ニッポンが死んだ日
確か昔、明治天皇というのが死んだ。学生時代の、その場凌ぎの丸覚えだったから断言はできかねないが、一度祖父に話をしてもらった事もあるかもしれない。いずれにしても、後にその位は引き継がれて、それから幾度も天皇が死んだ。
そしてまた天皇が死んだ年の冬──私の祖父は亡くなった。
独特の暗い世相の中、死んだ私の祖父の葬儀は厳かに行われている。
「享年97歳、あともう少し長生きできていればと思います」
「そうですよね。でも実を言うと、祖父は体にナノマシンも入れてなかったんですよ……曲がり者でしたから」
そう事実を言うと、隣に座る伯母は如何にもな驚きの顔に自分の手を持ってくる。驚きを隠そうと、どこか訝しげに構えられた手には黒い手袋。きらびやかな腕時計はそんな喪服と合わさって、絶妙に違和な調和を香らせていた。
祖父は、とても偏屈な人間だった。まだ子供だったあの頃の私でさえ、その様々な言動から祖父の他とは違う変なものを感じていた。
その捻くれた意志の一つが、医療技術の叡智──抗老化医学の恩恵を断固として拒絶していた事だ。この時代、ナノマシンを体に入れない人なんて、相当経済的に困窮しているか、もしくは生体的に拒絶してしまうかのどちらかしか思い当たらない。
ナノマシンを体内に摂取しない事とは、同時にその叡智を享受できない事を意味する。人体の生理現象のほぼ全てを常時監視し、必要があればそれら生体個人情報を医療機関に転送するという役割を持った医療ナノマシン。その情報を基に処方を施す医療機関。それらを祖父は忌み嫌い、死ぬまで体に取り込む事を拒んだのだ。よって祖父は、基本的に現代の医学を体に染み込ませる事無くして、この世を去った。
今になって親に聞いてみると、その祖父は近所付き合いも良くはなかったらしい。本当に、世の中に歯向かって生きた人なのだなあと、今更ながら思っている。
私はそんな祖父の話が面白くて、幼い頃に色んな話を聞いていたものだ。
「そうでしたか。そんな話、あまり聞いた事が無いもので……じゃあ相当努力して健康に生きていたのでしょうね。驚かされます」
「ははは……こんな話、自分もあまりしないですよ。こんな時、ですから」
愛想笑いを浮かべながら、私の頭は祖父の事を考えていた。
「思えば祖父とは成人になって以来会っていなくって。それに元気だという話は聞いていましたから……思い返すと、感慨深いです」
私は地方に生まれ育った。地元の学校に通って普通に学業に励み、大学受験をして普通にいい所に進学した。おおよそ今も昔も変わらない、人生の方程式。故郷から離れ、都会の大学へ進学。そこを長居する事もなく卒業して職に就き、私は今に至る。
だから都会での独立した生活に落ち着きを得ていた今の自分にとって、ここ──故郷に改めて戻ってくるという事は少し新鮮に感じられる。身内の死んだために帰省するのは快くないが、正直、そうでもしないと私はこの場所の空気という物をこうまでハッキリと思い返す事ができなかった。この数日で発見した事だ。
祖父の話を思い出す──とは云っても、具体的にその祖父が何を私に語りかけたのかは忘れてしまった。
思い浮かぶのは祖父の──あの遺影とあまり大差の無い──顔と、語りかける姿、口調、声。話の内容は思い浮かばない。けれども、ああ確かこんな事を聞いたような、とか、何処か覚えのあるなあ、とか普段の遣り取りや出来事に接する上でふと頭を妙な知識が過る事もあるのだから、きっとそんな風な古めかしい内容を一度聞いた事があるんだろう。度々そのような既視感に襲われる節が有る。
「兄の思い出ですか……。正直、あまり思い浮かばないんですよね。記憶が曖昧……と言いますか、無いんです、印象が」
意外な事実が伯母の口から発せられる。端的に言えば何を言っているのかが不可解だった。
「と、いいますと」
「はい。私の兄──あなたの祖父が実子ではない事はご存知でしたか?」
隣の折畳み椅子に腰掛けて居る私の伯母は神妙に話を繰り出してくる。若干椅子から身を乗り出し、姿勢と声色がコソコソ話のそれとなった。しばらく身につけない服の清潔な匂いと芳香が鼻に付く。
「まあ、ええ」
「私が生まれてある程度成長した時には既にかなりの年の差がありました。そんな死んだ兄の目に私がどう映っていたのか、もう知ることはできませんが、私の兄に対する記憶は希薄なんです」
成る程、と思った。
血縁の無い祖父から生まれた私の両親。その腹から生まれたこの私。今、目の前でなんとも言えない話をしているこの伯母は、私と微塵の血の繋がりのないという事実。あるいは赤の他人だという距離感が、私がこの場でしている会話の不自然な趣を肥大させた。
「……こんな話やめにしましょうか。そろそろお祖母様が見えるだった時間かしらね」
「あ、そうでしたね。行きましょうか」
席を立つ。腰を上げて、椅子が音を立てて後ろに引き下がる。
辺りを見ると、もう既に他の親戚達はこの部屋を後にしていたらしく、室内はがらんと空っぽだった。私は少しだけ足を急かさせて、玄関口へと向かうことにした。
・・・
私たちは、死ぬ者である。
だからこそ、祖父の死のなおも愛おしい事に変わりはないが、多少の見切りは付いてしまう。
あの時、私が職場から帰ってテレビをつけると速報が入っていた。天皇の崩御。その時はただそのテロップと映像に関心を持っていただけだったけれど、一夜明けて祖父の訃報を受け取った時には、知らしめられた。
その「ああ、亡くなったんだ」という言葉に変わりは無い。ただ前者は死んでも蘇って、後者は死んだらそこで終わりなだけの相違。
蘇る者が神様だなんて言い回しを聞いた事がある。これももしかすると、この世にいない死人の言葉なのかもしれない。私たちにはそんな死人のための儀式を厳かに設ける事しかできないのだ。
ロビーの自動ドアが開いて、冬の凍てついた風が吹き込んでくる。二重のドアの遮りをかいくぐって私たちの頬をかすめるそよ風は身を縮めたくなる程に寒いものだった。
親戚全員の祖母を迎え入れる声。近づくにつれて大理石の床に響き渡る無機質な音が、風の切る音と混じり合う。
「遅れてごめんなさいねえ。オイルをちょっと──」
「久しぶり、おばあちゃん」
ガチャン。
ガチャン。
了
こんな文章を読んでいただきありがとうございます。
骨休め的な勢いで書き上がったこれを改めて読み返してみると、結構色々なものに影響受けてるのかなぁと感じました。
当初のアイディアはタイトル通り、グローバル化によって日本の国の特性──とでも言うのであろう雰囲気──が消え去ってしまった近未来を基にしたお話を書こうというやつだったのですが、気がつくとこのありさまでした。
ここだけの話、最後のオチは突発的に閃いたもので、結構投げやりですハイ。
それでは、また近いうちに。(2015/10/17)