10.杞憂
夜。
女官寮の灯りはすでに消えていた。
四人部屋の寝室には、静かな寝息が響いている。
ルールーだ。
昼間の威勢とは違い、よく眠るらしい。
(……今のうち)
ウーユエはそっと布団から抜け出した。
床板がきしむ。
少しだけ息を止める。
だがルールーは起きない。
ぐう、と寝息が続いている。
(よし)
音を立てないように、足を運ぶ。
向かうのは厠だ。
見習い女官の夜間行動は制限されているが、厠なら問題ない。
静かに廊下へ出る。
夜の宮廷は昼とは別の顔をしていた。
静かで、広くて、少しだけ不気味だ。
用を済ませ、戻る。
そのときだった。
――さっ
背後で、何かが動いた。
(え)
次の瞬間。
腕が後ろに引かれた。
「!?」
口を塞がれる。
視界が布で覆われる。
ぐるぐると体が巻かれた。
(なにこれ!?)
完全に簀巻きだった。
(誘拐!?)
叫ぼうとするが、声が出ない。
そのまま、担がれた。
廊下を進む。
曲がる。
階段。
庭。
そして――
ぱっと視界が明るくなった。
布が外される。
「……え?」
ウーユエは瞬きをした。
見覚えのある天井。
見覚えのある柱。
見覚えのある梁。
そして――
天井の隅にある小さなシミ。
(……あれ)
知っている。
ここ。
「……ノビルデン?」
皇女宮。
野蒜殿だった。
呆然としていると、隣の部屋から声が聞こえた。
「自分から話すと言っていましたが」
淡々とした声。
「まだ話していなかったのですか」
もう一つの声が答える。
「……はい」
苦笑混じりの声だった。
「この方が合理的かと」
ウーユエはゆっくり顔を向けた。
そこに立っていたのは――
あの女官だった。
そして――
その横には――
「……ファジョン」
ファジョンが、困った顔で笑っていた。
「ウーユエ様、申し訳ありません」
深く頭を下げる。
「フウジは合理性で動くところがありまして」
「多少、常識に欠けることがあります」
ウーユエは目を細めた。
「……多少?」
つい繰り返す。
沈黙。
自分は今、簀巻きにされて野蒜殿まで運ばれてきたのだ。
それを「多少」で済ませるのか。
ウーユエがじっと見ていると、ファジョンは苦笑した。
「……はい」
「多少です」
横でフウジが静かに口を開いた。
「合理的でした」
「寮から連れ出すより安全です」
真顔だった。
ウーユエは思った。
(この人)
(本気だ)
ファジョンが小さく咳払いをした。
「……フウジ」
「はい」
「ほどほどに」
「善処します」
全然反省していない。
そしてその女官が、静かに頭を下げた。
「改めて名乗ります」
「蓮風児。元・監察房所属の上級女官です」
ウーユエは少しだけ目を見開く。
監察房。
宮廷の警備と監視を担当する部署だ。
フウジは続ける。
「雨の夜、女官見習いを逃がすところを見ました」
空気が静まる。
だがフウジの声は変わらない。
「その場にいたのは私だけです。記録は……異常なし。脱走者なし」
淡々と言った。
「報告もしていません」
ウーユエはじっとフウジを見る。
「……どうして」
フウジは少しだけ考えた。
それから言う。
「死にかけたからです」
意味が分からない。
だがフウジは続けた。
「雨の夜のあと、私は病で倒れました。監察房は仲間を助けません」
静かな声だった。
「自力で立ち上がれ、死んでも拾うな」
それが規律だという。
「食事だけ置かれます。ですが、私は起き上がれなかった」
そこで――
視線をファジョンへ向けた。
「扉が開きました。窓を開け、薬を置き、空気が悪いと体調を崩すと言いました」
ウーユエは息を止めた。
「……看護学」
フウジは頷く。
「そうです。……命を救われました」
そして言った。
「これは、皇女ウーユエ様の学問だと。そう聞きました」
ウーユエは少し驚いた顔をする。
ファジョンが肩をすくめた。
「つい」
フウジは続ける。
「ですから、調べました。あなた方を。そして思いました」
わずかに間を置く。
「この人たちと、働きたい」
机に書類を置く。
「移動願です。既に受理されたものですが」
「監察房を離れ、内宮へ」
ファジョンが補足する。
「上級女官として。正式にウーユエ様付きになりました」
沈黙。
しばらくして――
ウーユエはぽつりと言った。
「……つまり」
「全部」
「杞憂だった?」
フウジは頷く。
「はい」
「その通りです」
ウーユエは天井を見上げた。
そして――
深く息を吐いた。
「……よかった」
ほんの少しだけ、笑った。




