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 隣室に陽炎たちを残し、天翔丸は一人、かごめの主人のいる奥の広間へと案内された。部屋に置かれた几帳や調度から察するに、主人はなかなか裕福な人のようだ。

 天翔丸が広間の中央に座すと、御簾越しに声が聞こえた。

「ようこそおいでくださいました」

 この時代、身分の高い人は姿を見せないのが習慣である。どのような人かは声で想像するしかない。かごめの主人の声は()れていたが、穏やかで優しげな語調だ。

 天翔丸は折目正しく一礼した。

「本日はお招きくださりありがとうございます。私の笛を気に入ってくださったとか。光栄です」

 都生まれの貴族育ちなので礼儀作法は心得ている。

「こちらこそ、お会いできて光栄です。毎日山から流れてくる美しい調べを、ぜひ近くで聴いてみたいと思っておりました。さっそく吹いていただけますかな?」

「はい」

 天翔丸はうなずき、笛を吹きはじめた。まずは短い自作の一曲を吹き終えると、主人は感嘆の声をあげた。

「すばらしい。いや、実にすばらしい。なんとうまーー」

「うま?」

 主人がごほごほと咳きこんだ」

「……失礼。何でもありません。大変けっこうな笛でした」

「恐れいります。では次の曲を」

 再び笛を口元にもっていったところで、御簾越し主人が言った。

「もう結構です」

「え?」

 主人は穏やかな口調で、しかしきっぱりと言った。

「笛の演奏は、もう結構です」

「もういいんですか?」

「ええ」

「あの……ひょっとして、お気に召しませんでしたか?」

「とんでもない。美しい音色に感動して胸がいっぱいになりました。ありがとうございました」

 はあ、と言いながら天翔丸は笛を懐にしまった。持ち曲を全部吹こうとはりきって来たのに、肩すかしを喰らわされた気分だった。どうも腑に落ちない。本当に感動したのなら、もっと聴きたがるものではないのか。

「すばらしい演奏を聴かせていただいたお礼に、ささやかながら酒宴をもうけたいのですが、いかがでしょう」

「酒!? はいっ、喜んで!」

 疑念は酒という言葉で霧散した。三度の飯より酒が好きな天翔丸は、齢十四にしてすでに酒豪の域に達している。

「かごめ、酒をもて」

 主人に命じられて、かごめが瓶子(へいじ)(さかずき)をのせた盆を運んできた。かごめの左手を握りこんでいた杖は、今度はその手首を握って導いている。かごめは杖に引っぱられながら、すり足でゆっくりゆっくり歩く。

「早くせぬか、かごめ」

 先ほどまでの穏やかな声色から一転、主人が刺々しい声を発した。

「のろまな(めしい)め。この役立たずが」

「ーーなんだそりゃ」

 刺々しい声を上回る鋭い声を発して、天翔丸は御簾をにらみつけた。

「その言い方は何だ? そんな言い方ないだろうが。目が見えないなりに、かごめはあんたのためにがんばって働いてるんだ。寒いのをこらえて一生懸命尽くしてるんだ。見て、わからないのか? わからないなら、あんたの目こそ役立たずの節穴だ」

 礼儀作法を心得てはいるが、敬意をはらうに値しない相手には礼儀を忘れる。天翔丸にはそんな特徴もある。

「かごめだって好きで目が見えなくなったんじゃないんだ。あんたも主人なら、偉そうにふんぞりかえって命令するだけじゃなく、少しはいたわってやれよ」

 概して、身分の高い者は説教されることを嫌うものだ。まして相手が生意気な子供ならなおのこと。主人が怒りだすのを見越して天翔丸が身構えていると、やがて返事が返ってきた。

「なるほど。確かにおっしゃるとおりです」

「え?」

「確かに、かごめは私のためによく尽くしてくれています。そのかごめを叱るとは……まったくもって私が悪い。貴重なご忠告、痛み入ります」

「あ、いや……わかってくれれば。えっと、こちらこそ失礼なことを言って申し訳ありませんでした」

 天翔丸は頭を下げながら恐縮した。かごめが虐げられているように見えたが、早とちりだったのだろうか。

「さあさ、気をとり直して酒を飲みましょう。かごめ、お客さまに酒を」

 かごめは盆を抱えたまま立ちつくし、手を引っぱる杖に逆らうように踏みとどまっている。

 主人は優しい声でうながした。

「かごめ、それがおまえの仕事だろう?」

 かごめは消えそうな小さな声で「はい」と答え、盆をもって歩を進めた。そろそろと盆を置こうとしたとき、手を滑られたのか盆を落とし、のっていた瓶子が床に転がり酒がこぼれてしまった。

 こぼれ出たそれを見て、天翔丸はぎょっとした。

 どろりとした黒ずんだもの、それが放つ目や鼻が曲がりそうな強烈な腐臭。

 それは腐った血だった。

「かごめ……」

 御簾のむこうから聞こえてきたのは責め、怒りのこもった明らかな恫喝。

「かごめ……」

 主人が立ち上がり、そちらから吹いてくる風に御簾がばたばたと音をたててゆれる。かごめが怯え、目に見えるほどにがたがたと震えだした。

「かごめ……また酒をこぼしたな」

 ひときわ強い風がおこり、御簾が吹き飛んだ。あらわとなった主人の姿に天翔丸は瞠目した。

 そこにいたのは土気色の顔をした少女ーーもう一人の、かごめだった。


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