08_『it』③
窓から差し込む陽光は穏やかだったが、ノアの体内に宿る「それ(it)」は、その光さえも侵食するかのような異物感を放っていた。
シャニンの処置により、ノアの顔色には生気が戻りつつあった。しかし、回復に比例して、内側から肺を、あるいは心臓を、冷たい指先でなで回されるような感覚が強まっていく。
「……やはり、魔力を糧にしているようですね」
シャニンの診断は冷徹だった。
ノアがおもむろに指を鳴らし、傍らのサイドテーブルを数センチ浮かせると、体内の「それ」が喜び脈動するのがわかる。魔力が吸い取られ、微かにどろりとした不快感が身体を巡る。
「少し動かしただけでこれか……」
「今はまだ一部に過ぎないのでしょう。もし三百年前に大魔法使いが封印した存在の『すべて』が入り込んでいたなら、瞬時に爆散していたはずです。ですが……」
シャニンは言葉を切り、沈痛な面持ちで続けた。
「長い年月を経て弱体化した結果、今ここにあるのが『本体のすべて』である可能性も否定できません。どちらにせよ、これ以上の魔法使用は控えてください。特に強力な魔法は厳禁です。魔力が枯渇した際、その飢えた怪物が何に食らいつくか……想像もしたくありません」
隣で腕を組んでいたファレルが、苦々しく吐き捨てた。
「無理に引きずり出そうにも、今の俺たちにはそれを再封印する術がない。もしノアから離れて別の王族や、あるいは無関係な者に飛び火すれば、それこそ目も当てられんぞ」
数日後。ノアの回復を見届けたファレルとシャニンは、帰路に就く準備を進めていた。
ノアはファレルと密談し、一つの決断を伝える。
「ヘルナに会うつもりだ」
その名を聞いたファレルの眉が動いた。
知の大魔女、ヘルナ。二百年以上前から国の西にある『薬草の森』に隠居し、この世のあらゆる理を知ると言われる伝説的存在だ。一説には千里眼を持ち、人里を離れた場所にいながらも世界を見通しているとも囁かれている。彼女は大魔法使いの中でも特に長命で、浄化の大魔女オルガナと同じ時代を過ごしたと聞いていた。
「彼女であれば、『it』のことももう少し詳しく聞けるかもしれない」
「会う方法があるのか?」
ファレルの言葉に、ノアは静かに頷いた。
かつて、好奇心旺盛でお転婆な少女だったノアの曽祖母は、たった一人で薬草の森へ分け入り、ヘルナを探し当てたという。魔女はなぜか彼女を気に入り、再び自分の元へ来られるようにと、羅針盤を授けたという。
しがない田舎子爵家の長女だった彼女が皇后にまで上り詰めたのは、この羅針盤がきっかけでもあった。
当時、ヘルナを懐柔した曽祖母を籠絡して「愛人にしろ」と命じられた曽祖父が、嫌々ながら彼女に会いに行き、そして一目惚れした。そして曽祖父は、周囲の反対を押し切って、彼女を妻にするために戦ったのはまた別の伝説だった。
「ファレル、お前には狼王への伝言を頼みたい。収穫祭に合わせて七獣国会談を招集してくれ。同時に、セーブルとの二国間会議も設定してもらいたい。俺は療養を兼ねて、セーブルの城に滞在することにする。……表向きはな」
「わかった。引き受けよう。こういうときは俺の幻術が役に立つからな」
ファレルは短く頷いた。
ノアはその後、オリビアにも真実を告げた。
もしノアの身に何かあれば、次の王位継承はオリビアとなるからだ。彼女は取り乱すことなく、計画を聞くと「城のことは任せて」と、凛とした声で応えた。
別れの間際、ファレルがオリビアを前にして、いつになく緊張した面持ちで挨拶を交わす様子が見えた。普段のノアなら「愉快な見ものだ」とからかう余裕もあっただろうが、今の自分にその暇はない。
ファレルの幻術によって「ノアが同行している」ように見せかけた一行が城を去るのを見届け、本物のノアは一人、西へと向かった。
幸いなことに、季節ごとに訪れる収穫祭は二週間後に迫っていた。
ノアはかつての良き腹心であり、今は学校を運営しているイルメダのもとへ身を寄せることにした。
魔女が住まう中心部への扉が開かれるのは、収穫祭の日だけ。
『薬草の森』には、ホロウが徘徊しており、普段は少女以外が足を踏み入れようとすれば追い返されてしまうという。なぜ少女だけが森へ招かれ、その日だけ門戸が開かれるのか。その真意を知る者はいない。
(……受け入れてくれるだろうか。曽祖母と同じように)
もし本当に千里眼を持つというのなら、どうか受け入れてほしい。
だが、握りしめた羅針盤は、クルクルと回るばかりだった。




