9.鹿鹿
「ウーユエ様」
その言葉が耳に落ちた瞬間。
ユィ――
いや、ウーユエの背筋に冷たいものが走った。
心臓がどくん、と鳴る。
(……まずい)
頭より先に、体が動いた。
くるりと踵を返す。
そして――
走った。
回廊を。
ひたすら走る。
柱を曲がり、庭を抜け、また回廊へ出る。
(なんで知ってるの)
(誰)
(いつから)
頭の中で疑問が弾ける。
だが振り返る余裕はない。
とにかく距離を取る。
走って、
走って、
走って――
「ちょっと!!」
鋭い声が飛んだ。
「何やってんの!?」
ユィははっとして足を止めた。
「そっち立ち入り禁止区域だよ!!?」
振り返ると、女官が腕を組んで立っていた。
深い青色の女官服。
中級女官の装束だ。
年は十代後半ほどだろうか。
髪はきっちり結われているが、口元はかなり不機嫌そうだった。
「杖ババアの言うこと聞いてなかったの!?」
(杖ババアって……)
ユィの頭に、育女院で説明していた老女官の姿が浮かぶ。
(あの人のことだよね……?)
思ったより敬意がない。
というか――
(口が悪い……)
女官は大きくため息をついた。
「はぁ……見習いか」
灰色の衣を見て、呆れたように言う。
「どこの房?」
「……料理房です」
女官の眉がぴくっと動いた。
「班は?」
「……ダイラン班です」
一瞬の沈黙。
それから女官は額を押さえた。
「あちゃぁ……」
そして小さく呟く。
「ダイラン姐のとこかー」
ユィは首を傾げた。
「……何か問題あるんですか?」
女官は肩をすくめる。
「問題っていうか」
「まあ……」
少し笑った。
「生き残れたら立派だよ」
そう言ってくるりと歩き出す。
「ついてきな」
ユィは慌てて後ろを歩いた。
女官は振り返りもせず言う。
「私は鹿鹿」
「中級女官」
「見習いの世話係」
ウーユエは小さく瞬きをする。
「今日からあんたの同室」
「……同室?」
「知らないの?」
ルールーは少し呆れた顔をする。
「見習いには守り役がつく」
「生活説明と監督係」
「変なことして処罰されたら面倒だからね」
言い方は雑だが、どうやらそういう役目らしい。
歩きながらルールーは続けた。
「料理房は班で動く」
「ダイラン班なら基本その班と仕事」
「でも宴とかあると臨時で別班とも組む」
なるほど。
「だから寝室は班と分ける」
「同じ人間ばっかだと揉めた時面倒だから」
(合理的)
宮廷は思っていたより現実的だった。
やがて女官寮が見えてくる。
木造の建物。
質素だが整っている。
ルールーは扉を押し開けた。
「ここ」
中には布団が四つ並んでいた。
薄い。
かなり薄い。
「四人部屋」
ルールーが言う。
「今は二人だけ」
「残りは明日来る」
ウーユエは静かに頷いた。
夜。
灯りが消される。
布団に入る。
硬い。
野蒜殿の寝台とは比べものにならない。
(まあ……当然か)
横ではルールーがもう寝息を立てている。
ウーユエは天井を見つめた。
今日の出来事が頭を巡る。
――ウーユエ様。
あの女官の声。
あの目。
(誰)
(どうして)
(いつから知っていたの)
本当なら今すぐ野蒜殿へ戻りたかった。
ファジョンに報告しなければならない。
だが――
今日は無理だ。
見習いの行動は管理されている。
夜に抜け出すのは危険すぎる。
(どうしよう)
胸の奥に小さな焦りが広がる。
あの女官は――
敵なのか。
それとも。
味方なのか。
答えはまだ分からない。
ウーユエはゆっくり目を閉じた。
だがその夜。
眠りはなかなか訪れなかった。




