12_学院 〜光栄なる友情〜
ロズリー公爵が去った後も、ジルはしばらくの間、静寂に包まれた温室に留まっていた。視界を彩る金の薔薇の芳香と、その気高くも華麗な姿は、荒んでいた彼女の心を優しく慰めてくれるようだった。
その夜、ジルはノアのもとを訪れ、前日の自分の態度を素直に謝罪した。ノアは一瞬、何かを深く考え込むような表情を見せたが、目の前のジルが落ち着きを取り戻しているのを確認すると、心底安堵したように眉の力を抜いた。ついでに学院で起こった事件についても改めて説明をしたが、彼はやはり事前に説明を受けていたのか、驚く様子はなかったが、教員からの謝罪があったというくだりでは、不満げな顔をしていた。
週末が終わる頃には、ジルの体調も気分もすっかり回復していた。
とにもかくにも、ジルは根が前向きな性格である。いつまでも内にこもるのは性に合わなかったし、これ以上周囲に落ち込んだ態度を見せて心配をかけたくもなかった。だが、いざ学院へ向かう段になると、やはり少しばかり憂鬱な気分がぶり返した。ただでさえ周囲から距離を置かれていたのに、あの大騒動である。
ジルの足は、教室の扉の前でぴたりと止まった。馬車を降りてからというもの、いつも以上に突き刺さるような視線が集まっているのを感じていたからだ。
「何? 入らないの?」
不意に背後から声をかけられ振り返ると、エリアス・サルダーノが厚い本を小脇に抱えて立っていた。以前見かけた時とは違い、今の彼はいつも癖のある髪を整え、隙のない身だしなみをしている。まさに「学ぶ徒」の姿だった。
「おはよう……」
「ほら、入って。邪魔だよ」
ぐい、と背中を押されるまま、ジルは教室へと足を踏み入れた。一斉に向けられる視線。それはきっと敵対的なものだろうと、ジルは最悪の事態を覚悟して身を固くした。
その瞬間、クラス中がドッとジルを取り囲んだ。あまりの数と勢いに圧倒され、ジルの脳裏には、魔法で決闘を挑まれる自分の姿が脳裏を駆け巡る。しかし、その予想は呆気なく裏切られた。集まった生徒たちの表情に敵意はなく、中には柔らかな笑顔を浮かべている者さえいたのだ。
「身体は大丈夫ですか?」
「次の日に来なかったから、みんなで心配してたんですよ」
次々にかけられる案じる言葉に、ジルは戸惑いながらも「私は大丈夫」と笑顔で応じた。すると、ジルよりも年下だが、クラスの中ではリーダーの男子生徒が進み出て、真摯な面持ちで感謝を口にした。
「あなたがあの時、僕たちを守るために窓から飛び出したのだと知ったんだ」
「それは……でも、当然のことよ。むしろ、私が巻き込んでしまうところだったから」
「それでも僕たちを守ろうとしてくれた。あんなに嫌な態度をしていた僕たちを。ありがとう……」
ジルは首を振った。壁が作られていたのは確かだったが、直接的な嫌がらせを受けたわけでもなかったし、それなりに声をかけてくれた子もいた。それでも皆の気持ちが嬉しく、ジルはニコリと笑って、感謝の言葉を受け入れた。
その日を境に、ジルの学院生活は劇的に好転した。クラスメイトたちは以前のように遠巻きにすることなく、時に笑い合い、助け合う大切な学友となった。一度距離が縮まれば、彼らはジルが持つ本来の優しさや面倒見の良さ、そして内に秘めた力強さを正しく理解し、信頼を寄せてくれるようになった。
教師たちもまた、あの事件をきっかけにジルを一目置くようになった。エリアスの言葉を借りれば、それほどまでに彼女の放った魔力は強烈なものだったらしい。
そして、そう。あの「本の虫」であり、学業に命を燃やすエリアス・サルダーノは、光栄なことにジリアン・ノウルズを「友人」として認定してくれた。なぜ光栄なのかと言えば、まさにエリアス自身がそう言い放ったからだ。
「まあ、僕の友達になれるなんて、とても凄いことなんだよ。光栄に思わないとね。僕にとって記念すべき『初めての友人』というわけだから」
「嬉しいわ、エリアス。……エリ、って呼んでもいい?」
尊大な口調のエリアスに対しても、ジルは終始にこやかだった。彼女は年下の扱いに慣れているし、彼のような自尊心の塊のような子供のあしらいもお手のものだ。何より、自分が暴走しかけた時に真っ先に助けようとしてくれたのがエリアスだったと聞き、それだけで彼を好きになる理由は十分だった。
たとえ彼が、ジルの封印に対して並々ならぬ興味を抱き、観察対象のように見ていたとしても構わなかった。エリアスは類稀なる頭脳を持ち、わずか十歳にして複雑な魔法を練り上げてみせる異才だ。そして意外にも、小生意気な外面の裏に優しさを隠し持った男の子だった。
驚くべきことにエリアスは、あの事件までジルの存在自体を認識していなかったという。彼女が大魔女代行であることも、力が封印されていることも露知らなかったそうだ。
「そのことを知っていれば、あの時もっと早くに止めていたよ」
その後、しばらくはそれがエリアスの口癖になっていた。
※
「じゃあ、何の封印術がかけられているか、まるでわからないの?」
驚愕に目を見開くエリアスに、ジルは静かに頷いた。
二人は図書館の近くに設けられた屋外の木製テーブルを囲み、教科書を広げていた。ノートに書き込んだ魔法記号を慎重に確認し、「できた!」とジルは声を上げてエリアスに見せる。エリアスはすっと視線を走らせたが、「不合格」と一言で切り捨てて一点を指差した。
「このREG構成論式は雷属性とは相性が悪くなるんだ。逆に風属性には強く働くから、雷が即座に打ち消されて、ただの暴風しか起こらなくなる。攻撃魔法にするなら、ここは炎属性を組み込んで――」
エリアスの淀みのない説明に耳を傾けながら、ジルはノートに新しい数式を書き写していく。もう一度確認してもらい、今度は合格をもらうと、ジルは小さく拳を握った。
二人で勉強をする習慣は、友人になってからの二週間、欠かさず続いていた。神童のエリアスはもちろん、ジルもまた勉学への意欲は高い。放課後の一時間ほどをこうして過ごすのが日課となっていた。これまでは年下の子に教えるばかりだったジルにとって、年下の少年に教えを乞うのは新鮮な体験だった。それに、彼は意外なほど教え上手なのだ。
「それで」
一息ついて、手元のクッキーを齧りながらエリアスが問い直した。
「その封印術がかけられた理由も、誰がやったのかも、いつの事かも、本当に何もわからないの?」
「うん。そうなの」
ジルもクッキーを一つ手に取る。口の中に広がるベルガモットの爽やかな香り。サルダーノ家の料理人は、相当な腕前の持ち主だ。
「ヘルナは何て言ってるの? その、役立たずの大魔女とやらは」
「エリ……」
嗜めるような視線を向けると、エリアスは軽く肩をすくめた。
「だって、聞いたところによると、いつも酔っ払って潰れているんだろう? ジルをここに来させたのは……まあ、唯一の良い選択だとは思うけどね」
「ヘルナ様は――そうね、確かにいつもお酒を召し上がっているわ。それに、この封印に関しては何も教えてくださる気はないみたい。ただ、封印を無理に解こうとするのだけは止めるように注意されたわ」
「ふうん。僕は解いてみたいけどなあ。とても興味深いもの。解きがいがありそうだし、何よりこれほど複雑で何重にもかけられた術式なんて、滅多に拝めるものじゃないよ」
「ダメよ、この前みたいな惨事を繰り返すのは嫌だもの。理由もわかっていないんだし」
「だからこそ、それを綺麗に、完璧に解くことにやりがいがあるんだよ。惜しいなあ」
本気で悔しがる彼の口調に、ジルは思わず吹き出してしまった。人付き合いは極端に苦手で、生意気で不遜な少年。けれど、魔法や未知の知識に対する情熱だけは、誰にも負けないのだろう。
「でも、君にかけられた覚えがなくて、物心ついた時から魔力が乏しい状態だったのなら、封印が施されたのは三歳以前と推測できるね。けれど目的も術式系統も不明となると、手出しが難しいのは確かだね」
興味は尽きない様子だったが、現状では打つ手なしと判断したのか、エリアスは席を立ってジルを図書館へと誘った。勉強の後は必ず図書館に寄り、エリアスのお勧めの本を紹介してもらうのが二人のルーティンだ。この日課のおかげで、ジルの魔法学の成績は飛躍的に向上した。この調子なら目標の飛び級も現実味を帯びてくる。もっとも、エリアスはさらに上のクラスへ行ってしまうのだろうけれど。
(そういえば)
重厚な図書館の扉の前で、ジルはふと思い立って尋ねた。
「あの変な男……あれ以来、現れていないよね?」
「うん。まあ、正直に言うと、僕も奴の顔は覚えていないんだ。あの時は意識がぼうっとしていたからね」
エリアスは栗色の髪を無造作に掻き上げ、ジルの空色の瞳をじっと見つめた。あの日、鋭い声で自分の名前を呼び、正気に引き戻してくれた少女の瞳を。
「でも、そんな風にぼうっとしてしまうことが無くなったのなら良かったわ」
「……うん。ただ、そもそも僕がそんな状態に陥ること自体、あり得ないことなんだ。わずかな時間でも自分の行動が把握できないというのは、実に不愉快なものだよ」
忌々しげに顔を顰めるエリアスの背を軽く叩き、二人は図書館の中へと消えていった。このまま平穏な日々が続けばいい。ジルは心からそう願っていた。
※
「隙がないんだ! 警戒されている!」
薄暗い部屋の隅、集まった影たちを睨みつけながら、一人の男が声を荒らげた。
「前はずっと一人だったのに、最近はあの小娘が嘘みたいにべったりと付いている!」
クソッ、と毒づく男に対し、別の影が冷静な声を浴びせる。
「だが、四六時中共にいるわけではなかろう」
「それだけじゃない。あのガキ、警戒してか『凝固』やら『反射』の魔法やら、何重にも防壁を張り巡らせていやがるんだ」
「さすがは神童だな。十歳とはとても思えん」
感心したような言葉とは裏腹に、その声音は聞いた者を凍りつかせるほどに冷ややかだった。
「それに――」
「もういい」
言葉を切り捨てる氷の口調に、一同の肌が粟立つ。張り詰めた空気の中でもなお不満を隠せず言い募ろうとする男に下されたのは、冷徹なまでの命令だった。
「三日やろう。エリアス・サルダーノへの『暗示』を完了させろ。取り掛かってから久しい。既に半ば以上は浸透しているはずだ」
「……ッ」
「できなければ、貴様は追放だ」
その宣告に、ある者は驚愕し、ある者は平然としていた。この組織において、それは死よりも重い言葉だった。
男は反論しようと口を開いたが、まるで声帯を切り取られたかのように、音にならなかった。
――三日。それが男に残された猶予。
あまりに短いが、やらねばならない。男は先ほど言いかけた言葉を、脳裏で反芻した。
あの日、図書館での失態以降も、男は幾度となくエリアスへの接触を試みてきた。その中で、拭いきれない疑念が芽生えていたのだ。これまで緻密に施してきたはずの「暗示」が、何らかの要因で解け始めているのではないか、と。
だが、そんなはずはないと否定してきた。なぜならこの暗示は通常の魔法体系とは一線を画す。絶対に解けるはずのない、偉大なる「闇」の力――
いずれにせよ、三日という時間を無駄にはできない。
そして、目的達成のために障害を取り除く必要があるのは明白だった。
あの女だ。
まずは、あの金の髪をした忌々しい小娘を、排除せねばならない。
更新情報はXにて(@sharineko01)




