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呪われ豹王の専属魔法使い  作者: しゃり猫
二章_首都学園編(前編)
39/40

19_幻影と虚飾の世界へようこそ④


 その瞬間に心の臓が止まったのは、ジルもエリアスも同じだった。


 劇的な変化は一瞬のうちに訪れた。先ほどまで言葉を交わしていた白ウサギの頭部が、音もなく消え去ったのだ。次いで、支えを失った身体が原型を留めることなくドロリと床へと崩れ落ちた。


「ーーっ!」


 エリアスが反射的にウサギの被り物を放り出し、後ずさりして転倒した。その顔に張り付いた驚愕と恐怖は、当然の反応といえる。泥人形の存在を知っていたジルでさえ、足元に広がるおぞましい泥の塊に、胃の底からせり上がるような吐き気を覚えた。


 ジルは震えるエリアスの肩にそっと手をかけ、彼を落ち着かせるように力を込めた。



「まったくの役立たずだな」

「ーー!」


 突如、降り注いだ冷徹な声に、ジルは声にならない悲鳴をあげた。

 舞台を照らす眩い光を背に受け、一人の影が立っていた。顔には不気味な狐の面をつけ、消え失せた白ウサギと同じ豪奢なタキシードを纏っている。そしてその手には、先ほど消失したはずの「頭」がぶら下がっていた。


 まるでボールのように無造作に掴んでいるが、それは間違いなく人の頭部だった。顔が反対側を向いているのが、せめてもの救いだろう。だが、その頭が罵詈雑言を喚き散らした瞬間、二人は弾かれたように飛び上がった。


「俺の身体を! 何してくれるんだ、貴様!!」

「黙れ。クズが」


 狐面の男は、足元にその頭を投げ捨てると、無慈悲に靴底で踏みつけた。その声は、幾人もの老若男女の声を合成したような不自然さを帯びており、聞く者の鼓膜を逆なでした。


「ジル。あいつ……やばい」

 エリアスがジルの肩を掴み、低く呻いた。振り返り見た彼の顔は、幽霊でも見たかのように青ざめている。


「そんなに?」

「魔力量がどうとかいう次元じゃない。……吐き気がするほど、禍々しい魔力だ」


 魔力量の著しく低いジルには、魔法使いとしての格差を肌で感じることはできない。しかし、常に自信に満ちあふれているエリアスがここまで怯むとなれば、相当の恐ろしい力の持ち主なのだろう。先ほどの白ウサギとは比較にならないほどの。


 何より確かなのは、この得体の知れない怪物が、決して自分たちの味方ではないということだった。この狐は、ずっと自分たちを観察していたのだろうか。白ウサギが仕損じるのを見計らって現れたのだとしたら、一刻の猶予もない。


「エリ。何とかここから逃げる方法はない?」

 男の視線が足元の「頭」に向いている隙を突き、ジルは耳元で囁いた。


 エリアスは素早くジルの影に隠れるように位置を変えると、胸元のポケットから手慣れた動作でチョークを取り出した。彼は迷うことなく床へ円陣を描き始める。描き出された簡素ながらも精密な構成図が、短距離転移の魔法陣であると即座に理解できたのは、ジルが積み重ねてきた努力の賜物だろう。


 最後の一線を書き残した状態で、エリアスが短く告げた。

「……これで二人とも出られる。他の観客や護衛はまだ催眠の中だ、僕たちだけなら見逃される可能性がある。でも、君と僕は狙われているし、ここから離れるべきだ。ジルから先に入って」


 エリアスの促しにジルは深く頷いた。だがその時、狐面がくるりと二人を射抜くように見据えた。

 男の位置から魔法陣は見えないはずだ。それなのに、狐面の細い隙間から覗く瞳には、全ての目論見を見透かされているような錯覚に陥る。


「ジル。早く魔法陣に入るんだ!」


 狐面から視線を外さず、ジルは極限の集中力でタイミングを計った。チャンスは、たったの一度――。

 ジルは電光石火の速さでエリアスの手からチョークを奪い取ると、自らの背を使って彼を魔法陣の中へと押し倒した。


「なっ――ジル!?」


 エリアスの驚愕の呻きを背中に聞きながら、ジルは右手のチョークで最後の一線を鮮やかに引き切った。

 ヴン、という空間が震える音が響き、支えを失ったジルは床に転がったが、すぐさま跳ねるように立ち上がった。


「エリアス・サルダーノを優先するとはね。判断を誤ったんじゃないのか、お嬢さん」

「おあいにくさま。たとえ彼の方が生き残る確率が高かったとしても、十歳の子供を危険に晒したまま逃げるわけにはいかないの」


 当然の報いだろうと言わんばかりに、ジルは腰に手を当てて言い放った。

 今回ばかりは、エリアスの方がジルの洞察力を見誤っていたのだ。ジルは、彼が描いた魔法陣が、実際には一人分しか転送できない規模であることを見抜いていた。そして、彼が自分を犠牲にしてジルだけを逃がそうとしていたことも。


(ふん。そうはいくもんですか)


 後でエリアスには酷く怒られるだろうが、それはお互い様だ。それに、彼の頭脳と魔法の才があれば、外部から何かしらの助けを呼べるはずだ。最悪でも、今日起きた出来事を誰かに伝えられれば、ノアの耳に入る可能性も残る。


「ふうん。興味深いね」

 狐面は、変わらず愉快そうに声を弾ませた。


「催眠もまったく効いていないようだし、どういう原理かな。先日の暴走した封印の影響か……」

「それだけじゃないぞ!」

 足元で踏みつけられていた頭が、裂けんばかりに叫んだ。


「お前は黙っていろ。まったく、蟻だってお前よりは働くぞ」

「エリアス・サルダーノにかけていた術も完全に解けていたんだ! その女が、何か細工をしたに違いない!」

 その言葉に、狐面がわずかに反応した。興味を惹かれたように頭を見下ろし、「本当か?」と問い直す。


「本当だ! 完全に解けていたんだ。あの術が、ただの人間ごときに解けるはずがないんだ!」

「……それは正確ではないな。術は解くことができる。だが、それには相当な時間と実力者の『光の魔法使い』が必要だ。しかし、エリアスにそんな動きは見えなかったな。本当に、お前が解いたのか?」


 問いかけに対し、ジルは静かに首を振った。ここで「浄化の魔女」と結びつけられるのは、あまりに分が悪い。伝説の魔女オルガナ以降、浄化の担い手は歴史から姿を消している。容易に正体が露見することはないはずだが、万が一ということもある。


「……誰が解いたか知っているのか?」


 沈黙を肯定と取ったのか、狐面がさらに一歩詰め寄ってきた。ジルは変わらず首を振る。白ウサギと違い、この狐面は首元の肌が露出している。もし隙を見て触れることができれば、そこから逃げ出すチャンスが生まれるかもしれない。だが、狐面はそれ以上の深入りを拒むかのように、絶妙な距離で足を止めた。


 しかし、次の一言がジルの心臓を凍りつかせた。

「――連れて行くか」


 名案でも閃いたかのような響きだったが、その声音は恐ろしいほど平坦で、感情が欠落していた。

 狐面が指をさっと振ると、おどろおどろしい呪文を紡ぐ。ジルの周囲を禍々しい紫色の魔力が取り囲み、輪となって一気に収縮した。拘束の魔法だ――


 シン、と奇妙な静寂がその場を支配した。




「……どういうことだ」


 狐面の声に、初めて困惑が混じった。それは苛立ちですらなく、ただ純粋に「理解不能な事態」に直面した者の声だった。狐の放った魔法は、ジルを捉えた瞬間に霧散したのだ。男はもう一度同じ術を放ったが、結果は繰り返された。魔法が、ジルに触れることさえ許されず消滅したのだ。



「お前……」

「なんなんだ、お前は!」

 転がる頭が理解を超えた恐怖に叫ぶ。狐面は、はっきりと驚愕に身を硬くしていた。



 そしてジルは、その静寂を切り裂くように、力強く床を蹴った。



 冷静さを欠いた自身の頭からは、すっかり抜け落ちていたのだ。

 攻撃が通じないからこそ、成立する手段があることに。



 ジルは脱兎のごとく走り出した。文字通り、持てる力のすべてを振り絞り、その場から逃げ出したのである。


更新情報はXにて

@sharineko01

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