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IBASHO  作者: 草薙 零
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第一歩

IBASHO

草薙 零

  プロローグ


居場所とは何だろう? 愛してくれる人々に囲まれて生まれる者もいる。 それを探し続けるために一生を費やす者もいる。 人には二つの道があると言われている。 一つは光へと続く。 もう一つは闇へと続く。 前者を歩む者を「天使」と呼ぶ者もいる。 後者を選ぶ者を「怪物」と呼ぶ者もいる。 だが、誰も最初からそのどちらかとして生まれるわけではない。 一つひとつの決断……一つひとつの喪失……一つひとつの傷…… それらすべてが、やがてお前という存在を形作る一歩となる。 そして世界がお前を拒んだとき…… それでも、お前は居場所を見つけることができるだろうか?


 言葉 I

 すべてからお前を守る者はいても、 お前自身からは守れない。


 第一章 第一歩


「来る……来る……」

 狂気に満ちた声の残響が、一人の女の頭の中に響いた。

 彼女が目を開けると、そこは完全な白の空間だった。恐怖に駆られ、彼女は勢いよく首を回し、あらゆる方向を見渡した。しかし、何もない。そこには壁も境界も存在せず、無限に広がる空間だけがあった。

 やがて、地面が震え始めた。

 一つの影がゆっくりと現れ、人の姿をした怪物へと形を変えていく。それは完全な黒だった。まるで闇そのものが命を得たかのように。その周囲には、恐ろしい気配が漂い始めた。

 女の鼓動は速くなる。身体は震え始めた。

 怪物は重々しく歩みを進める。一歩進むたびに、その存在はさらに恐ろしく感じられた。

 逃げたい。

 しかし、彼女の足は動かなかった。

「動け……動け……」

 心の中で何度も繰り返す。

 だが、彼女にできることはただ一つ。膝をついたまま、迫り来る終わりを見つめることだけだった。

 その瞬間、空から心臓が降り始めた。

 怪物は何の反応も示さない。いくつもの心臓がその身体に当たっても、微動だにしなかった。

 ぬめった音が響き、さらに不気味さを増していく。

 地面に亀裂が走り、そこから赤黒い液体が溢れ出した。

 女は感じた。

 何かが、自分を覆っている。

 血だった。

 一秒ごとにその水位は速く上昇し、少しずつこの場所を満たしていく。それでも異形の存在は近づき続けた。

 心臓は血の上へ落ち、小さな飛沫を上げる。

 血はさらに増え、ついには彼女の腹部にまで達した。

 周囲には心臓が浮かび、虚空からなお降り続けている。

 女は吐き気を感じた。恐怖があまりにも強く、吐くことさえできなかった。

 気づいた時には、怪物は彼女の目の前に立っていた。

 彼女は顔を上げる。

 その瞳に映っていたのは――怪物だった。

 それでも、彼女が見ていたものは――天使だった。

 女はまだ怯えていた。

 —そ、それ……血が……。

 —私について来い。

 —こ、この怪物……心臓……。

 天使は彼女へ手を差し伸べた。

 —君の名前は?

 —シ、シオン……。

 —来い。

 その声は穏やかで、希望に満ちていた。

 美しく、純粋さを纏ったその姿を見た瞬間、彼女は絶対的な安らぎを感じた。理由は分からない。それでも、彼なら信じられると思った。

 彼女はその手を取った。

 その瞬間、目の前に美しい景色が広がった。

 眩い天使の姿を見て、彼女は驚きを隠せなかった。もっと顔をよく見ようとした時、何かがおかしいことに気づいた。

 ただ、その瞳だけが穏やかな姿とは合っていなかった。

 そこには張り詰めた何かがあった。まるで怒りを抑え込んでいるかのように。

 天使は彼女を導いた。

 長い時間歩き続けた後、彼女は次第に疲れ始めた。

 休もうとして手を離そうとする。

 しかし、できなかった。

 彼は、より強い力で握っていた。

 —離して。

 彼は応じなかった。

 —お願い……やめて……痛い。

 それでも彼は無表情のまま続けた。

 —痛い……。

 力はさらに強まり、ついには彼女の手を砕いた。

 —あああああ!

 彼女は崩れ落ちる。

 それでも天使は止まらなかった。彼女を引きずるように、そのまま進み続けた。

 後ろには楽園のような景色が広がっていた。自由に飛ぶ鳥たちの姿が見えた。

 しかし、彼女の前に広がる景色は完全に逆だった。

 そこにあったのは、地獄だった。

 天使が何も感じていないように歩き続ける姿を見て、彼女は理解した。

 自分の運命は、破滅なのだと。

 最後を受け入れた彼女は、ただ身を任せた。

 生きたいという最後の願いさえ捨て、終わりの炎へと身を委ねる。

 胸に走る痛み。

 もう一度。

 彼女の目がわずかに開く。

 ぼやけた視界の中、一瞬だけ邪悪な存在が見えた。

 —あっ!

 彼女は完全に目を開いた。

 —また……あの夢……。

 小さな息遣いが漏れる。

 彼女は乱れた呼吸を整えながら、必死に空気を取り戻そうとしていた。


═══════ ⟡ ⟡ ⟡ ════════


 長い廊下の先にある、質素な部屋。

 そこでは、一人の少年が天井を見つめていた。

 差し込む太陽の光が、彼の顔を照らしている。

 —いつか、この島を出られるのだろうか。……いや、出なければならない。

 そうしなければ、俺は何もできない。

 カン! カン! カン!

 強い鐘の音が、彼の思考を遮った。

 起きなければならないことは分かっていた。

 それでも、彼はしばらくベッドの上にいた。

 —またいつもの日常か。……素敵だな。

 皮肉を込めて、小さく呟く。

 彼はゆっくりと布団の上で身体を伸ばし、ようやく起き上がった。

 鏡の前へ向かい、黒い髪を丁寧に整える。

 その後、クローゼットを開け、制服を取り出した。

 しばらく眺めた後、それを身につける。

 —うーん……少し汚れているな。

 肩をすくめる。

 —まあ、気にする人なんていないか。

 彼は急いで制服を整えた。

 扉の前に立つ。

 深く息を吸い、取っ手に手を置いた。

 —行くか。

 扉の向こう側。

 廊下は人で溢れていた。

 無数の声がぶつかり合い、騒がしい海のようだった。

 他の生徒たちは、より上質で綺麗な制服を身につけている。

 その姿は、クライをさらに目立たせていた。

 —見ろよ、あの紫色の目の奴。

 —あいつ、パン一つ買えないほど貧乏らしいぞ。

 —あんな奴がここにいる資格なんてないだろ。

 そんな言葉を浴びせられるのは、日常だった。

 そして悲しいことに、それは彼に起こる最悪のことではなかった。

 —おや、誰かと思えば。

 三人の年上の少年たちが、威圧的な表情で近づいてきた。

 彼らを見ると、クライは顔を伏せ、声から力が消えた。

 —本当に……俺は何もしていない。

 —無能の王様か。

 クライは、わずかに拳を握った。

 最後の一人が、制服の襟を掴む。

 —頼むから消えてくれよ。誰もお前なんか必要としていない。

 その男は、他の二人よりも明らかに怒りを露わにしていた。

 それでも、クライは反応しなかった。

 ただ俯いたままだった。

 その時――

 —ちょっと! 何をしているの?

 —シオンだ。行くぞ。

 —ただ女の後ろに隠れてるだけかよ、間抜け。

 少年たちは怒った様子で立ち去った。

 —次は、警告だけで終わらせないから!

 シオンがクライの元へ駆け寄る。

 —大丈夫!? 何かされたの!?

 彼は振り返った。

 —いや、何でもない。心配しないで。もう慣れてるから。

 優しい声で答えた。

 —そんなわけないでしょ。私が止められるなら、とっくにそうしてる。

 —できることならある。

 —島を出ることだ。

 —分かってるでしょ。あなたには無理だって。

 —どうして、そんなに無理だと言い続けるんだ?

 —外の世界は、とても危険なのよ。クライ。

 ここなら……少なくとも、あなたが無事でいられる。

 あなたが安全だって、私は分かるから。

 —俺はここで、ゴミみたいに扱われている。

 もう限界なんだ。

 俺は、その先に何があるのか知りたい。

 —本当にごめんね、クライ。

 分かってほしい。

 私は……何もできない自分が悔しい。

 私は、もう決めたの。

 短い沈黙が二人の間に流れた。

 —そろそろ時間だ。

 —うん。気をつけてね。

 それから、後で私の部屋に来て。

 それに……あなたの制服、洗わないと。

 —分かった。授業が終わったら行く。

 二人は、それぞれ別の方向へ歩いていった。

 教室に着くと、すでに何人もの生徒が席についていた。

 その表情には退屈さが浮かんでいた。

 —鐘はとっくに鳴っているぞ、少年。

 —すみません。もう二度とありません。

 —次はないと思え。

 —はい。

 クライは、いくつもの軽蔑の視線を浴びながら自分の席へ向かった。

 席に座っても、誰も彼に声をかけようとはしなかった。

 そして彼は、その後の数時間を教師の授業に集中して過ごした。

 彼は、理論の授業に本当の意味で耳を傾ける数少ない生徒の一人だった。

 多くの生徒たちは、その授業を時間の無駄だと考えていた。

 彼らの唯一の目的は、最高位の冒険者になること。

 そのため、勉強よりも自分の能力を鍛えることを優先していた。

 授業が終わると、生徒たちは急いで教室を出ていった。

 椅子が床を擦る音が、激しく響く。

 しかし、クライは全員が退出するまで待っていた。

 教師と二人きりになると、彼は整然と立ち上がり、帰ろうとした。

 —帰る前に。

 —どうしましたか、先生?

 —褒めてやろう。お前は、私の授業に本気で向き合っている唯一の生徒だ。

 —その……俺は、技術の面ではあまり得意ではないので。

 —そんなことは関係ない。

 生徒たちは理論の重要性を理解していない。

 本当に強くなりたい者は、まずそれを理解する必要がある。

 お前は必ず成長する。私が保証しよう。

 —ありがとうございます、先生。

 扉が閉まった。

 クライは誰もいなくなった廊下を歩きながら、その言葉を思い返していた。

 この三年間、彼は周囲から多くの侮辱を受けてきた。

 こんな言葉をかけられることは、ほとんどなかった。

 廊下の角を曲がろうとした時、何かの話し声が聞こえた。

 しかし、気にせず進み続ける。

 —おい、見ろよ。

 そこには、以前彼を痛めつけた三人の少年が立っていた。

 —おい、間抜け。

 —なあ、本当に争いはしたくないんだけど。

「またか……」

 クライは心の中で呟いた。

 —残念だな。もう始まってるんだよ。

 おい、捕まえろ!

 それ以上何も言わず、クライは走り出した。

 しかし、彼にとって不幸なことに、相手の方が速かった。

 両腕を掴まれる。

 クライはしばらく動けず、逃れようともがいた。

 —よし、今から教えてやる。

 ほら。

 腹部に拳が叩き込まれる。

 —っ……!

 もう一発。

 —やめろ……。

 そして、さらにもう一発。

 クライの呼吸は完全に乱れた。

 身体はすでに震えていた。

 —Veltを使ってやれ。

 少しは理解するだろ。

 周囲の空気が張り詰めた。

 目に見えない圧力が拳へと集まり、まるで空間そのものが圧縮されているかのようだった。

 淡いオーラが灯り、空気が歪む。

 —それは……殺すかもしれないぞ。

 クライは、もうほとんど声を出せなかった。

 ただ耐えることしかできなかった。

 —見ろ。

 これが、お前には一生できないことだ。

 Veltの力が数秒で凝縮される。

 一瞬、周囲の音が消えたように感じられた。

 そして――

 一つの動きで、拳が放たれる。

 目に見えない衝撃波が拳から放たれ、まるで空気そのものが爆発したかのようだった。

 わずかな力が触れただけで、クライの身体の内部を破壊する。

 クライの身体は数メートル吹き飛び、そのまま地面へ叩きつけられた。

 意識を失った。

 拳を放った少年は、信じられないように自分の手を見つめた。

 もう一人が一歩後退する。

 —おい……行こう。

 三人は走り去り、倒れたクライを残していった。

 暗闇が現れた。

 その中で、何かが動いている。

 夢ではない。

 それは、まるで記憶の欠片だった。

 二つの揺り籠が描かれた円形の紋章。

 深く探ろうとすると、そこにはさらに暗闇が広がっていた。

 必死に手を伸ばした時、一つの言葉が浮かんだ。

 クタ。

 —クライ。

 —クライ、起きて!

 眩い光が、一瞬だけ彼の視界を奪った。

 —ん……ここは……?

 —私の部屋よ。

 —あなたが倒れているのを見つけたの。

 何があったの?

 クライは頭に触れた。

 そこには包帯が巻かれていた。

 視線を下げると、腹部から胸にかけても包帯で覆われていた。

 —いつもの奴ら……。

 でも、今回はVeltを使いやがった。

 あいつら……くそ……痛い。

 シオンは拳を握り締めた。

 その表情は険しくなる。

 —Veltを使ったの?

 それはやりすぎよ。

 私、決めた。

 —シオン、もしかして……クタって何か知ってる?

 シオンの瞳が大きく開いた。

 —待って。

 まずは、あいつらに分からせてくる。

 彼女は急いで部屋を出ていった。

 —分かった。

 扉が閉まる音が、部屋全体に響いた。

 何もすることがなくなり、クライはただ虚空を見つめていた。

「二つの揺り籠は何なんだ……?

 それに、あの言葉……クタ。

 今まであんな紋章は見たことがない」

 それでも、なぜか以前から知っていたような感覚があった。

 小さく息を吐き、少し横を向く。

 —痛いな……。

 回復するまで何日かかかりそうだ。

 クライは強い疑問を抱いていた。

 島へ来てから、彼は以前の人生について何も覚えていない。

 再び話し、文字を書くことができるようになるまで、数ヶ月かかった。

 彼を見つけた時の話を知っているのは、シオンだけだった。

 それでも、一つだけ確信していることがある。

 ――必ず、この島を出なければならない。

 彼の直感は告げていた。

 その外側に、答えがあるのだと。

 ――ドォン!

 教室の壁が、一撃の右拳によって崩れ落ちた。

 —あっ!

 一人の少年の叫び声が、別の廊下にいる者たちにまで届いた。

 生徒たちは驚いて一斉に立ち上がり、巨大な穴へ視線を向ける。

 —どこにいるの!?

 シオンは瓦礫の中に立っていた。

 彼女の周囲には威圧的な気配が漂い、その瞳は獲物を探す捕食者のように教室全体を見渡していた。

 教師はすぐに立ち上がり、手のひらで机を強く叩いた。

 —一体、何を考えているんだ!?

 —もう一度聞くわ!

 どこにいるの!?

 —だ、誰のことですか……?

 一人の生徒が、耐えきれないほどの圧力に怯えながら尋ねた。

 —カイと、あと二人。

 —か、彼らは……病気で休んでいます……。

 一人の女子生徒が震えながら答えた。

 —よく聞きなさい、シオンさん。

 ここに残ってもらいます。

 私は校長を呼びに行く。

 シオンは指を一本上げた。

 次の瞬間、小さな石が弾丸のように飛んだ。

 ――タッ!

 石は教師の顔から数センチ横を通り過ぎ、触れることなく、その後ろの壁に小さな穴を開けた。

 —私の話も聞いてください。

 私は行きます。

 そして、あなたは邪魔をしない。

 分かった?

 教室全体が静まり返った。

 教師は、その穴を見つめながら背筋が凍るのを感じた。

 もしあの石が直撃していたら、自分の身体がどうなっていたのか。

 想像するだけで恐ろしかった。

 —こ、こんなこと……許されると思うな……。

 そ、それなりの理由があるんだろうな……。

 —あります。

 シオンは背を向け、そのまま走り去った。

 数秒後。

 轟音を聞きつけた数十人の人々が、次々とその場所へ集まり始めた。

 三人の部屋へ到着すると、シオンは扉を蹴り飛ばした。

 扉は数メートル先の床へ重く倒れ込み、部屋全体を震わせた。

 少年たちは、その光景を見て一瞬動けなくなった。

 —何のつもりだ!?

 —違う。

 何のつもりなのは、あなたたちの方よ。

 シオンは部屋へ入り、確かな足取りで彼らへ近づいた。

 —何の話をしているのか分からない。

 —恥ずかしくないの!?

 この組織には、何千人もの人々が頼っているのよ。

 それなのに、あなたたちはクライを殺しかけた。

 本当に殺していたかもしれないのよ?

 —まだ理解できないな。

 —校長のところへ直接行くわ。

 文句は一切聞かない。

 —いや、俺たちは何もしていない。

 シオンは近づき、その少年の頬を叩いた。

 ――パァン!

 —痛っ!

 何するんだよ!?

 —恥を知りなさい。

 あなたたちは、ここにいる資格なんてない。

 シオンは、彼らを無理やり連れて行った。

 部屋に到着すると、そこには一人の老人が座り、本を読んでいた。

 —先生。

 —ああ。どうした? 話してみなさい。

 —この三人が、クライに対してVeltを使用しました。

 老人は眼鏡を直し、彼らへ視線を向けた。

 —私の記憶が正しければ、クライという生徒はVeltを扱うことができないはずだが。

 —その通りです。

 少年たちは俯いていた。

 退学にならないことを願いながら。

 老人は小さく息を吐き、本を横へ置いた。

 —今この瞬間から、お前たち三人には五千ヤールの罰金処分を下す。

 威厳と威圧感を込めた声が部屋に響いた。

 静寂がその場を包む。

 しかし、シオンだけは歯を噛み締めていた。

 —承知しました、学園長。

 三人は同時に答えた。

 —下がりなさい。

 全員が部屋を出ようとした。

 その時――

 —シオン、少し待ちなさい。

 扉を閉めようとしていた彼女は振り返り、わずかに開いたまま扉を止めた。

 —君から、少し不満を感じるな。

 —失礼します。

 —許可しよう。

 —クライは、殺されかけました。

 それでも、彼らをすぐに退学にするべきではないとお考えですか?

 学園長は表情を引き締め、両手を組んだ。

 —この施設では、君のような優秀な戦士を数多く育ててきた。

 多くの者が倒すことは不可能だと思った魔獣を打ち破った戦士たちをな。

 先ほど処分した者たちのような若者こそ、未来なのだ。

 それなのに君は、一人の少年のために私の壁を壊してきた。

 その少年は、自分のAeraすら凝縮できないというのに。

 —ですが……

 —まだ話は終わっていない!

 —……すみません。

 終わったと思いました。

 彼女は頭を下げ、従順な声で謝った。

 アルドールは数秒間彼女を見つめた後、話を続ける。

 —私は、アルドール・レイ・ドラハル。

 兄弟、両親、そして先代たちと共に、この施設を頂点へと導いてきた。

 誰もがドラハルの戦士になることを望んでいる。

 違うか?

 —否定はしません。

 ですが、それでも……Veltをあのように使うことが恥ずべきことだとは思いませんか?

 彼らが……

 —不公平などと言うな!

 クライのように、自分を守ることのできない者へVeltを使うことが恥ずべき行為だ。

 その点については、君の言葉を認めよう。

 弱者である彼らは守られるべきだ。

 だが、勘違いするな。

 私が不公平だと思っているのは――

 あの少年がここにいることだ。

 多くの者たちが、何年もの時間をかけ、努力し、苦しみ、命を懸けて手に入れようとした場所を、彼が占めていることだ。

 私は、かつての時代で最も強い戦士の一人だった。

 偶然ここまで来たわけではない。

 努力で。

 血で。

 勝利で。

 自分の居場所を勝ち取った。

 だからこそ、今こうしてこの施設の長を務めている。

 —それでも、クライには機会が必要です。

 老人は机を叩いた。

 —口を挟むな!

 —申し訳ありません。

 もう終わったのかと思いました。

 再び頭を下げる。

 アルドールは彼女を数秒見つめた後、続けた。

 —私は一族の誇りを背負うため、戦士になる道を選んだ。

 今の私は、かつて持っていた力のほんの一部すら残っていない、ただの老いぼれだ。

 それでも覚えている。

 この施設が、私の時代にどれほど厳しかったのかを。

 あの頃なら、クライのような少年は決してここに受け入れられなかった。

 今は違う。

 さあ、君の言葉を聞こう。

 —ありがとうございます、先生。

 あなたの考えは理解しました。

 ですが、私も自分の考えを変えるつもりはありません。

 —君は、彼をここへ連れてきた時から分かっていたはずだ。

 彼を守ると言ったのは、他でもない君自身だ。

 孤児院へ預けることもできた。

 冒険者になる道もあった。

 傭兵でも、兵士でも。

 あるいは、この世界の危険から離れ、普通の人生を送らせることもできた。

 —分かっています。

 だからこそ、私は彼をここへ連れてきました。

 初めて彼に会った瞬間から、彼の立場は理解していました。

 だから決めたのです。

 彼は――

 この島に永遠に残るべきだと。

「永遠に……?」

 アルドールは心の中で呟いた。

 しかし、表情には隠しきれないものが出ていた。

 わずかに眉をひそめ、驚きを隠そうとする。

 そして、深く息を吐いた。

 —この話はここまでだ。

 もう退室しなさい。

 老人は手のひらを上へ向け、扉を示した。

 —承知しました、学園長。

 失礼します。

 彼女は部屋を出た。

 扉を閉めようとしたが、力を入れなかったため、完全には閉まらず、わずかな隙間を残したままになった。.


═══════ ⟡ ⟡ ⟡ ════════


 トントン。

 —誰ですか?

 —私だ。君の先生だ。

 —どうぞ。

 扉が開く。

 —おや……クライ。これは……何をされたんだ?

 —見ての通りです。

 —残念だな。早く良くなることを願っている。

 今日は君に、良い知らせと悪い知らせを伝えに来た。

 少しの沈黙が、クライを包んだ。

 —悪い知らせから教えてください。

 —良い知らせの方が先ではないのか?

 —いいえ、悪い方で。

 その後に良い知らせを聞けば、もっと嬉しく感じると思うので。

 —そうか。

 では、悪い知らせからだ。

 君は中央区にも、村にもいない。

 南の塔へ移ることになる。

 —南……?

 少なくとも、港の近くにはいられるんですね。

 —ああ、その通りだ。

 だが、あまり長くそこにいることは勧めない。

 —それで……良い知らせは?

 —……?

 それを良い知らせだと思うなら、これから話すことはすべて最高の知らせになるだろう。

 —分かりました。続きをお願いします。

 —私が午後の時間に君を教えることになった。

 ただ一つ言っておくなら、塔に住む間は、あまり周囲を刺激しないように気をつけなさい。

 —一つ質問があります。

 これを決めたのは、シオンですか?

 —先ほど学園長に呼ばれた。

 そして、明日から君をそこへ住ませるよう伝えるよう命じられた。

 —そこには誰がいるんですか?

 —私にとって、それが一番の良い知らせだ。

 そこにはドラハルの戦士が二人住んでいる。

 そして、おそらくもう一人来るらしい。

 —あまり変わらないですね。

 俺はそもそも、ほとんど誰も知りませんから。

 —それと、クライ。

 学園長は、自分が決めたことだとは誰にも言うなと言っていた。

 —なぜですか?

 —分からない。

 だが、誰かに聞かれたら、私の推薦で送られたと言いなさい。

 —そうですか……。

 それで、もしかしてクタについて何か知っていますか?

 —全く知らない。

 —ああ……やっぱり。

 —そういえば……少し待ってくれ。

 先生は一分ほど考え込んだ。

 その間、クライはすでに退屈していた。

 —何か思い出しましたか?

 —ああ、君のことだから――

 —着いたわ。

 シオンが割り込んだ。

 —あなたは誰?

 —私はクライの教師だ。

 —知りません。

 何の用件ですか?

 —クライが引っ越すことを伝えに来た。

 それと、これから私が彼の個別指導を担当する。

 —誰がそれを決めたの?

 クライ、あなたは知っている?

 —俺が決めたわけじゃ……

 —クライに聞いているの。

 —えっと……先生が。

 もっと勉強して、知識を身につけるためだって。

 —違う。

 決めたのは私だ。

 クライは優秀な生徒だ。

 他の生徒たちよりも、明らかに成績が良い。

 —そんなに早く決めたの?

 まだ二時間も経っていないはずだけど。

 —ああ。

 今日、授業の終わりにクライを評価した。

 その後、塔にいる戦士たちと話し、了承を得た。

 —良いこともあるよ、シオン。

 これで、もうここにいる必要はなくなる。

 —そうね。

 でも、あなたは私から遠くなる。

 先生はクライをちらりと見て、軽く合図を送った。

 —では、私は失礼する。

 二人で話すといい。

 クライ、これから多くのことを学べるだろう。

 —さようなら。

 扉が閉まる。

 —まだ痛む?

 —当然だろ。

 ほとんど動けないのを見れば分かるだろ。

 —そうね。

 薬を持ってきたわ。

 渡す前に……他に何か言われなかった?

 —うーん……。

 いや、それだけ。

 —本当に?

「誰にも言うな」

 先生の言葉が、クライの頭の中に響いた。

 —薬をくれるのか、くれないのか?

 —分かった。今渡す。

 シオンは近づき、ポケットから小さな瓶を取り出した。

 —もしAeraを操ることができたら、こんな痛みに苦しむ必要もないのに。

 —いつかできるようになるわ、クライ。

 ほら、「あーん」。

 クライは口を開いた。

 シオンは瓶の中の液体を少し流し込む。

 彼は痛みに耐えながら飲み込み、舌を出した。

 —どう?

 —最悪。

 これ……何の味だよ。

 いや、何か分からないけど、とにかく酷い味だ。

 —これで良くなるわ。

 三日間は安静。

 だから、その間はずっと私と一緒よ。

 —でも、明日から塔に泊まるんじゃ……

 —だめ。

 ここで休むの。

 私が誰にでも話をつけてくる。

 三日間、絶対に外へ出ないこと。

 クライはため息をついた。

「この三日間、何をすればいいんだ……一人で」

 その時、一つの記憶が頭をよぎった。

 チョコレート。

 —シオン、分かった。

 —何が?

 —チョコレートを持ってきて。

 でも、その前に……クタのこと、覚えてる?

 —チョコレートを持ってくるわ。

 彼女は足早に歩き、扉の向こうへ消えていった。

「どうして教えてくれないんだ……」

 そう考えながら、クライは手を握った。

 —ああっ!

 くそ……痛い!

 何で握ったんだ、俺は。

 えっと……チョコレート。

 チョコレート……甘くて美味しいチョコレート……。

 そしてクライは待ち続けた。

 数分が過ぎた。

 その数分は時間になり。

 時間は、やがて美しい朝へ変わった。

 クライは待ち続けることに耐えられず、眠ってしまっていた。

 黄金色の光が彼を照らす。

 ゆっくりと瞼が開いた。

 —もう朝!?

 シオォォン!!

 しかし、彼女は現れなかった。

 そして、さらに悲しいことに――

 チョコレートも、なかった。


═══════ ⟡ ⟡ ⟡ ════════


 —なぜクライが南の塔に滞在していないのか、説明してもらおう。

 命令は明確だったはずだ。

 それ相応の理由があるのだろうな。

 でなければ、この施設での立場が下がることになるかもしれんぞ。

 —もちろんです、先生。

 問題は、シオンが彼の怪我が重すぎると主張していることです。

 三日間の猶予を求めています。

 アルドールは息を吐きながら、少し緩んだネクタイを整えた。

 —聞いた限りでは、クライには私が関わっていることを伝えていないようだな。

 —はい。

 何も話していません。

 失礼を承知で、一つ質問をしてもよろしいでしょうか。

 老人は椅子に座り直し、教師の方へ身体を少し傾けた。

 —許可しよう。

 彼は机の上に肘を置き、両手を組んだ。

 拳と手のひらを重ねるようにして。

 教師は唾を飲み込んだ。

 学園長の鋭い視線に、わずかな緊張を覚えていた。

 —なぜ今になって、クライに目を向けたのか……強い興味があります。

 —私も同じだ。

 シオンが彼をここへ連れてきた時からな。

 最初は、ただの孤児だと思っていた。

 そして今でも、そう考えている。

 彼自身は問題ではない。

 ただの子供だ。

 ……いや、むしろ心配すべきなのはシオンの方かもしれん。

 彼女が言ったことは、少し奇妙だった。

 —何と言ったのですか?

 —ただ、一つ質問をされた。

 私はそれを許可しただけだ。

 —おっしゃる通りです。

 失礼しました。

 —構わん。

 それと、言うまでもないが、この件について誰にも話すな。

 分かっているだろう。

 その結果がどうなるかを。

 そして、帰る前にもう一つ。

 三日後、その少年を必ず塔へ移せ。

 その日に、とても特別な人物が来る。

 —承知しました、我が主。

 教師は部屋を後にした。

 残されたアルドールは、一人になった。

 彼は小さく息を吐き、椅子へ深く身を預ける。

 その表情には、考え込むような色が浮かんでいた。


═══════ ⟡ ⟡ ⟡ ════════


 —やっと来たか。

 —ごめんね、クライ。見て。

 シオンは手の中から、美味しそうなチョコレートの棒を取り出した。

 —おお、最高だ。ありがとう。

 待った甲斐があったよ。

 でも……これ一つじゃ足りないな。

 —そうね。

 残念だけど、これしか持っていないの。

 彼女は手を伸ばした。

 クライはゆっくりと、そのチョコレートを取ろうとする。

 しかし、その直前。

 シオンは腕を引いた。

 そして、優しい声で言った。

 —ねえ。

 私にも何かしてくれると思わない?

 クライは無理やり笑った。

 —いや、冗談。

 抱きしめてほしいの。

 —どうやって?

 俺、こんなに怪我してるんだけど。

 —昨日渡した薬があるでしょ。

 少しなら動けるはずよ。

 —無理だ。

 —試してみて。

 クライはゆっくり身体を動かした。

 すると――

 奇跡のように、動くことができた。

 —……え?

 何を飲ませたんだ?

 —秘密。

 でも、このチョコレートを渡す代わりに約束して。

 三日目までは、誰にも自分が元気だって言わないこと。

「なんで俺の周りには、こんなに秘密を抱えたがる人間ばかりなんだ……」

 クライは心の中で呟いた。

 —分かった。

 彼はチョコレートを奪うように受け取り、一口一口を味わいながら食べ始めた。

 —食べ物と水はたくさん持ってくるから。

 今のあなたには必要になる。

 それと、誰かと話そうとしても駄目。

 怪我人のふりをして。

 お願いだから、私のために。

 シオンは部屋を出ようと歩き始めた。

 そして扉の前まで来た時。

 —シオン!

 彼女は振り返った。

 —どうして、クタのことを教えてくれないの?

 —何でもないわ。

 ……それに、存在するものなのかどうかも分からない。

 どうしてそんなことを気にするの?

 —ああ……いや。

 ただの俺の考えだよ。

 —そんなこと考えないで。

 別のことを考えなさい。

 また昼食を持ってくるから。

 扉の前で、彼女は指先を軽く振って別れを告げた。

 扉の軋む音はゆっくりと響いた。

 しかし、完全に閉じた瞬間。

 乾いた音が部屋に響き、すべてを遮った。

 クライは目を閉じた。

 時間を早く進めるために、眠ろうとしていた。

 少しずつ意識を手放していく。

 窓から差し込む太陽の光が、彼の身体を照らした。

 その温もりが、彼を落ち着かせる。

 そして――

 深い眠りへ落ちていった。

 —えほん。

 眠りについたクライは、夢の中でシオンと海辺で昼食を食べていた。

 彼にとって、それは見たことのない光景だった。

 海。

 もしかすると、記憶を失う前には見たことがあったのかもしれない。だが、今の彼には確かなことは分からなかった。

 シオンは綺麗に整えられた弁当箱を広げて食べていた。

 そしてクライは、中にソースが入ったウェリントンステーキを口にしていた。

 二人はとても楽しそうだった。

 笑い合いながら、穏やかな時間を過ごしていた。

 しかし、一つだけおかしなことがあった。

 誰かが、何度も同じ言葉を繰り返していた。

 ――えほん。

 ――起きろ。

 ――シオン?

 クライは驚いたように目を覚ました。

 だが、すぐに気づいた。

 そこにいたのは、シオンではなかった。

 目の前には学園長が座っていた。

 その後ろには、壁一面を埋め尽くすほどの本棚が並んでいる。

 クライがさらに驚いたのは、彼が車椅子に座っていたことだった。

 そして、その後ろには彼の教師も立っている。

 クライにとって、この状況は決して良いものには見えなかった。

 ――ああ……痛い。

 クライは、まるで名演技でもするかのように声を震わせた。

 ――俺は……なぜここに?

 安静にしていなければ……。

 荒い声。

 ゆっくりとした呼吸。

 ――ベッドに戻らないと……。

 —学園長。

 失礼を承知で申し上げますが、私は悪い考えだと何度もお伝えしました。

 老人は組んでいた手をほどき、驚いた表情で扉を指差した。

 —君は誰だ?

 ここにいるはずではないだろう。

 クライと教師は同時に振り返った。

 しかし、そこにあったのは閉じられた扉だけだった。

 アルドールは笑い始めた。

 —それほど痛そうには見えなかったがな。

 そして、私たちは初めて正式に名乗っていなかったな。

 若きクライ。

 私はアルドール・レイ・ドラハル。

 この施設の学園長であり、この島に存在するすべてを管理する者だ。

 それで……君の怪我は?

 —骨が折れています。

 老人は鼻から小さく息を吐き、口元だけで笑った。

 —それは嘘だな。

 だが、まだ包帯は巻いている。

 では聞こう。

 Aeraを凝縮する能力を持たない君が、なぜここまで回復している?

 —あなたが知らないなら、俺にも分かりません。

 それに、隠された能力があるなんて言われても困ります。

 —なるほど。

 どうやら君には、特別な力はないようだ。

 君が持つ唯一の才能は――周囲の人間に奇妙な行動を起こさせることかもしれんな。

 クライは教師を見る。

 —なあ……才能って何?

 小声で尋ねた。

 —君の能力や得意分野のことです。

 似た意味の言葉ですよ。

 —ありがとう。

 教師は頭を下げ、学園長へ謝罪の意を示した。

 アルドールは静かに頷く。

 —私の知る限り、そんな才能は存在しないがな。

 —今のは皮肉だ。

 だが、本題に入ろう。

「この学園長、変な言葉をたくさん使うな……」

 そう思いながら、クライは分かったような顔で頷いた。

 しかし、その表情は賢そうというより、どこか間の抜けたものだった。

 アルドールは深く息を吸い、胸に溜めていた空気を吐き出す。

 そして再び、手を組み直した。

 —ヴェルドリウムを飲んだのだろう?

 クライは目を見開いた。

 —ヴェ……ヴェルドラム?

 ああ……何と言えばいいんだ?

 それは何ですか?

 —その反応だけで十分だ。

 教えてくれてありがとう。

「これ以上、正体を知られるわけにはいかない。

 そうでなければ、すべてが狂う」

 アルドールは目を閉じ、しばらく沈黙した。

 —今のはただの推測だ。

 存在するとは思っていない。

 もし存在するとしても……あまりにも奇妙な偶然だと思わないか?

 —そうですね。

 確かに変です。

 それに、俺が飲んだものには何も書いてありませんでした。

 でも、シオンがもうすぐ来ると思います。

 俺がいなかったら心配するので。

 —そうだな。

 だが、もう少し待ちなさい。

 いくつか質問をさせてもらう。

 なぜ君は南の塔にいないと思う?

 —シオンが、俺ともっと一緒にいたいからだと思います。

 母親とか姉と呼ぶことはないけど……。

 シオンは俺にとって、とても大切な人です。

 それに、あなたのところへ行ったら……俺たちは今より離れるから。

 —私が、君たちを引き離していると思うのか?

 —分かりません。

 シオンはそう思っている気がします。

 でも、それでも俺たちは会えます。

 —興味深い。

 最後の質問だ。

 昨日、看護師から薬をもらったのか?

 —看護師?

 違います。

 シオンです。

 —そうか。

 ありがとう。

 彼をベッドへ戻してくれ。

 クライ。

 この会話のことは秘密にしてくれるか?

 —なぜですか?

 —……規則だ。

 この部屋で話されたことは、すべて外へ漏らしてはいけない。

 機密事項だ。

 分かったか?

 以前、君を傷つけていた者たちのことを覚えているか?

 —はい。

 —彼らは施設から去った。

 もう二度と君の前に現れることはない。

 誰も君を傷つけることはできない。

 これは……良い行いだとは思わないか?

 —あなたがそう言うなら……ありがとうございます。

 それで、塔というのはどんな場所なんですか?

 —いずれ分かる。

 これ以上時間を無駄にする必要はない。

 戻りなさい。

 —承知しました、学園長。

 廊下に出ると、二人はしばらく無言で進んでいた。

 その静寂を破ったのは、クライだった。

 —何もかも変な感じがする。

 —「何もかも」とは?

 —三日も経っていないのに、すべてが普通だったはずなのに……今は、みんなの態度が違う。

 —大人や権力者たちの問題だ。

 いつだって、自分より強い者や上の立場の者はいる。

 それでも、自分の道を歩んでいかなければならない。

 —ここは……すごく閉ざされている感じがする。

 三年間ずっとこうだった。

 でも初めてなんだ。

 窓から見える景色の向こう側を、自分の目で見ることができるのは。

 教師は彼を運びながら、哀れみを感じていた。

 クライは一つ一つの窓を眺め、その先で何をするのかを想像していた。

 多くの人にとって、それは何の意味もないことなのかもしれない。

 ただ外へ出るだけのこと。

 しかし、クライにとっては違った。

 それは自由だった。

 すべてが息苦しかった。

 自分自身で何かを選んだことなど、今まで一度もなかったからだ。

 —クライ。

 私は君の人生について、あまり多くを知らない。

 何百人もの生徒を抱えていると思ってくれ。

 だが、君と過ごしてきた時間の中で、私は君のことを理解しているつもりだ。

 誰かが下す決断のすべてを、私が正しいと思っているわけではない。

 それでも……今の君にとって、一番良い選択は塔へ行くことだと思う。

 —そうですね。だから――

 その瞬間、教師は車椅子を止めた。

 —どうした?

 クライは答えなかった。

 彼の視線はゆっくりと、自分の身体を覆っている包帯へ向かった。

 そして、意図的に両手を伸ばす。

 強く引いた。

 最初の包帯が乱暴に外れ、床へ落ちる。

「ごめん……シオン」

 止まることなく、次の包帯を掴む。

 そして、もう一度引いた。

 また一枚、包帯が落ちる。

「今回は……君の言うことを聞かない」

 その動きに迷いはなかった。

 瞳にも、ためらいはなかった。

 胸を覆っていた包帯を、さらに剥がす。

「君が悲しむとしても……」

 布が足元へ落ちた。

「どうして俺を守ろうとするのか分からない」

 クライは包帯を一枚ずつ外し続けた。

 その動きは、先ほどよりも強い決意に満ちていた。

 また一枚、包帯が落ちる。

「どうせ……俺たちは、これから何度も会えるわけじゃない」

 次の包帯を引く。

「どうして、まだ俺を閉じ込めようとする?」

 最後の包帯が床へ落ちた。

「どうして俺は……外へ出て、君と一緒に幸せになることができない?」

 すべての包帯が、彼の周囲に散らばっていた。

 クライは数秒間、何も言わず耐えていた。

 そして――

 勢いよく立ち上がり、半裸のまま歩き始める。

 教師は衝撃を受けた。

 すぐに長い上着を脱ぎ、叫ぶ。

 —おい!

 せめてこれを着ろ!

 彼は上着をクライへ投げた。

 衣服はクライの背後の床へ落ちた。

 彼は足を止め、首だけを振り返る。

 そして、それを拾った。

 何も言わずに身につける。

 —元気でな、クライ。

 また明日会おう。

 教師には分かっていた。

 クライが何も言わなくても、彼が決めたことを。

「学園長の計画は……予想以上に上手く進んでいるな」

 そう考えながら、教師は反対方向へ歩き始めた。

 二人は背を向けたまま、別々の道へ進んでいった。

 クライは、すでに長い距離を歩いていた。

 その姿を見た多くの人々は、自然と彼へ視線を向けた。

 裸足。

 半裸。

 そして、長い上着だけを身につけた姿。

 当然のように、彼を見て笑う者もいた。

 しかし、クライは気にしなかった。

 彼の歩みは揺るがず、表情には喜びさえ浮かんでいた。

 もう二度と、彼らに会う必要はない。

 同じ島に残るとしても。

 南の塔は、この島の中でも最も離れた場所にある。

 最も近い場所は港だった。

 そこへ行くことができるのは、学園長から許可を得た者だけ。

 もちろん、クライはそんなことを知らなかった。

 彼が望んでいたのは、ただここから離れることだった。

 海の波を見ること。

 目覚める鳥たちの声を聞くこと。

 美しい日の出を見ること。

 そして、誰にも邪魔されない人生を送ること。

 もちろん、彼自身も分かっていた。

 ここが永遠の居場所になるわけではない。

 いつか必ず、この島を出る日が来るのだと。

 部屋へ戻ると、シオンは打ちひしがれていた。

 悲しそうな表情を浮かべていた。

 しかし、クライの姿を見ると、彼女は微笑んだ。

 一瞬だけ、その表情には安堵と恐怖が同時に浮かんでいた。

 —どうして?

 —ごめん。

 ただ……行くことにした。

 —私を置いていくの?

 —違う。

 これからも、ずっと会える。

 —まだ知らないんだね……?

 —何を?

 —あそこへ行くには許可が必要なの。

 今までより、ずっと会うのが難しくなる。

 —俺が会いに行く。

 だから、心配しないで。

 彼女は微笑んだ。

 —ほら、ここに座って。

 そう言いながら、彼女はベッドを軽く叩いた。

 クライは隣へ座った。

 すると、シオンは彼を抱きしめ、額へ優しく口づけをした。

 クライの顔は赤くなった。

 それでも、彼はその温もりを受け入れた。

 —分かってほしいの。

 あなたが私のそばにいるなら、きっとすべて上手くいく。

 私はあなたに意味を見つけたかった。

 なのに、今あなたは遠くへ行こうとしている。

 あなたがいなくなったら……私はどうすればいいの?

 —俺が連れて行くよ。

 だから大丈夫。

 それより、今は食べよう。

 クライはシオンの腕から離れ、食べ物がたくさん乗った台車を近くへ引き寄せた。

 二人は食事を始めた。

 もっとも、ほとんどを食べていたのはクライだった。

 夜はゆっくりと深まり、二人には眠気が訪れ始めた。

 —もう寝る時間だね、クライ。

 クライは小さくあくびをした。

 —うん……すごく眠い。

 彼は長い上着を脱ぎ、椅子へ放り投げた。

 シオンは立ち上がり、自分の服を脱いでいく。

 そして最後には、裸足と深紅の長い寝間着だけになった。

 その色は、彼女の金色の髪と、美しい翡翠色の瞳をより一層引き立てていた。

 —一緒に寝るの?

 —うん。

 眠るまで話せるから。

 どう? クライ。

 —いいけど……俺は三言くらいで寝ると思う。

 二人はベッドへ横になった。

 蝋燭の火を消し、互いに寄り添う。

 —覚えてる?

 私があなたを見つけた時のこと。

 —覚えてない。

 でも、いつも話してくれるよね。

 もう一度聞かせて。

 —あなたは、赤い薔薇が咲く野原に倒れていた。

 裸のまま、朝焼けの中で意識を失っていた。

 あなたは……私に生きる意味をくれた。

 だから、ありがとう。

 やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。

 クライは眠っていた。

 それでも、彼はシオンの言葉をすべて聞いていた。

 シオンは一人で静かに涙を流した。

 そして最後には、彼女も眠りへ落ちていった。

 —ああ……。

 シオンは勢いよく目を開いた。

 呼吸は乱れていた。

 —また……あの忌まわしい夢……。

 ゆっくりと首を動かす。

 ベッドは空だった。

 もう、クライはいない。

 彼女の指先が、静かに誰もいないシーツへ触れる。

 そこには、まだ彼の温もりが残っていた。

 数秒間、彼女は動けなかった。

 何も反応できず、ただその場にいた。

 その表情は、完全に変わっていく。

 小さな笑みが浮かんだ。

 しかし、それは幸せそうな笑顔ではなかった。

 壊れたような笑み。

 必死に「大丈夫」と自分へ言い聞かせようとしているような、絶望に満ちた笑顔だった。

 —違う……。

 彼女の手が震え始める。

 涙が、少しずつ頬を伝って落ちていく。

 —違う……だって、全部……。

 歯を噛み締める。

 呼吸は次第に不安定になっていく。

 彼女は空になったベッドを見つめた。

 ほんの数時間前まで、クライがいた場所を。

 そして――

 彼女の絶望は、ついに限界を超えた。

 —嫌ぁぁぁぁ!!

 強くベッドを叩く。

 一度。

 そして、もう一度。

 まるで、起きている現実を否定するように。

 —嫌! 嫌ぁ!!

 声は崩れ、涙はさらに激しく溢れ出す。

 その叫びは、心の奥底から湧き上がった絶望そのものだった。

 部屋全体が震え始める。

 彼女の身体から放たれたエネルギーの波が爆発し、周囲を襲う。

 家具は吹き飛び、壁は彼女の力による圧力で激しく揺れる。

 シオンは、崩れた空間の中心に立っていた。

 涙を流しながら。

 それは怒りではなかった。

 ただ――

 どうすることもできない、無力感だった。


═══════ ⟡ ⟡ ⟡ ════════


 —こんにちは、先生。

 —クライ、会えて嬉しいよ。

 準備はできたか?

 —はい。

 でも、外に出たらこの制服は脱ぎたいです。

 施設の正門が、重い音を響かせながらゆっくりと開いていく。

 差し込んだ光が、クライの視界を一瞬奪った。

 彼は、顔を照らす太陽を感じながら微笑んだ。

 —綺麗だ……。

 小さく呟く。

 太陽の温もりが彼の身体を包み込む。

 そして、一歩前へ踏み出した。

 背後には、三年間彼を閉じ込めていた壁が残っている。

 その先にあるのは、ただ一つの道だけだった。

 そして今度こそ――

 彼は、自分の意思でその道を歩むことを決めた。

こんにちは、このコミュニティでは新参者ですが、ぜひこの作品に一度目を通していただけると嬉しいです。


この小説はもともとラテンアメリカで生まれた作品ですが、日本語に翻訳することで、作品を本当に大切にしてくださる皆さんに届けたいと思っています。


いつかアニメ化やライトノベル化され、脚本家やクリエイターの方々と一緒に形にすることが私の夢です。


今はまだ、この作品を皆さんに届けることしかできません。


これから新しいエピソードも公開していく予定です。


どうか最後の一文字まで読んでいただけると嬉しいです。

きっと、見た目だけでは分からない、この作品の本当の意味を感じてもらえると思います。


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