6.脱走
その夜、雨が降っていた。
しとしとと、静かな雨。
石畳を叩く音が、宮廷の夜を柔らかく覆っている。
足音は、ほとんど聞こえない。
脱走するには――
これ以上ない夜だった。
内宮の奥。
茂みの手前で、ウーユエは立ち止まる。
その少し先に、外へ続く抜け穴がある。
ここから先は、もう宮廷の外だ。
その隣で、ファジョンが静かに立っていた。
彼女は懐から、小さな布袋を取り出す。
「これを」
差し出されたのは、掌に収まるほどの袋だった。
中から、かすかに金属の触れ合う音がする。
ホンニャンが目を丸くした。
「……これは?」
「銭袋です」
ファジョンは淡々と言う。
「多くはありませんが、しばらくは困らないはずです」
ホンニャンは慌てて首を振った。
「そんな……受け取れません」
「受け取ってください」
ファジョンの声は静かだが、きっぱりしていた。
「帰るのでしょう」
ホンニャンはしばらく迷っていたが、やがて両手で袋を受け取った。
小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その様子を見ながら、ウーユエは袖の中を探る。
「それと、これ」
差し出したのは、小さな包みだった。
布で丁寧に巻かれている。
ホンニャンが不思議そうに受け取る。
「薬?」
「うん」
ウーユエは頷いた。
「胃腸が弱ってる時の薬と、痛み止め。それから風邪の時に使うやつ」
ホンニャンは驚いた顔をする。
「でも……これはあなたの」
「私はまた作れる」
さらっと言う。
「でもお父さんは今、必要でしょ」
ホンニャンの目に涙が溜まった。
「……本当に、いいんですか」
ウーユエは肩をすくめる。
「そのために持ってきたんだよ」
しばらく沈黙が落ちる。
雨音だけが続く。
やがてホンニャンは包みを胸に抱え、深く頭を下げた。
「……絶対、忘れません」
その声は震えていた。
それから、顔を上げる。
「……ここから先は、一人で行ける?」
小さな声で尋ねると、ホンニャンはこくりと頷いた。
雨で濡れた髪が、頬に張り付いている。
「……ユィ」
ぽつり、とホンニャンが呟いた。
「え?」
ウーユエが首を傾げる。
ホンニャンは少し俯いてから言った。
「ユィってどうかな……」
「あなたの女官名」
ウーユエは瞬きをする。
ホンニャンは恥ずかしそうに続けた。
「虹は……雨がないと生まれないから」
雨粒が葉を叩く音が、二人の間に落ちる。
しばらくして、ホンニャンは顔を上げた。
「助けてくれてありがとう」
「ユィ」
そう言って、くるりと背を向ける。
足早に、茂みの奥へと歩いていった。
顔は見えない。
でも――
後ろから見える耳が、薄く赤くなっていた。
ウーユエは、小さく笑う。
「……うん」
「気をつけて」
その姿が闇の中へ消えるまで、見送った。
誰にも見つからずに外へ出られて、よかったね。
そう思いながら、ウーユエはくるりと踵を返す。
――だが。
その場には、まだもう一人、息を潜めている者がいた。
雨に濡れた木陰。
暗がりの奥。
そこから、二人の様子を見ていた視線があった。
しかし。
その人物は何も言わない。
動きもしない。
ただ、静かにその場に立っていた。
そして――
やがて、足音が遠ざかると。
その気配もまた、雨の夜の中へ溶けていった。
ウーユエも、ホンニャンも。
その視線には気づかなかった。
その夜のことを知る者は――
ウーユエと、ホンニャン。
そして、もう一人。
三人だけだった。




