05_境界線の上で
談話室を去ったジルの小さな背中に、かける言葉が見つからなかった。
何も聞かない――。
物分かりの良いその言葉に甘えるべきだとは分かっていた。だが、去り際に彼女が見せた微かな痛みの色が、棘のようにノアの胸に突き刺さって離れない。
「……だから申し上げたでしょう。ジルは聡い子だと」
続き間から、音もなくイルメダが姿を現した。彼女は主君の、どこか納得のいかないような苦悶の表情を、不思議そうに観察している。
「賢い子ですよ、彼女は。自分が踏み込める範囲をわきまえたのでしょう。……さて、いかがなさいますか。ジルの話によれば、森に潜む『泥人形』に仲間の気配はないようですが」
「……予定通り、収穫祭は決行する。俺一人でだ」
短く応じるノアの声は冷徹だった。これ以上、生徒たちを危険に晒すわけにはいかない。単独行動が最善だ。
「ホロウは導いてくれるでしょうか? あらゆる文献にある通り、彼らは清廉な乙女しか相手にしませんよ。……今の『あなた』様の姿でも無理だとは思いますが」
女の姿を暗に揶揄され、ノアはぎろりとイルメダを射抜いた。彼女は悪びれる様子もなく、軽く肩をすくめてみせる。
「この格好は追っ手の目を欺くための変装だ。森に入るための策ではない」
ノアは懐から、古びた銀の懐中時計を取り出した。リューズを押し込むと、現れたのは文字盤ではなく、奇妙な羅針盤だった。針は定まらず、中心でただ力なく円を描き続けている。
「大昔、この森に住んでいた大魔女ヘルナの親友だった……俺の曾祖母が遺したものだ」
「先々代の王妃殿下の……」
「ああ。曾祖母もまた、類まれな魔法使いだったからな。収穫祭の時期になると、これを道標にしてヘルナの元へ会いに行っていたそうだ」
果たして、今の自分をこの針が導いてくれるかは賭けだった。だが、今のノアに残された手立ては、この古い遺物しかない。
以前、今の女の姿で森の深部を探ろうと試したことがあった。だが、結果は失敗に終わった。一歩踏み込むたびに景色が歪み、気づけば元の場所へ押し戻されていたのだ。
ジルを救ったとき、ホロウたちが道を開けてくれたのは、あまりに特殊な例外だったのだろう。今朝、朝食前に一人で森の境界を歩いてみたが、彼らが再び姿を見せることはなかった。
(ならば、なぜあの『泥人形』は森へ入ることができた……?)
奴らに特別な加護があるのか。それとも、単にノアと違い「本物の女」だったからか。だがあのおぞましい怪物を女と呼ぶことには抵抗がある。
女というのは、もっと柔らかくて、暖かい……。そう、ジルのような……。
「……殿下? どうされました」
眉間に深い皺を寄せて黙り込んだノアに、イルメダが問いかける。ノアは慌てて首を振り、雑念を振り払った。どうにも、この学校に来てから調子が狂いっぱなしだ。
「……ジルだが」
「そのお話は、先ほど終わったかと」
「ジルは『ホロウが視える』と言っていた。君は知っていたのか」
「左様ではないかと推測はしておりました。彼女は頻繁に森へ足を運んでいましたし、何もない空間に向かって楽しげに語りかける姿を、他の生徒たちも目撃していたようですから」
どうやら、ジルが思っているほど彼女の秘密は隠せていなかったらしい。
「ホロウを視認できるのは、高位の魔法使いだけだと思っていたが」
「世に例外はつきものです。ですが、彼女の魔力量が極めて乏しいのは事実です。入学前後の計測でも数値は変わりませんでした。そうでなければ、そもそもこの学校へ来るはずもありません。強大な魔力は、いつの世も選ばれた特権階級にのみ宿るものですから」
ジルの魔力が少ないことは、ノア自身、肌感覚で理解していた。魔法使いは同類を本能で見分ける。彼女からは、魔力の揺らめきが一切感じられないのだ。
だが、今朝の出来事が、どうしても疑念として胸に残る。
目覚めたとき、隣にジルがいたこと。そして、自身の「変化の魔法」が跡形もなく解けていたこと。変化の魔法は構造こそ単純だが、ノアほどの魔力で編んだ術が、他者の干渉なしに自然に解けるとは考えにくかった。
(ジルと接触したせいか……? 魔法使いですらない、彼女に?)
「殿下?」
「……わからん」
今朝、ジルの温もりを感じながら目覚めた瞬間の、あの圧倒的な安寧。肉体を巣食っていた呪いの痛みが凪ぎ、久方ぶりに訪れた静寂。同時に、先ほどの彼女の寂しげな横顔を思い出し、ノアは低く呻いた。
自ら引いた、明確な境界線。
王として、それが正解であるはずなのだ。
※
数日後。授業を終えたジルは、ラウンジの片隅で一人、冷めかけた紅茶を啜っていた。
全校生徒に「外出禁止令」が出されたため、行き場を失った生徒たちでラウンジはごった返している。
今日、収穫祭の中止が正式に発表された。
表向きの理由は「狼の目撃情報」だが、真実が別にあることをジルは知っている。収穫祭では、普段は立ち入りを制限されている森の深部へ、希少な薬草を摘みに行く。過酷な行事だが、その報酬として振る舞われる特別な食事やお菓子を、子供たちは何よりも楽しみにしていた。
周囲からは不満の声が漏れていたが、ジルは中止と聞いて、心の底から安堵した。
(ノアは、みんなを巻き込むようなことはしないって信じてたけど……)
談話室での対話から三日が経ったが、二人の仲はぎこちないままだった。同室ゆえに顔は合わせるものの、ノアは意識的に距離を置いているようだった。自由時間になれば、彼女は一人でどこかへ消えてしまう。
周囲からは「仲良しだったのにどうしたの?」と不思議がられたが、ジルは力なく笑って誤魔化すしかなかった。
ジルはカップを見つめ、深いため息をついた。
正直に言えば、たまらなく寂しかった。
理性の部分は「仕方のないことだ」と納得していても、感情の部分が、どうしてもノアの傍にいたがっていた。ノアがなぜ姿を変えてまでこの学校にいるのか、どんな危険を背負っているのか、ジルには分からない。そして何より、自分の無力さが身に染みた。あの森で、自分はただ逃げ惑うことしかできなかった。ノアがいなければ、今頃はこの世にいなかっただろう。
何もできない自分。ノアが「答えられない」と言ったのも、聞いたところで自分が何の助けにもなれないからだと分かっている。
(何の役にも立てなくても……せめて、前みたいに一緒に笑えたらいいのに)
ノアが、ジルの淹れた紅茶を「至高の飲み物」であるかのように、慈しむように飲んでいた姿を思い出す。
カップをソーサーに戻し、ジルは深く俯いた。
一方、ノアもまた、最悪の気分で図書室の片隅に籠もっていた。
ふとした瞬間にジルの顔が脳裏を過り、そのたびに壁に頭を打ち付けたくなる。それに、体調も芳しくない。森で攻撃魔法を使い、結界を張った代償が、今になって泥のように重く身体にのしかかっていた。
「ノア」
聞き覚えのある声に振り返ると、エルマが立っていた。彼女の後ろには、クラスメイトや年下の子供たちが、ずらりと不機嫌そうな顔を並べて控えている。
「エルマ?」
「単刀直入に言うわ。ジルと仲直りして」
エルマが代表して、詰め寄るように告げた。
「……別に、喧嘩をしたわけじゃない」
「嘘。じゃあ、なんで一緒にいないのよ」
「それは……少し、行き違いがあって」
「行き違いって何?」
問い詰められ、ノアは言葉に詰まった。
「うまく説明できない。……説明のしようがないんだ」
「それは、ジルが悪いの?」
最後尾にいた小さなソーニャが、「ジルが悪いことするわけないもん」と涙目で擁護する。
その通りだ。彼女は、何一つ悪くない。
「……いや、ジルは悪くない」
「じゃあ、仲直りしてよ! ジルがあんなに落ち込んでるの、見てられないんだから。彼女を悲しませないで」
「……どうすればいいのか、わからないんだ」
「わからないって何よ! ジルと仲直りしたいの? したくないの?」
「……したい」
ノアの口から、本音が漏れた。
したいに決まっている。何も打ち明けることはできなくても、本能が彼女の隣を求めていた。
「じゃあ、行きなさいよ。ほら、立って!」
エルマとリアに両腕を掴まれ、半ば強制的に立たされる。後ろには大勢の「ジルの味方」が付き従い、まるで王の凱旋――というよりは、公開処刑に連行される罪人のような心持ちで、ノアは廊下を歩かされた。
ラウンジに辿り着くと、窓際の席で一人、萎れた花のように俯くジルの姿があった。エルマたちがノアの背中を押し出す。
「ほら、行くのよ」
振り返ると、一同が「失敗は許さない」という眼差しを向けていた。エルマが口パクで「行け」と指差し、釘を刺す。彼女なら、ノアの正体が「王」と知っても、同じ態度ではないかという妙な確信があった。
周囲の圧に押されるように、ノアは窓際へと歩み寄った。
近づくと、ジルが顔を上げた。視線がぶつかる。ノアは口を開こうとしたが、やはり言葉が出てこない。
だが、ジルはじっとノアを見つめると、すっと静かに向かいの椅子を指し示した。
重苦しい沈黙。先に沈黙を破ったのは、ジルだった。
「……紅茶、飲む?」
もう冷めてしまっているけれど、という控えめな問い。ノアは深く頷いた。ジルの淹れてくれる、あのマホガニー色の輝きを思い出した途端、喉の乾きが限界に達した。
ジルが棚からカップを持って戻り、紅茶を注ぐ。
「……ありがとう」
受け取り、一口啜る。
やはり、ジルの紅茶は素晴らしかった。どんな極上の美酒も敵わない。それはただ喉を潤すだけでなく、腹の底から温かな生気が湧き上がってくるような心地がした。
「ノア」
「……うん」
「明日も、一緒に紅茶を飲もう?」
柔らかく微笑む彼女の姿に、ノアは言葉を失った。
思わず手で口元を覆い、呻くように「……うん」とだけ答える。ジルの笑みが、さらに深く、穏やかなものに変わった。
「ノア、私、何も聞かないよ。でも、こうやって一緒に過ごせるなら嬉しい。……私、寂しかったの」
その率直な告白に、ノアは己も同じであったことに気づかされた。
そうだ。自分も、たまらなく寂しかったのだ。
王という立場は、孤独は当然のことなのに、孤独には慣れているはずなのに。
今はさらに忌まわしい呪いに蝕まれている。偽りの姿でここにいる。何一つ、本当のことを教えてやることもできない。
けれど。
ノアはジルの手を取った。その柔らかく白い指先を、祈るように自分の額に当てる。
出会ってから、まだ幾日も経っていない。
自分たちが住む世界に、埋めようのない境界線があることに、あれほど憤っていたはずなのに。
「……自分もだよ、ジル」
更新情報はX(@sharineko01)にて
3/2 加筆、修正しました




