20_幻影と虚飾の世界へようこそ⑤(二章終)
背後の椅子が弾け、鋭い木製の破片がジルの腕をかすめた。悲鳴は上げなかったが、心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。たとえ魔法そのものを無力化できたとしても、弾け飛んだ物体による物理的なダメージまでは防ぎきれない。乱雑に並べられた椅子は、今や彼女を追い詰める十分な凶器だった。
ジルが必死の思いで、外廊下への出口へと辿り着くと同時に、背後からガチ、ガチャと耳障りで奇怪な音が響いた。振り返ると、軽く十を超える椅子が意志を持ったかのように宙に浮いている。それが一斉に降り注ぐ直前、ジルは外廊下へと飛び出た。背後で木が激しく弾ける音が響き渡る。
(出口! 出口っ!)
前にも、こんなことがあった。あの時は暗い森の中で、絶望の淵にいた自分をノアが助けてくれた。けれど、今はそれを望むことはできない。ただ、あの時と違うのは、今のジルが不思議と恐怖に飲み込まれていないことだった。
二重構造になっているはずのテントだが、入場した時に側面にあった出入口が見当たらない。幸いにも、ジルを舞台に連れ込んだあの不気味なウサギたちもいなかった。あれも魔法で生み出された虚像だったのだろうか。ジルは外と接する壁に手を触れたまま、必死に走り続けた。
内側の厚みのあるテント地の向こうから、凄まじい絶叫が聞こえる。それが頭だけになった白ウサギの声だとジルは直感したが、足を止めることなど到底できなかった。
「あっ!」
突如として、指で触れていた壁が消え、走る勢いのままジルは地面へと倒れ込んだ。腕と膝に鋭い痛みが走り、思わず呻き声が漏れる。
「いった……」
顔を上げると、そこには待ち望んだ外の世界が広がっていて、自分がテントの入り口に倒れ込んでいることに気づいた。視線の先には祭りを楽しむ人々の姿が見える。だが、安堵する暇もなかった。背後に立ち込める不穏な気配に見上げると、そこには狐面が悠然と腕を組んで立っていた。恐ろしいのは、その白い手袋にこびりついた赤。紛れもない、生々しい鮮血だ。
「あのクズは……」
クツクツと、狐面が愉快そうに笑った。
「こんな派手な舞台を用意して、我々の大事な箱まで持ち出した挙句に、失敗をしたわけだ。エリアス・サルダーノを引き入れるという目的一つ果たせずに。だが、お前のような面白い素体を紹介してくれたのだから、クズはクズなりに少しは役に立ったようだな」
「私はただの……」
「ただの? ん? 魔法を使えない大魔女代行か? 確かにそうだろう。いずれにしても、魔法を弾かれたのは初めてだ。催眠が効かないというのも、どういう原理か、是非とも知りたいね。豹王の注目を浴びるのは本意ではないが、こうなった以上、エリアス・サルダーノと一緒に我々の役に立ってもらおう」
「エリアスはあなた達に捕まらないわ」
「もちろん捕まる。私がここにいたのと同様に、あの役立たずのクズ……じゃない、ただのクズだな。奴が失敗することも考えてたさ。当然だろう。さて、おとなしく来てもらうか。これ以上手間をかけさせるなら、今我々に注目している連中を片っ端から殺すのも一興だ」
その脅しは、残酷なほど効果的だった。テントの前に倒れたままのジルに気づいた人々が、不審そうに足を止めていたからだ。少女がトラブルに巻き込まれているのか、それとも狐の催す余興の一部なのか、彼らには判断がつかないようだった。
「催眠が効かないのはまずかったな。おかげで無事に返すという選択肢は無くなっ――」
言葉の半ばで、狐面の身体が弾かれたように飛び散った。そのカケラが泥のような塊となってジルの腹に落ち、その衝撃にジルは声にならない叫びを上げた。背後でも、異常事態を察した人々の悲鳴が上がる。
腹の上の塊が泥であることにすぐには気づけなかったが、その塊は蠢き、周囲に散った欠片と合わさって、再び人の姿へと変異していく。呆然とその光景を眺めていたジルの体が、強い力で引っ張られた。
「ジル」
耳に届いたその声に、ジルは泣きたくなった。首を巡らせ、すぐ傍にある端正な横顔を認めて、さらに泣きたくなり、無意識に背中に腕を回していた。ノアもまた安心したように息をつき、ジルを抱きしめた。
「怪我は?」
問われ、ジルはぐっと唇を噛み締めて首を振った。腕や膝の擦り傷など、怪我のうちにも入らない。ノアは狐面から視線を逸らさぬまま、徐々にジルを連れて距離を取った。
「大丈夫だから」
その落ち着いた声に、ジルは小さく頷いて腕を離した。
なぜノアがここにいるのか。見慣れない制服を纏っている理由も気になったが、それは後回しでいい。その時、近くにいたもう一人の人物にジルは気がついた。
「エリ! 無事だったのね!」
安堵と共に抱きつくと、ジルよりも小柄な体がかしいだ。
「まぁ、万事が大丈夫ってわけじゃないけどね」
そう苦笑するエリアスを見ると、確かに黒い髪も顔も、服までもが土に汚れている。
「飛んだ先で襲われたのを、彼が助けてくれたんだよ」
どこか不本意そうな響きはあったが、ジルは彼の無事を心から喜んだ。
「話はあとだ。まずは奴を捕まえないと」
ノアの声に、ジルは背筋を伸ばした。その響きはどこか不機嫌そうだ。対する狐面は元の場所から動く様子はなく、ただエリアスの奪取に失敗したことを悟り、微かに苛立ちを滲ませていた。
「……やめましょう」
唐突な休戦の申し出にも、ノアは警戒を解かなかった。だが、狐面は両手を広げ、これ以上の戦う意思がないことを示した。
「嘆かわしいことに、どうやら今日の我々は悪手ばかりのようです」
「遠慮しなくていい。せっかくご対面できたんだ、戦おうじゃないか」
「あいにく御体を傷つけるわけにはいきません」
ノアの指先が微かに反応したのを見て、ジルは咄嗟に彼の手を取り、強く握った。
「……その話を詳しく聞かせてもらいたいものだな」
「あなたを傷つける意思がないとだけわかっていただければ、それでいいのです。……我々はモーガンほど過激ではないのですよ」
モーガン。狐面はモーガンが死んだことを知っているのだろうか。それとも、どれほど緊密な関係なのか。
「この身体の主とやらが欲しくないのか?」
「いずれは我々を導いてくれるでしょう。しかしモーガンの人選は正しかったようだ。正直、とっくに魔力を食い尽くされてる頃だと予測していたのですがね。さすがでございます、豹王陛下」
芝居がかった手拍子を打つと、次いで狐面は空を指差した。
「今は我々が敵対する必要はないでしょう」
突如、鼓膜を震わせる咆哮が轟いた。空中を優雅に飛んでいたはずのドラゴンのオブジェが本物の火を吹き、眼下を見下ろしていた。人々が悲鳴を上げ、我先にと逃げ惑う。
「我らが王よ。どうぞ民をお助けください」
狐面は恭しく頭を下げた。
「そして、御身を養い、闇が再び栄光をもたらさんことを」
※
狐面は再び、静まり返ったテントへと戻っていた。
呑気に眠る騎士や観客を殺して回ってもいいが、今日はこれ以上の摩擦を起こすのはやめておこう。エリアス・サルダーノ一人を仲間に引き入れるためにずいぶんと大掛かりな仕掛けをしたが、結果はそれ以上に厄介なことになってしまった。
舞台には、仲間だったはずの愚かなクズの頭が転がっている。もう二度とその口が開かないと思うと、多少は溜飲が下がった。身の丈に合わない自尊心の報いだろう。だが、宝箱は無事だ。もちろん実際は宝箱では表現できない程神々しい闇が詰まっているのだが。まったく、この箱を持ち出した時点で殺してもよかったのに。三日という猶予を律儀に守った己の判断は著しく誤っていた。
しかし、先ほどの豹王は気力に満ちていた。彼はとっくに、死にかけているはずなのにだ。
計画の調整が必要だろう。仲間を呼ばなければならない。モーガンは消えたきりだが、奴も探し出さねば。
ああ、そうだ。それにジリアン・ノウルズのこともある。元々謎の多い存在だったが、あの攻撃が無効化された理由を知りたい。光の魔法使いだとしたら珍しくはないが、催眠が効かない理由は説明がつかない。そもそも、魔力がないはずなのに。
ふと、狐面は手元の箱の様子がおかしいことに気づいた。
あり得ないと否定した。だが、どれほど魔力を注いでも、まるで呼応する様子がない。
狐面は蓋を開けた。もし周囲に仲間がいれば、気が触れたかと思っただろう。
だが、何も起きなかった。
そう、何も起きない。
ただの空っぽの箱が、そこにあるだけだった。
二章首都学園編は前後編に分け、本話で前編終了となります。
三章首都学園編(後編)をお待ちください。
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