09_さよならは言えないけど
イルメダは、突如として現れたノアに動揺を隠せなかったようだ。
何せ、豹王の称号を有する七獣の王が女性の姿になってやってきたあげく、しばらく生徒として滞在したいと言ったのだから当然だろう。理由を聞くイルメダにノアは、不気味な泥人形の存在と、ナジャの女王がその仲間とおぼしき者に殺害されたという衝撃的な事実を語った。
しかし、ノアは自身の体内に宿る「それ(it)」については、硬く口を閉ざした。
イルメダは混乱しながらも、最終的には彼を受け入れた。学園の生徒たちに危険が及ぶことを何よりも危惧していたが、事態の深刻さは、もはや一個人の不安を飲み込むほどに巨大な影を落としていることを、優秀な元部下は理解したようだった。
それから二日遅れて、ファレルからの伝令鳩が舞い込んだ。
そこには、ノアは現在セーブルで療養中であり、近々開催される会議にも出席予定であると周囲に触れ回っている旨が記されていた。もっとも、会議当日は「急な体調不良」で欠席させる手はずだという。
可能な限り、ノアへの注目を外す、その目的通りにファレルは進めてくれているようだ。
今は表舞台に立つことよりも、ヘルナの協力を取り付けることの方が先決だ。
森に泥人形が潜んでいたことを考えれば、敵が偽のノアに欺かれているのか、あるいは念のために包囲網を敷いているのかは判然としなかったが、いずれにしても事態は急を要した。
そして、今日。運命の収穫日が訪れた。
空がようやく淡い光を帯び始めた早朝。ノアは窓辺に立ち、手にした羅針盤を見つめていた。針の先は、まっすぐに暗い森の奥を指し示していた。
ノアは静かに振り返り、ベッドで眠るジルに視線を落とした。
穏やかな寝息が耳に届く。この数日間、彼はジルと共に、何事もない日常を演じ続けてきた。
襲撃を受けて以来、日に日に体内を蝕んでいくような感覚があったが、ジルと過ごす時間はその侵食を食い止めてくれているようだった。彼女が淹れてくれる紅茶を飲めば腹の底から温まり、何気ない触れ合いは心と体の疼きを鎮めてくれた。
(それも、今日で最後だ)
今のノアは、もはや女の姿をしてはいなかった。
今ジルが目を覚ませば、目の前にいる見知らぬ男の姿に悲鳴を上げるだろう。その前に、ここを去らねばならない。ノアは最後に、ジルの髪を一房そっと指先で持ち上げた。
金色に、筋状の赤毛や栗色が混じり合う不思議な色合い。光の加減で表情を変えるその髪を、ノアは美しいと思った。ジルはよくノアの容姿を褒めたが、ノア自身は、首都にいる多くの貴族の作り込まれた美よりも、彼女の持つ柔和で小動物のような愛らしさを好ましく感じていた。
名残惜しさを振り払うように、指を離す。その時だった。
「……いくの?」
目を閉じたまま、ジルがぽつりと呟いた。
「ああ……」
反射的に答えた後、ノアは慌てて口元を押さえた。男の姿であることを忘れていた。漏れ出たのは、自分でも驚くほど低い男の声だった。
だが、ジルは特に驚く様子もなく、ただ横たわったまま続けた。
「気をつけてね……」
言葉の語尾が、わずかに震えて歪む。
彼女は気づいているのだ。ノアが去ること、そして、二度と戻ってこないであろうことも。何も聞かないと約束した彼女は、最後の瞬間までその約束を守り通そうとしているのだ。
これでいいのだろうか。ノアの胸を、言いようのない逡巡がかすめた。
しかし、彼は一度開きかけた唇を固く結び、そしてそのまま部屋を後にした。
「さよなら」は言えなかった。それを口にすれば、二度と歩き出せなくなるような気がしたから。
ノアが去り、静まり返った部屋で、ジルは大きく息を吐き出した。本能が告げていた。彼はきっと、もう帰ってこない。ノアの目的が何であれ、それが果たされたとしても、あるいは失敗したとしても、彼がここに留まる理由はもうないのだろう。
あの日の化け物を思い出す。ノアが消し飛ばしたあの女は、明確に彼を殺そうとしていた。ジルは、ノアが貴族だろうと推測していた。それも、自分のような孤児上がりの平民が一生かかっても手が届かないような、高位の貴族。
もし卒業後、念願の王立薬学院で助手になれたとしても、彼と対等に話すことなど叶わない。それどころか、彼の正体を知らぬふりをして過ごさなければならないのだ。
共に紅茶を飲み、穏やかに笑い合ったノア。
死の淵から自分を救い出してくれた、ノア。
たった二週間に満たない短い月日が、ジルの中に消えない爪痕を残していた。
(私が、魔法使いだったらよかったのに)
申し訳程度の魔力しか持たない、非力な小娘ではなく。
彼を助け、共に歩めるだけの力があれば。
ぽろりと零れた雫を皮切りに、涙はとめどなく溢れ続けた。
この小さな学校で育ち、世間知らずだと自覚してはいたけれど。
それが「初恋」だということを、ジルは痛いほど理解していた。




