13_王宮 〜あふれる想い〜
夜半を過ぎてなお長引いた貴族会議を終え、ノアは重い溜息とともに背もたれに身を預けた。傍らに立つロズリーをはじめ、出席していた者たちの顔には隠しようのない疲労が滲んでいる。
七獣国屈指の広大な国土と人口を誇るセラフィスにおいて、検討すべき議題は枚挙に暇がない。とりわけ突如として民衆による反政府活動が活発化しており、会議の場でも「国家転覆を目論む組織が暗躍しているのではないか」という危惧が一部の貴族から上がっていた。ノアは「調査を継続させている」と告げるに留めたが、その背後に例の組織が潜んでいる可能性は、十分にあるのはわかっていた。
静まり返った回廊を一人歩きながら、ノアはジルとの夜の茶会が叶わなかったことを悔やんでいた。毎夜、彼女と言葉を交わす時間は、彼にとって何物にも代えがたい安らぎとなっていたからだ。
ジルの封印が解けかけたあの事件以来、彼女はクラスメイトたちと打ち解けたようで、以前にも増して楽しそうに学院へ通っていた。
また彼女が日々語る日常の中には、頻繁にエリアス・サルダーノが登場した。これまで勉学以外に興味を示さなかった神童エリアスも、ジルのことは相当に気に入っているらしい。
実はノアは、事件のあった週末に自らサルダーノ家を訪ね、エリアスと対面していた。素性を明かした上で、自分の正体についてはジルに秘密にするよう釘を刺したのだ。同時に、全ての情報は開示していないが、学園内に反社会的なカルト組織が潜伏している可能性と、エリアス自身が狙われているのでは、という懸念も伝えた。
「ジルには、女性の姿で学院に出入りしていることは伏せておいてほしい。彼女をこの件に巻き込みたくはないし、豹王が学院内にいると知れれば敵も警戒するだろうから」
エリアスはジルに助けられたと感じていたため、巻き込みたくないというノアの話を素直に聞き入れくれた。
ノアの言葉に、エリアスは「まぁ、彼女には魔力もないしね。巻き込まれたら大変なのはわかるよ」と納得した様子を見せた。だが、その直後に続いた言葉は、ノアの予想を裏切るものだった。
「でも、僕は彼女とは友達になるから」
聞き間違いかと思ったが、少年の瞳は真剣そのものだった。
「大丈夫。僕に接触してきた連中が、二度と近づく気も起きないほどの罠を仕掛けてやるさ」
不敵に微笑む天才の姿に、ノアは思わず苦笑を漏らした。実際、その後の学院で目にしたエリアスは、自身と周囲に極めて複雑な防御魔法を幾重にも展開しており、それはノアでさえ容易には手出しできないほどに完成されていた。そして宣言通り、エリアスは今やジルの親友と呼べる存在になった。
(まったく、有言実行な奴だ)
考えに耽りながらノアは執務室の扉を開けた。
その瞬間、ノアの足が止まった。
執務机の前に置かれたソファに、ジルが一人座っていた。いや、正確には厚みのある革の背もたれに身体を沈め、深い眠りに落ちていた。
ノアは音を立てぬようゆっくりと近づき、微かな寝息を立てる彼女をじっと見つめた。
雪のように白い肌に、長い金の睫毛が柔らかな影を落としている。ガウン越しに上下する小柄な身体が、穏やかな呼吸を刻んでいる。その光景を目にした瞬間、ノアは息を呑んだ。
胸を突くこの高鳴りが、疲労や寝不足によるものではないことなど、自分でも分かりすぎるほど分かっていた。
「あんたを待ってる間に、寝ちまったよ」
不意に響いたヘルナの声に、ノアは我に返った。見れば鞄の口が開いており、どうやらジルは眠りにつく前、ヘルナと語らいながら夜を過ごしていたらしい。
「……自室で寝ていればいいものを」
ノアの声には、去来した感情にひたるのを邪魔されたことへの、隠しきれない苦々しさが混じっていた。
「どうしたって可愛いじゃないか。あんたが疲れてるだろうからって、健気に待ってたんだよ」
今日のヘルナは珍しく素面のようだ。最近、少しずつではあるが酒量も減っている。
「……学院での事故以来、ジルの力が強まっているようだが」
ノアが話題を逸らすように問うと、ヘルナは事もなげに返した。
「封印への影響がない範囲で、魔力回路が一部繋がったんだろうね。まぁ、結果オーライさ」
「身体への影響はないのか」
「大した魔力量じゃない。封印さえ閉じたままにしておけば問題ないさね」
「その封印にしても、未だに不明な点ばかりだ」
「調べてるんだろう? なら結果を待つんだね。あんたが自力で手がかりを見つける分には、私は止めやしないよ」
相変わらず要領を得ない回答に、ノアは苛立ちを込めて鞄を勢いよく閉めた。
よりによって、こんな問題だらけの魔女がセラフィスの守護についているとは、頭が痛い。貴族会議ではヘルナを公の場に出せと主張する者もいるが、この酔いどれの毛玉をどうやって謁見させろと言うのか。
「まったく、頭が痛い」
ジルを見ると、眠りは深いようで、ヘルナとの会話中にも起きる気配はなかった。
ふとした拍子に首が傾ぎ、金色の髪の束がさらりと首筋から胸元へ流れる。ノアはその場に膝をつき、彼女と目線を合わせて覗き込んだ。わずかに開いた桃色の唇の端に指を触れ、そっと撫でる。
自身の内に去来する感情の正体を、ノアはとうに理解していた。彼は決して未熟ではなく、ましてや世間知らずでもない。思えば、ジルと出会ったあの日から、彼女は常に特別だった。ファレルをはじめ、ノアには友と呼べる者はいたが、彼らとの間には最初壁があった。
だが、ジルにはそれがない。二人が急速に距離を縮めたのは、浄化の魔法の存在があったことは否定できない。だがそれだけが理由ではない。共に過ごし、助け、助けられてきた――相手が、ジルだったからだ。
自惚れでなければ、彼女もまた自分を好いてくれているはずだ。もっとも、その想いは、ノアが抱える執着とは異なる、まだ淡く純粋なものかもしれないが。
「ジル」
囁くような呼びかけに、ジルの瞼が微かに震えた。
己の中に飼う得体の知れない「怪物」の存在ゆえに、一歩踏み込むことを躊躇い続けてきた。しかし、もう限界なのだとノアは認めた。
この部屋に入った時に見た、無防備な寝顔。それを見ただけで溢れ出した想いの深さを、もはや否定することはできなかった。
「ジル。起きるんだ」
再度呼びかけると、ジルはようやくゆっくりと目を開いた。目の前にいるノアを認めると、「会議、終わったの……?」と掠れた声で問いながら、小さく欠伸をした。まだ夢の淵にいるのだろう。「お疲れさま」と、ふわりと口角を上げるその笑顔が、ノアは好きだった。
黙ったまま自分を見つめるノアに、ジルは不思議そうに小首を傾げた。そして、彼の雰囲気がいつもと違うことに気づいたのか、不安げにその名を呼ぶ。
「ノア……?」
「ああ」
ノアもまた、微笑みを返した。今、自分が浮かべている笑みが、誰の目にも特別な意味を持つとわかるだろうという確信があった。
彼はジルの頬にそっと手を添えた。指先に伝わる柔らかな体温。彼女はノアを拒絶したことは一度もない。
夜の帳が降りた、淡い光に照らされる壮麗な王宮の一室で、若き豹王は、愛おしい浄化の魔女をその腕の中に閉じ込めて、その唇の感触を堪能したのだった。
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