境界の国、鯨壺
「――と、言う訳でなあ」
伊吹十三は目の前の深青色の壺を見遣って言葉を切った。
「そのう、なんというか、掴まされちゃったんです?」
「……面目ない」
伊吹は居心地悪そうに視線を逸らし、冷めた茶を呷った。
伊吹十三は古物収集家である。但し、彼が得意とする分野は刀剣の類であり、加えて言えば美術的価値以上に曰く因縁を有するものを対象とするため――壺や絵画といった古美術の類は、全くもって彼の専門外であった。
「鯨壺と言っていた」
「どういうものなんです?」
あとりが尋ねると、伊吹は顎を擦った。
「何でも、この壺の中に鯨が棲んでいるらしい」
壺の中を覗き込むと、外側と同じく海の底を思わせる深い青色の壺の底が見えるばかりだった。
「くじら、どこにいるのかしら」
「そこまでは聞かなかったな」
あとりは苦い顔をする伊吹の横顔を盗み見た。この男、悪い者ではないのだが、今回はそれが災いした。彼は良く言えば人が良く、悪く言えば人の言葉を鵜呑みにしすぎるきらいがある。
「十三さん、もうちょっと人を疑うことを覚えたほうがいいです」
「……面目ない」
悪い気配は感じないが、専門外なので処遇は任せる、との言葉と、壺を収めた桐の箱を残し、伊吹は屋敷を後にした。
若き屋敷の主は、件の壺を一通り睨め回し、一つ二つ文句を唱えた後に溜息を吐いた。
「とんでもないもの掴まされたわね」
苦笑いを浮かべながら、あとりは小首を傾げてみせた。
「と、言うと」
あとりの胸元に無理矢理壺を押し付け、紗綾は腕組みをした。取り落としそうになり、あとりは慌てて壺を両腕の内に掬い上げる。
「これ、景色を切り取る呪術の一種だ」
「呪術?」
「そう、まじない」
意図を図りかねるあとりに、紗綾は滔々とこの壺の由来を説き始めた。
「――どっちかっていうと、大陸の方の天人たちの暇潰しに由来するんだけどね」
紗綾が言うには、暇を持て余した大陸の天人らが、自身の気に入った景色を呪術的に切り取り、壺や箱といった密閉空間にそのまま再現し、互いに持ち寄っては切り取った景色の美しさ、希少性といった価値の優劣を競う遊びが流行った時期があったのだそうだ。盆栽や金魚鉢のようなものだろうか、とあとりは勝手に合点した。
「まあ、景色だって鮮度のあるものだから、そのまま壺に入れておいたって半日も持たないわけでしょう。同時に一番美しい一瞬をそのまま半永久的に封じ込める術が求められた」
こんこん、と、あとりの抱いた壺を紗綾が小突いた。
「いろんな手法があるけど、切り取った光景に最も適した方法が選ばれることが多かったそうよ。例えば、水の中なら水を抜いて長期保存し、見たい時に再度水を加える事で切り取ったその時の光景を壺やら箱やらの内に再現することが出来る。恐らく、この鯨壺というのはその類なんでしょう」
あとりは胸元の壺をもう一度覗き見た。中はやはり空で、暗青色の壺の壁面が見えるだけだったが、よくよく目を凝らして見ると、壁面に気泡や小魚の群れが記してあるようだった。底に海底の砂地のような模様が刻まれているような気がするのは、紗綾の薀蓄を耳にした後だからだろうか。
「じゃあ、この壺の中に水を入れると……」
「海に戻るかもね、鯨入りの」
郷に棲む妖のうちでも五指に入る程度には永い時を過ごしてきたあとりだが、海の側で暮らしたことはそう多くない。鯨という名を耳にしたことはあるし、近頃は酒のあてに出されたこともいくらかあったが、実際に鯨という生き物が泳いでいるところを目にしたことはない。海に縁のある妖であればその機会に恵まれることもあったのだろうが、生憎あとりはどちらかというと水が苦手な方だった。
「鯨、見てみたいです」
「やめときなさい」
紗綾がぴしゃりと制止した。
「暇人の天人共ならともかく、私もあんたも、正しく戻す方法も、逆に水を抜く方法も知らないでしょう。加えて鯨の世話なら尚更よ」
さっさと仕舞って持ち主に返しなさい、と桐の箱を手に取った紗綾が声を上げた。
「あ」
「なんです?」
紗綾の手には、箱から取り出したくたくたの油紙があった。
「……覚書。多分、この壺の作り主の?」
「まあ」
後日、伊吹は再び紗綾の屋敷を訪れていた。
「土産でもと思ったんだが」
折詰の干菓子を差し出すと、出迎えたあとりが「まあ、偶然」と受け取った。何が偶然なのか、伊吹はまだ聞かされていなかったが、何某かの見当は付いたのだろう、と伊吹はひとり頷いた。
「どうぞ、上がってください」
促されるまま茶の間に上がると、屋敷の主が正装の白装束姿で座っていた。手元には伊吹が預けた桐の箱がある。
「まさか巫女殿に視てもらうことになるとはなあ」
「これに懲りたらもう妙なもの持ち込まないでよね」
申し訳無さそうな素振りもなく頭を掻く伊吹に、紗綾は肩を竦めてみせた。
「で、一応持ち主に確認しておきたかったんだけど」
差し出した座布団に伊吹が腰を下ろし、刀を畳に置くのを確かめて、紗綾が口を開いた。
「この壺に、水を入れてもいいかしら」
「入れるとどうなる」
「愉快なことが起きる、と思う」
「ふむ」
伊吹は持ち込んだ刀を撫でた。どこに行くにも手放さない、彼のお気に入りなのだそうだ。
「この御転婆よりは安いものだ。構わない」
真剣な面持ちでやり取りする二人の間に、干菓子と茶を抱えたあとりがひょいと割って入った。
「信用しない方がいいですよ、紗綾。十三さんはお金に頓着しない人だもの」
「分かってる。どうせこの壺一つで家が建つんでしょ」
紗綾が頷いた。
「いくらなんでも家は建たんぞ。蔵なら何とか建つだろうが」
「世間ではそれを無駄遣いというのよ。分かったかこの時代錯誤の浪人崩れが」
「むう」
伊吹が勝手気侭な刀集めを趣味に出来ているのは、彼が由緒正しい武家の家系の三男坊だからだというのは郷の人間にはもう大分知れ渡った話だ。旗本の三男坊は概ね身分を隠して退屈を持て余したり、家の財で好き勝手に遊び歩いたり、時に悪者を懲らしめたりするものなのだ。
「じゃあ伊吹さんの了承も得たことだし、始めるわよ。あとり」
「はい」
あとりが木桶と柄杓を紗綾に差し出した。
「昨晩のうちに汲んでおいた水よ。塩も少しばかり足してある」
紗綾は簡単な説明を加えながら大仰な動作で恭しく柄杓を掲げ、そして桶から水を掬いあげ――まずは、一滴。
水滴を受けた壺が、一瞬、仄かな光を灯した。
光はすぐに消え、壺は元の暗青色に戻ったが、伊吹が覗き込むと、壺の底の砂文様が微かに蠢いた。
「おお」
「上手くいったみたいね。続けるわ」
紗綾は柄杓の中の水を静かに注ぎ入れる。その間にも、水は壺に染み渡り、深い青色は次第に燐光を纏った乳白色を取り戻していく。
とぷん、と壺の中の水が跳ねた。
「きゃっ」
「これは」
興味津々で壺を見守っていたあとりの目の前でもう一度、米粒ほどの大きさの魚の群れが跳ねた。縁側から差し込む光を受けて魚の鱗が煌めくのを、伊吹はほうと溜息を吐いて見送った。そう広くないはずの壺の中を悠々と泳ぎまわる群れに、紗綾も思わず息を呑んだ。
「……驚いた。本当に魚まで出てくるんだ」
「説明してくれたのは紗綾でしょう?」
「そりゃそうだけど、話に聞くのと実際に見るのじゃ大違いよ」
尚も紗綾は柄杓で水を注ぎ続け、壺の首までたっぷり浸かったところで手を止めた。
「さて、鯨殿はいつ現れるのかしらね」
三人はしばらく押し合いへし合いしながら壺の中を眺めていたが、先の魚の群れや海中の景色以外に現れるものはなく、そのうち足腰が大人しく座らせろと訴え始めたので、諦めて先ずは一服する運びになった。
「私、着替えてくる。何かあったら呼んで」
「分かりました」
紗綾が奥の部屋に引っ込むのを見送って、あとりは伊吹と顔を見合わせた。
「鯨はともかく、すごいものだな、これは」
「そうですねえ」
干菓子を口に放り込んで熱い茶を啜り、二人は飽きるでもなく壺を眺めた。
深い青色の外壁は今は見る影もなく、青みを帯びた淡い乳白色の滑らかな青磁にすっかり様変わりしている。それなりに丈のある壺は、覗き込まなければその中身を窺い知ることは出来ないが、偶にとぷんと音を立てて魚が跳ね、その中には確かに海から切り取られた光景が広がっていることを思わせた。
「こんな小さな壺の中に、海を閉じ込めてあるなんてなあ」
「十三さんは、海を見たことがあるんです?」
伊吹はぐいと茶を呷り、そして熱さに舌を吹いた。
「子供の頃に少しだ。親父殿が釣りの好きな人でな、よく着いていったもんだ。腕前の方は……まあ、察してくれ」
「川釣りしてるところはこの間見かけました」
「ボウズだった」
「ぼうず?」
あとりの疑問に伊吹は答えなかった。代わりに、黙って壺を指差した。
あとりも伊吹に倣い、壺を見つめる。
「なんです?」
「しっ」
乳白色の壺の表面を、大きな黒い影が横切っていった。
「えっ」
「いたな」
もう一度、二人の目の前で、大きな影が壺の表面を渡っていく。
影がぐるりと壺の裏側に回る直前、端の流線型の部分がゆったりと揺れる様が見えた。
二人は思わず息を潜めていた。
「……魚かしら?」
「それにしては大きすぎるが……大きい?」
三度、影は二人の前に現れた。
よくよく見れば巨大な魚のようにも見えるその影は、その大きな体を悠々とくゆらせて、二人をからかうように壺の表面をぐるぐると巡り、反対側に姿を消しては幾度と無くこちらに戻ってくる。
鯨だ。
鯨の影が、壺を泳いでいる。
二人は恐る恐る壺を覗き込んだ。が、先程までと変わらず、そこには魚の群れが泳ぎ回る海が広がっているだけだった。あの大きな影の主は、影も形も見えない。
「何か変わったことでもあった?」
後ろから紗綾の声が掛かる。紗綾はもうすっかりいつもの洒落た洋装に着替えていた。
「しーっ」
伊吹がやってみせたように、あとりも紗綾に壺を見るよう促した。相変わらず、例の影は楽しそうに壺の表面を我が物顔で泳ぎまわっているので、紗綾もあっと声を上げ、それからあとり達と同じように壺の中を覗き込んで、影の主が見当たらないことに首を傾げた。
「何よこいつ」
「多分、鯨じゃないかなって」
「こんな大きいやつ、どうやって封じ込めてるのよ。それも、影だけなんて。本体はどこ」
頭を抱える紗綾を尻目に、伊吹は眩しそうに目を細めながら鯨の影を眺めていた。
「理屈はともかく、愉快な眺めじゃないか、なあ」
持ってくるものを間違えたな、と、伊吹は笑い、温燗でいいですか、とあとりは台所に向かった。
その後、件の鯨壺は伊吹に引き取られ、伊吹の家の床の間に飾られた。普段は覚書に従って水を抜いてあるのだが、伊吹にいたく気に入られたのか、時折塩水を流し込まれては、酒盛りに付き合わされているらしい。
実態のない鯨を封じ込める術について試行錯誤した紗綾はとうとう知恵熱を出して半日ほど臥せったが、例の覚書の注意書きを読み直して、意地の悪い天人の残した文面に大層憤慨し、もう二度と付き合わん、と伊吹に突っ返して忘れることにしたようだ。
そして、あとりは。
今宵も黒の着物をなびかせて、伊吹の屋敷に押しかけていた。秋口の空は高く、山から吹き下ろす風は少し冷え始めている。
「壺中の鯨、山に在りて月を仰ぐ、か」
「風流ですねえ」
縁側に据えた壺の内で鯨の影がゆるりと身を捩るのを眺めながら、伊吹は手の中の猪口を傾けた。あとりもそれに倣う。
「もう熱燗が美味しい時期です」
「あとり殿は色気より食い気かな」
「そればかりじゃないですよ、もう」
伊吹の心ない反応に苦笑しながら、あとりは件の壺の覚書を何とはなしに広げてみた。
”――この壺の名の由来であるところの鯨だが、このような狭い処に閉じ込めるのも心苦しいので、その影のみを映す仕掛けとしておく。尤もこの術は私が得手とするところのまじないの一つであり、生半可な天人では真似の出来るものではないことを付け加えておく。況や地平の人をや”
あとりは思わず笑いを漏らした。
「理屈はわからなくても、お酒は美味しいんですよ」
「ついでにあてがあるともっと美味いな」
いつの間にか、台所に引っ込んだ伊吹が小皿を持って戻ってきていた。
「それ、何ですか?」
「うむ」
鯨肉の燻製だ、と伊吹はあとりに耳打ちした。
「わあ、ひどい」
「どういうものか試してみたくて取り寄せたが……あとり殿は好かなかったかな」
「そんなことはないです、ええ、そんなことはありませんとも」
意地悪く笑う伊吹に、あとりは必死で縋り付いた。
各々の思惑を知ってか知らずか、鯨の影がひとつ、物言いたげに尾鰭を揺らした。
(了)




