17_幻影と虚飾の世界へようこそ②
低い始まりの鐘の音が、重々しく響き渡った。
『七獣国物語』
歴史が記され始めた初期から伝わるとされる歴史小説だ。ジルも子供の頃に読んだ記憶がある。
創造神が地上に降り立った際、人間の愚かさを嘆き、七匹の獣を王として人間を導くよう命じたという。だが、獣たちは神の意図に反し、戦いの道を選んだ。個々としては高潔な獣たちも、その本能には抗えず、激しい縄張り争いを繰り広げたのだ。そして、長い戦争の果て、彼らは世界を七つに分けて統治することを決めた――。
歴史を基礎に描かれていると言われるが、それがどこまで真実に迫っているかは定かではない。だが、現在も世界を七人の獣王が統治しているのは紛れもない事実だ。熊王が統治する北国ノルドがいまだに他国との交流を拒むことも、蛇のナジャと猪のマスタフが長く国境紛争を続けている現状を鑑みれば、この物語は案外、核心を突いているのかもしれない。
もっとも、三百年ほど前に誕生した「魔法」という概念は、この古い物語には登場しない。
ジルは目の前で獣たちがうごめく劇を眺めながら、思考を別の場所へと滑らせた。
なぜ魔法は誕生したのか。「it」とは一体何か。やはり、ヘルナが口にしていたジョルノ・ジェラトーについて調べる必要があるのだろう。
ふと気づくと、テントの中には焚かれた香が充満し、視界が白く霞んでいた。
隣に座るエリアスへ視線をやると、意外にも彼は劇に集中しているようで、舞台をじっと見つめている。だが、その表情は立ち込める白煙に阻まれ、よく読み取ることができない。
振り返って背後の様子を窺えば、マークともう一人の護衛も、真っ直ぐに舞台を注視していた。ジルはそこに、言いようのない不審さを抱いた。優秀な騎士が、なぜ護衛対象であるジルから視線を逸らしているのか。しかも、お世辞にも面白いとは言えない、素人のジルから見ても凡庸な舞台を。
熱心なのは、情熱的に語り部を演じている白ウサギだけだ。彼はどこか、自分自身の演技に酔いしれているようにも見えた。
「マスタフの猪王は、ナジャを認めない。『奴らは獣ではない、仲間ではないのだ』と」
朗々と響く白ウサギの声に、ジルは意識を舞台へと引き戻した。
「だが、ナジャの蛇王は誰よりも創造神の信頼を得ていた」
白ウサギは天を仰ぎ、そこに神が存在するかのように崇めてみせた。
「ナジャは創造神から黄金の箱を預かった。その箱には、人間が求めるあらゆる物が詰め込まれていたのだ。富も、悦楽も、世界を支配する力さえも!」
不意に音楽が止み、静寂がテント内を支配した。
「その黄金の箱は、愚かな人間の欲の対象となった」
語り終えると同時に、白ウサギはすっと舞台から降り立ち、ジルの前に腕を差し出した。その両手には、直前まで持っていなかったはずの黄金の箱が捧げられている。
戸惑いながらも、さらにぐいと差し出された箱を、ジルは反射的に受け取った。すると白ウサギはくるりと身を翻して距離を取り、今度はエリアスの肩にそっと手を置いた。
開けろ、ということなのだろう。こうした劇場に足を運ぶのは初めてだが、ここで流れを壊すのが無作法なのはジルにもわかる。だが、蓋にかけた指が、どうしてもその先へと動かない。助けを求めるようにエリアスを見たが、彼は微動だにせず前方を見つめたままだ。まるで、眼前にいる白ウサギさえ視界に入っていないかのように。
「なぜ効いていない」
白ウサギの、それまでの芝居がかったトーンとは違う、冷徹な怒りがジルを襲った。
※
今頃、ロズリーは額に怒りの青筋を浮かべているだろう。
ノアは腹心の顔を思い浮かべながら、子羊の串焼きに噛みついた。
……うまい。
野生味あふれる肉汁に舌鼓を打ちつつ、周囲の様子を伺う。
人手は想像以上に多かった。先代が逝去して以来、王宮として積極的にこうした遊興を催すことは控えてきたが、やはり民には娯楽が必要なのだと痛感する。例の組織の関与が疑われるとはいえ、反政府勢力が力を増す背景に民の不満がないとは言えない。
視察と称して王宮を抜け出すのは日常茶飯事だが、ロズリーは豹王自らが直接動くことには反対の立場だった。もちろん、ノアにはナジャの後継ぎ――いや、今では正式な蛇王となった男のような放浪癖はないし、なるつもりもない。だが、「it」に寄生され、ヘルナを探しに行ったからこそジルに出会えたのは事実だ。他の誰かを遣わしていたら、彼女が浄化の魔女だとも知らず、今共に王宮で暮らすこともなかっただろう。
本音を言えばジルと一緒に回りたかったが、学友との交流を邪魔するのは本意ではない。それに、今回の訪問には別の目的があった。
ノアは人波を縫うようにして進んだ。途中、学院の生徒と思われる男女とすれ違った。貴族も祭り好きとはいえ、やけに学院の生徒が多いと感じる。何か学院内で宣伝でもあったのだろうか。
疑問を抱きながら歩を進めるうちに、目的の場所に辿り着いた。
装飾のない大型のキャラバン。ここが運営主の事務所だ。喧騒から外れた場所にあり、傍らでは馬がのんびりと草を食んでいる。
年季の入った木製の扉を開けると、樽のような体格の大柄な男が顔を上げた。この巨体でよくこのドアを通れたものだと感心しながら、帽子を取って挨拶した。ノアが国内の各省庁の高官から下級士官までの制服を揃えていることは、王宮でも執事を含めた数名しか知らない秘密だ。今日のノアは、内務高官の制服を着込んでいた。
「これはこれは。何か手続きに不備でもありましたかな?」
ごま塩頭の男は手を差し出し、ワンダビ・ファンフェアーの団長だと名乗った。
「いえいえ、とんでもない。手続きに問題はありませんよ。このような国民が喜ぶ催しは我々も大歓迎ですから。ただ、後学のために少しお話を伺いたくて。なんでも、世界中を巡業されているとか?」
団長に席を勧められ、ノアも腰を下ろして頷いた。
「その通りです。元々はセーブル発祥の小さなサーカス団でしたが、各国を回るうちに流浪の魔法使いが参画してくれましてね。それで今の遊園地という形になったんです」
団長は壁の写真を指差した。そこには、若かりし頃の団長と五人ほどの仲間たちが写っている。この規模からここまで大きくしたのなら、経営者としては大成功と言えるだろう。
「これだけの規模なら、移動も一苦労でしょう」
「それが、そうでもないんですよ。大型の魔法遊具はうちの持ち物ですが、屋台の多くはこの国の方々が出しています。うちの店も点在させて、溶け込ませれば、異国情緒あふれる祭りになるってわけです。それに、遊具の移動も魔法使いのおかげで、このキャラバン一つに収まってしまうんですよ」
「素晴らしい。その魔法使いと出会えたことは、あなたにとって幸運でしたね」
団長は顔を赤らめて「ええ」と認めた。どうやら、その魔法使いは彼にとって大切な存在らしい。
「ところで、今回は急な開催だったようですが、いつもこのように行き先を決められるのですか?」
「いえいえ、今回は特別ですよ。元々この場所に別の団体が予定を入れていたそうですが、急なキャンセルになったとかで、色々なところにオファーが出ていた中、たまたま移動が容易なうちが手を挙げたんです。提示された金額もかなり良かったですし、広告も向こうがしっかりやってくれるという話だったので。実際、この通りで大盛況です」
「……その話は、いつ頃のことです?」
「急でしたよ。何せ、二日前のことです。こんなことは滅多にありません。しかし、なぜそんなことを聞かれるのですか?」
「というのは?」
「我々に声をかけてきたのは、内務省の方なのですから」
団長との会話を終え、ノアは再び喧騒の中へと戻った。
二日前に急遽舞い込んだ依頼。周到に用意された広告。あちこちに見かける学院の生徒たち。そして、それらを内務省が主導したという団長の証言。ノアとて国内の全事象を把握しているわけではない。だが、この規模の祭りに役所が関わっているのなら、少なくともエリアスから話を聞いて調査させた時点で、何らかの報告が上がっていなければおかしい。
内務省を騙った何者か。あるいは、本当に内務省の人間が関わっているのか。
ノアは団長から受け取った配置図を眺めた。緑と赤に色分けされたそれは、店舗の種類やワンダビ団の管轄かどうかが区分けして示されている。
大型遊具やサーカスはワンダビ団を示す緑だが、その中に一つ、ポツンと「劇場」と記された赤色のマークがあることに気がついた。劇場設営は出店よりもはるかに手間がかかる。それをこれほど短期間で準備し、参加するなど可能なのだろうか。
ノアは足早に劇場へと向かった。
何事もなければそれでいい。だが、往々にして嫌な予感というものは、的中するものなのだ。
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