04_境界線
心地よいぬくもりに包まれている。
意識は、まどろみの底にあったが、肌に伝わる確かな熱が、安らぎを運んできた。こんな感覚は生まれて初めてだった。すぐそばで聞こえる穏やかな息遣いに、それがノアだと直感する。人肌をこれほど身近に感じたのはいつ以来のことか、ジルはもう思い出せなかった。
首筋にわずかな圧迫感を覚えて指先で触れると、さらりとした包帯の感触がした。それを自覚した瞬間、昨夜の惨劇が鮮明な色彩を持って蘇った。
女の、小動物をなぶり殺そうとする残忍な目。狂ったような怒声。
不思議と、今は恐怖を感じなかった。それは隣にノアがいてくれるからなのだろう。彼女が助けてくれた。あの、すべてを焼き尽くすような圧倒的な魔法で。
あの力が何なのか、ジルには分からない。ジル自身は微かな魔力しか持っていないし、周囲の子供たちも似たようなものだ。ただ、この国において強大な魔法を操れる者は、王家や高位貴族といった中枢の人間、いわゆる「特別な人々」に限られていることくらいは知っていた。
(あの女、誰かを待ち伏せていた……。それはやっぱり、ノアのこと?)
疑問は尽きない。このまま心地よさに身を任せて眠ってしまいたかったが、ジルは気力を振り絞って起き上がることにした。
そろりとまぶたを開けると、ノアの首元が目に入る。規則正しい呼吸。彼女も、昨夜は疲れ果てたのだろう。自分がノアの腕の中で寝入ってしまってから、彼女が校長や周囲にどう説明したのかが気にかかる。
ノアを起こさないよう、慎重に上半身を起こした。カーテンの隙間から差し込む朝の陽光が、部屋を淡く照らしている。ふと、隣で眠る人物を見下ろした。
その瞬間、ジルの呼吸が、そして心臓が、衝撃で止まった。
そこにいたのは、私の知らない人間だった。
男だ。
それも、ノアに酷似した容貌を持つ男だった。ノアよりも顎のラインは骨張って逞しく、頬の輪郭も鋭角だが、長い睫毛は同じ。そして、濡れたような漆黒の髪色も。
『変化の魔法を使うにしても、あんたみたいなチンチクリンになるわけもないだろうし』
不意に、昨夜の女の声が耳の奥でこだました。
変化――。
目の前の「彼」は、一体誰なのだろうか。
※
「ジル! 昨日はどうしたの、心配したのよ!」
食堂に足を踏み入れるなり、エルマが飛んできた。
昨夜のことが周囲にどう伝わっているのか分からないので、ジルは「ごめん……」と曖昧に濁しながら、少し離れた席でパンを口に運んでいるノアに視線をやった。
ノアはジルの姿を認めると、すぐに立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。その表情はいつも通りの泰然としたもので、不調を微塵も感じさせない。ジルは心の底から安堵した。
「……調子は?」
「バッチリだよ。ちょっと寝過ぎちゃったくらい」
頭を掻きながら、ジルは困ったように笑ってみせた。ノアがジルの顔をじっと覗き込んでくる。内側の動揺を見透かされないよう、ジルは必死でいつもの自分を演じた。
「それより昨日は何があったのよ、もう!」
「だから言っただろう、森で昼寝をしてただけだって」
痺れを切らして問い詰めるエルマに、ノアが溜息混じりに答えた。
(なるほど、私は森で寝こけた『うっかりさん』になっているわけね……)
「それなら、この首の怪我はどうしたのよ」
「見つけて起こしたとき、本人が慌てて転んで草で切ったんだよ」
(なるほど、ついでに『慌てんぼうさん』というわけね……)
もちろん、ジルはどちらにも当てはまらない。彼女をよく知るエルマは、ノアの言葉に納得していない様子で眉をひそめている。だが、今回ばかりはノアに口裏を合わせるしかない。
「本当なの。つい、うっかり寝ちゃって……それで、ノアに起こされた時に焦って……」
「ええ……? 本当に?」
エルマはなおも疑わしげに視線を絡めてきたが、ジルが全力で頷くと、ようやく追及を諦めた。
昨夜、ノアはジルを抱きかかえて寮まで運んでくれたはずだが、幸いにもその姿は誰にも見られていないようだった。朝寝坊の理由を突っ込まれなかったのも幸いだった。
今朝、隣で眠る「男」の姿を見て混乱したジルは、咄嗟にもう一度寝たふりをしたのだ。正確には眠れなかったが、ノアが目覚めたとき、いつもよりずっと低い声で悪態をつき、舌打ちしたのもすべて聞いていた。
「そういえば、朝イチで校長先生が来て、収穫祭までは寮と校舎以外は外出禁止だって。ノアが昨日、狼の足跡を見つけたって言ったから。ジルも見た?」
「ジルは見ていないよ。私が君を探している最中に見つけただけだから」
「そっか。狼なんて聞いたことなかったけど、怖いね……」
腕をさすりながら、エルマはジルを朝食の席に座らせた。エルマが確保してくれていた食事に礼を言うと、彼女は「図書室で勉強してくる」と言って去っていった。卒業後、地元の図書館の司書を目指している彼女は、試験に向けて励んでいるのだ。
食堂には、まだ食事中のノアとジルの二人だけが残された。
沈黙が流れる。ジルは何を話せばいいか分からず、とりあえずスープを口にした。簡素なコンソメスープとパン。ティーポットに残った紅茶をカップに入れてミルクを足す。日々変わり映えのしない食事だが、空腹の身体には染み渡るようだった。
ノアは相変わらず優雅な所作でパンをちぎっている。今朝目撃した「男の姿」が脳裏をよぎり、ジルの喉の奥が熱くなった。
「……あの、ノア」
「ん?」
顔を上げず、短く返される。そのぶっきらぼうさが、今はかえって心地よかった。
「昨日は、助けてくれてありがとう。……怖かったから、本当にありがとう」
朝の光の中で、ノアは少しだけ面食らったように瞬きをした。そして、ふい、と視線を窓の外へ逸らした。
「……礼を言われるようなことじゃない」
本当は、部屋まで運んでくれたことも、ずっと側にいてくれたことも、全部まとめてお礼を伝えたかった。けれど、これ以上言葉にすると、せっかく抑え込んでいる感情が溢れ出してしまいそうで、ジルは慌ててスープを飲み干した。
「談話室へ行こう。二人で話がある」
食後のタイミングで、ノアが声をかけた。その眼差しが、昨夜のことを話し合うのだと告げていた。
「……今すぐ?」
「今すぐに」
揺るぎない視線に気圧され、ジルは黙って歩き出した。寮の端にある談話室は、普段は利用する者も少なく、静寂に満ちている。二人は椅子に向き合って座った。
改めて正面から向き合い、ジルはノアの顔を凝視した。
女性として羨望を覚えるほどの美貌。小柄で幼く見られがちな自分とは正反対の、しなやかさと艶やかさ。
(ノアは、男性なの……?)
おそらく、そうなのだろう。
振り返れば、彼女の立ち居振る舞いに「か弱さ」は微塵もなかった。気高い印象は人を惹きつけたし、所作は優雅だったが、それはどこか女性のそれとは質が違っていた。
魔法の知識に乏しいジルは、男性が女性の姿へ変化する魔法など想像もしなかった。けれど、彼女が――彼が、魔法使いである以上、あり得ない話ではない。
貿易商の娘というのも、きっと嘘だ。これほどの魔法を行使できる人間が、ジェントリや労働者階級であるはずがない。
「昨日のことを詳しく話してほしい」
「……」
答えに窮するジルに、ノアは小さく溜息をついた。
「聞きたいことが山ほどあるのは分かっている。正直、答えられることはほとんどない。……だが、昨晩のことを正確に把握しておかなければならないんだ。この学校の安全にも関わることだから」
何も答えられない。その冷徹な宣言に、胸の奥がきりりと痛んだ。
「……ウーゴに会いに行ったの。ノアが来てから、一度も行っていなかったから。でも森に入ったら、あの子たちの気配が全くしなくて。探しているうちに同じ場所をぐるぐる回っていて……そうしたら、あの女が現れたの」
土気色の顔、毒々しい唇。思い出すだけで身体が小刻みに震える。
「女は、何か言っていたか」
「誰かを探していたみたい。でも『私じゃない』って言ってたわ。『こんなチンチクリンなわけがない』って」
「チンチクリン……」
ノアの口元が、わずかに歪んだ。ジルは「笑わないでよ」とばかりに彼女を睨んだ。
「それで、私の肩を……」
言葉に詰まり、ジルは自分の肩を抱いた。あの女が肩を掴んだとき、信じられないほどの激痛に襲われたように、女はうめいていた。あの隙があったからこそ、自分は逃げ出せたのだ。だが、一体なぜあれほどまでの激痛を覚えたというのだろう。
「肩を? 怪我をしていたのか?」
身を乗り出すノアを制し、ジルは首を振った。
「ううん、怪我はしていないの。大丈夫。……とにかく、隙を見て逃げ出して、ウーゴたちが道標になってくれたの。それで、もう一歩で捕まるところをノアが助けてくれたのよ」
「……女は他に何か言わなかったか」
「私を『小鼠』って呼んでた」
「小鼠……」
今度は、さっきよりもはっきりとノアの唇が引きつった。
「笑ったら怒るよ! 私は本当に怖かったんだから」
言ってから、ノアに抱きついて子供のように泣きじゃくったことを思い出し、ジルの顔に一気に血が昇った。
「……他に仲間がいる様子はあったか。連絡を取っている様子は」
「ううん、一人だったと思う」
「そうか……」
ノアは納得したように頷き、思慮深く目を伏せた。
「質問は終わり?」
「……一つだけ。ホロウは、いつから視える?」
「記憶のある限り、ずっと。輪郭は少しぼんやりしているけれど、私ははっきり視えるわ」
「……ホロウは、普通は視ることができないものだが」
魔法使い以外には。その言葉が聞こえた気がした。
けれど、ジルは魔法使いではない。昔の授業で魔力を測定した際、クラス全員と同じ「薄黄色」の、極めて微量な魔力しか示さなかった。魔力量が多ければ赤みを帯びるという水晶玉。ノアなら、きっと燃えるような赤に染めるのだろう。
「質問は終わり?」
「……ああ」
「私からも、聞いていい?」
駄目もとで頼んでみたが、ノアは短く首を振った。
「何も答えられない。そうだとも、違うとも言えないんだ」
「……わかったわ」
はっきりと拒絶され、境界線を引かれた。
ノアの瞳はどこか辛そうに見えたが、その理由はジルには分からない。
「じゃあ、私は収穫祭の準備があるから行くね」
立ち上がると、ノアもつられて腰を浮かせた。
「……ごめん」
その呟きに、ジルは少しだけ足を止めた。そして、寂しさを押し込めて微笑んだ。
「何も聞かないよ、ノア」
ノアを談話室に残し、ジルは一人で部屋を出た。
彼女には事情がある。自分には踏み越えられない秘密がある。それは仕方のないことだ。
結局のところ、死にかけたとはいえ、自分は部外者なのだから。
分かっているのに、胸の奥が痛かった。
一章完結のため、1話〜20話の見直し中です。
3/2加筆、修正しました。




