8.料理房の見習い
内宮の奥。
香の匂いとは違う匂いが漂う場所がある。
油の匂い。
蒸気。
煮える音。
料理房だ。
宮廷で働く者たちの食事を作る場所。
ユィ――
つまりウーユエは、その入口に立っていた。
中からは怒鳴り声が響いてくる。
「火が弱い!」
「鍋見ろって言っただろ!」
「薪!」
威勢のいい声だった。
振り返ると、腕まくりをした女官が立っていた。
髪はきっちりまとめられていて、目つきが鋭い。
背はそれほど高くないが、立ち姿に妙な迫力がある。
「今日から入る見習い?」
「はい」
ユィは頭を下げた。
女官は腕を組み、じろじろとユィを見る。
「……細いな」
「ちゃんと働ける?」
「働きます」
即答すると、女官の口元が少し上がった。
「いい返事だ」
そう言って親指で自分を指す。
「私は大藍。この班のまとめ役だ」
「覚えときな」
「はい」
「まずは薪運び」
優雅な宮廷とは思えない仕事が飛んできた。
ユィは少し目を丸くする。
(……薪?)
「ぼーっとしてない!」
大藍が顎で奥を指す。
「火がなきゃ飯はできない」
「料理房の基本だ」
ユィは頷いた。
「はい」
料理房は忙しかった。
鍋がいくつも並び、
湯気が立ち上る。
女官たちは慣れた手つきで、刻み、炒め、煮る。
その間を――
ユィは薪を運び、水を運び、皿を洗う。
「そこ!」
「火弱い!」
「鍋見ろ!」
怒号が飛ぶ。
だが不思議と、嫌な空気ではない。
命令が飛び交う場所だが、
誰も陰湿ではなかった。
ただ忙しいだけ。
(……悪くないかも)
ユィは思う。
宮廷の奥より、よほど健全だ。
ふと視線を向けると、大藍が肉の塊をまな板に放り投げたていた。
どん。
乱暴な音がする。
(豪快……)
だが次の瞬間。
包丁が走る。
ざく、ざく、ざく。
無駄がない。
筋をきれいに外し、脂を落とし、厚さを揃える。
鍋では、アクを丁寧にすくっている。
(……丁寧だ)
見た目とは裏腹に、仕事は驚くほど繊細だった。
大藍は味見をして、鼻を鳴らす。
「……まだだ」
そして薪を一つ、放り込む。
火が強くなる。
ユィは思わず見入った。
(料理も、看護と同じだ)
(雑に見えて、実は細かい)
しかも――
食べ物がある。
料理房では、余ったものを少し分けてもらえることがある。
この日も、小さな饅頭が一つ。
「ほら」
大藍がぽんと投げてよこす。
「献上できないやつ」
「形が崩れてる」
ユィはそれを受け取る。
白くて、まだほんのり温かい。
「……いいんですか」
「見習いの特権だよ」
大藍は肩をすくめた。
「腹減ってると仕事にならないだろう」
「料理房は戦場だからな」
ユィは小さく笑う。
「ありがとうございます」
饅頭は、その場では食べなかった。
懐にそっとしまう。
(あとで食べよう)
そう思っていたのだが――
数刻後。
料理房を出て回廊を歩いていると、ふと、石階段のところで足が止まった。
そこに一人、座っている人影があった。
年老いた宦官。
痩せている。
背は少し丸まり、膝を抱えるようにして座っている。
そして――
ぐぅぅ……
小さく、しかしはっきりと腹の音が響いた。
ユィは思わず瞬きをする。
宦官もこちらを見た。
目が合う。
一瞬の沈黙。
宦官は、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
まるで――
「聞かなかったことにしてくれ」
と言っているみたいだった。
ユィは、くすっと笑う。
そして懐に手を入れた。
ごそごそ。
包み紙にくるまれた饅頭を取り出す。
「……あの」
宦官がちらっと見る。
ユィは声を潜めた。
「内緒だよ?」
そう言って、饅頭を差し出す。
宦官の目が――
一瞬で饅頭に釘付けになった。
次の瞬間。
ものすごい勢いで受け取った。
がつがつと食べる。
本当に、がつがつ。
あっという間に半分消えた。
ユィは目を丸くする。
(すごい食べ方……)
宦官は最後の一口まで食べると、
ぺろりと舌で唇をなめた。
そして、はっとした顔になる。
ユィを見て、
ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとう」
その声は、さっきまでの勢いとは違って、どこか丁寧だった。
ユィは肩をすくめる。
「お腹すいてたんでしょ」
宦官は少し笑う。
「三日だ」
「え」
「同僚に食われた」
ユィは吹き出した。
「宮廷って怖いね」
宦官は真顔で言った。
「食い物に関してはな」
それから数日。
ユィはすっかり料理房の動きに慣れていた。
薪の場所、水桶の重さ、火加減。
女官たちの性格。
料理房は、情報が集まる場所でもあった。
「今日は皇后宮の宴だって」
「また?」
「最近多いね」
そんな噂が、鍋の音の合間に流れる。
ユィは黙って聞く。
(……宮廷の空気)
確かに何かが動いている。
でも。
まだ、何も起きていない。
数日後。
人のいない回廊を、ユィは歩いていた。
雨の夜の出来事は、まだ胸の奥に残っている。
あのあと、何事も起きていない。
騒ぎもない、追跡もない。
まるで――
最初から何も起きなかったかのように。
「……変だな」
小さく呟いた、そのときだった。
背後から、声がした。
「はじめまして」
ユィが振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女官だった。
見覚えのある顔……けれど、どこで見たのかは思い出せない。
女官は静かに頭を下げる。
そして、言った。
「はじめまして」
その声は、落ち着いていて。
まるで、最初からすべてを知っているようだった。
「ウーユエ様」
その瞬間。
ユィの背筋が、ぞくりと震える。
なぜ。
この女は。
私の名前を知っている?
女官は顔を上げた。
その目は、静かだった。
まるで最初から――
すべてを見ていたかのように。




