否定しないし出来ないが。お前の家族も心配するし、うちも心配する。会長も、勿論俺もな。だから、無理はすんなって言ってんの」
「うん、わかってる」
今度は昴が空のペットボトルを弾丸に手渡す。
「ごめんね、こんなゴミ処理までさせて」
「気にすんな、いつもの事だ。しっかし、市販の飲み物も飲まさないって過保護にも程があるだろ、陸奥家。麒麟児自身は大好きなのにな、これ」
「僕の体質もあるから仕方ないよ。陸奥家だって僕の事を慮っての取り決めだからね。でも家で出される自家製スポーツドリンクの味、微妙なんだよね」
「不味いって言っとけ。俺以外誰も聞いちゃいない」
「うん、だね。不味いよね」
「よしっ。では凱旋しますか、陸奥昴殿」
弾丸と昴と夜叉丸、二人と一柱が並んで静かな夜の街中を歩く。
本日23:00に次話『報酬』が更新される予定です。