18_幻影と虚飾の世界へようこそ③
二章18話
「なぜ効いていない」
その声に潜む剥き出しの怒気に、ジルはゾッと背筋を凍らせた。膝の上に置いた箱に触れる指先が、制御できずに細かく震える。
白ウサギの仮面を被った男は、意識を失っているエリアスへ一度視線を向けたあと、不可解そうにジルの眼前にまでその顔を突き出してきた。赤い薄膜越しの瞳にどんな悪意が潜んでいるのか。ジルは見たくはなかったが、蛇に睨まれた蛙のように視線を逸らすことができなかった。
どうやら、この場に漂う香は催眠の効果をもたらしているらしい。だが、ジルには全く効いていなかった。つまりこの男は、「it」に関連する――あの泥人形の一味ということなのだろうか。
「お前、なんなんだ」
吐き捨てるように問うたが、白ウサギはジルの答えなど期待していないようだった。少し距離を置き、獲物を観察するように首を傾げている。
今からでも催眠にかかった振りをすべきかと考えがよぎったが、手元の箱を開けても、何が飛び出してくるか分かったものではないので危険だ。
白ウサギは、ジルに催眠が効かない事実が腑に落ちない様子で、ぶつぶつと独り言を続けている。幸いなことに、その原因が彼女の持つ浄化の魔法であることまでは結びついていないようだった。
ジルはこの絶望的な状況をどう打開すべきか、必死に思考を巡らせた。現時点では、この怪しげな術者の目的が自分なのか、それともエリアスなのか判別がつかなかった。だが、その答えはすぐに白ウサギの口からもたらされた。
「サルダーノをこっちに引き込むだけの話が……」
白ウサギは、苛立ちを隠さずジルを睨みつける。
目的は、エリアスだ。引き込むというのが「泥人形の仲間」にするという意味であれば、それは、到底許容できることではなかった。
「お前はあとだ」
動くな、と警告するようにジルの頬に指を食い込ませ、白ウサギは先にエリアスの処置を済ませることに決めた。
男はエリアスの身体を持ち上げると、舞台の中央へと横たえ、何やら呪文のような言葉を唱え始めた。すると、舞台の縁が禍々しい淡い赤色の光に包まれていく。
「やはり解けているな……」
ボソリと漏れたその呟きを、ジルは聞き逃さなかった。男のじっとりとした視線が再びジルに向けられるが、彼女は身じろぎ一つせず耐えた。その視線に確信した。この白ウサギは、あの日図書館でエリアスに何かを仕掛けていた男だ。そして、男が仕掛けていた「何か」は既に解けている。おそらく、ジルの浄化の魔法によって。
男は再び集中し、エリアスへの術に取り掛かった。
ジルはじっと隙をうかがった。もしこの白ウサギがモーガンと同じ泥人形であれば、直接触れることで動きを止められるはずだ。だが、男は隙のないタキシードを纏い、手袋まで嵌めている。白ウサギの被り物は肩口まで覆っており、首筋さえ覗かせない。
ならば、エリアスを優先すべきだろうか。白ウサギが施そうとしている術に介入し、彼が泥人形側に堕とされるのを阻止しなければならない。
膝に乗せた箱にも細心の注意が必要だ。何かが入っているのは間違いない。それも、ひどく危険なものが。思考を走らせている間にも、エリアスを包む光は赤から不気味な群青色へと変色し、ゆらゆらと揺らめいていた。
細く、長い息を静かに吐き出す。
隙を見てエリアスに触れるしかない。だが、その後の保証はどこにもなかった。前回のエリアスはすぐには意識を取り戻さなかったし、後ろに控える護衛たちも同様だろう。逃げ出す間もなく、こちらが危害を加えられる可能性が高い。
(いっそ、白ウサギにつかみかかろうかしら)
手袋さえ一つ外せれば、勝機はある。手元の箱を凝視した。中身は不明だが、もし殺すつもりなら、こんな回りくどい小道具を使う必要はないはずだ。ならば、最悪でも大怪我で済むかもしれない。ジルはその僅かな可能性に、自らの身を賭けることに決めた。護衛の援護は今の状況では期待できない。
エリアスの周囲の光が、いよいよ禍々しい濃紫色へと変わっていく。一瞬、白ウサギが天を仰ぎ、次いで床を愛撫するように手で撫でた。ジルは、相手の意識が自分から外れたその刹那を逃さなかった。音を立てず、しかし弾かれたように素早く立ち上がると、エリアスのもとへ駆け寄る。
「……!」
白ウサギが顔を上げた。ジルは反射的に箱を投げつける素振りを見せ、慌てて立ち上がった男の懐へ、体当たりするように身体を押し付けた。片腕で必死にしがみつき、もう片方の手で箱の蓋を開けようとしたが、揺れる白ウサギに阻まれて指が離れた。
「この、離せ……!」
悪態をつきながら、白ウサギが渾身の力でそれを阻止しようとする。ジルも必死だった。服越しにでも浄化の力が伝わらないかと念じたが、直接でないと駄目なのか手応えはない。
再び指を蓋にかけたと思った瞬間、ジルは強い力で突き飛ばされた。尻餅をつき、顔を上げると同時に白ウサギの巨大な影が覆い被さった。
殴られる――そう直感して、ジルは固く身構えた。
だが、衝撃はこなかった。
シン、と。唐突な静寂がその場を支配した。
呆然としながら、ふと視線を上げると、白ウサギが妙な態勢で止まっていることに気づく。
男は小刻みに震えながら、石像のように固まっていた。ジルを殴りつけようとしたのだろう、振り上げられた拳は、白手袋の中で今にもはち切れんばかりに握りしめられている。
「まったく、何してるんだか」
静かな、しかし心底からの怒りを含んだ声が耳に届いた。
「エリ……」
「こんな無茶して!」
雷のような怒鳴り声に、ジルは反射的に飛び退いた。いつの間にか起き上がっていたエリアスは、不機嫌そうに服についた埃を叩き落とすと、床に張り付いたような白ウサギをじろりと睨みつけている。
「エリ……大丈夫なの?」
「大丈夫? ああ、こいつが焚いていた香のこと? そんなの最初から効いてないよ。こんないかにも怪しい劇で、僕が油断すると思ったら大間違いだよ」
エリアスは淡々と言い放つ。
「それともさっき、僕にかけていた怪しい術のことかな? そっちはなかなか興味深かったよ。是非とも魔法理論を知りたくなって、おとなしくかけられてたんだ」
事もなげに、むしろ知的好奇心を発揮するエリアスの表情を見て、ジルは先ほどまでの恐怖が霧散し、代わりにもっと激しい怒りがこみ上げてくるのを感じた。
「どれだけ心配したと思ってるの!」
「僕があんな見え見えの手に引っかかるわけないでしょ」
あまりに不遜なその態度に、毒気を抜かれたジルの身体から力が抜けた。ふと視線を落とすと、足元に例の箱が転がっている。手に取ってみたが、蓋は閉まったままだ。
ジルは天井を見上げ、肺の空気をすべて出し切るように大きく息をついた。捨て身の覚悟で飛び込んだのが馬鹿らしくなるほどだったが、それでも、彼が無事だったことに心の底から安堵した。
「クソっ、クソガキ!! 離せ!!」
金縛りにでもあっているのか、白ウサギが必死に叫ぶ。
「語彙力ないなー。僕、頭の悪い奴って嫌いなんだよね」
荒れ狂うような威嚇をものともせず、エリアスはさらに男を縛り付ける魔力を強めたらしい。白ウサギは喉を潰されたような、苦しげな呻き声を漏らし始めた。
「さて、護衛を起こしたいところだけど、先に無様なウサギ君の顔を拝ませてもらおうか」
エリアスはむんずと、その巨大なウサギの頭を掴んだ。
そして一気に引き上げる。
シルクハットが宙を舞い、ウサギの被り物が剥ぎ取られた。
エリアスはその男の顔を、ほんの一瞬だけ目にした。
だが、その顔はすぐに視界から消えた。
男の、首から下だけを残して。
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@sharineko01




