11_王宮 〜薔薇の慰め〜
ジルには、自分の両親がどうなったのかを教えてくれる者はいなかった。
なぜ自分は孤児になったのか。幼い頃は、親は死んでしまったのか、あるいは世界のどこかで幸せに暮らしているのだろうか、と思いを馳せたこともあった。だが、結局のところ答えはなかった。
やがて成長するにつれ、親は亡くなったのだと自分の中で折り合いをつけた。捨てられたのだと考えるより、その方がずっと救いがあったからだ。
それでも、長期休暇のたびに一人学校に取り残される寂しさに涙し、周囲が家族で旅行に行った話を聞くたびに、羨望を覚えなかったといえば嘘になる。ただ、そうした割り切れない感情も、時の流れとともに少しずつ心の奥底へ整理してきた。
ノアと出会い、自分が「浄化の魔法使い」だと知ったとき、なぜ自分にこれほど稀有な力があるのかと不思議に思った。大魔女ヘルナがその事実を知っていたことにも疑問があった。その際、幼い頃に閉じ込めたはずの考えが脳裏をよぎったことは否定できない。
自分は、親に捨てられたのではないか――。
それはジルにとって、身を切られるほど辛い推測だった。それでも、彼女は自分が幸運であることを理解できないほど愚かではなかった。悲惨な孤児院生活を送ることもなく、一般家庭の子供たちと共に教育を受け、自立への道を与えられたのだから。
首都へ来ることができ、ノアの傍らにいて、王立学院に通うことさえ叶った。恵まれている。そう自分に言い聞かせながらも、頭の片隅では真実から目を背けているのだとわかっていた。そして今日、新たに突きつけられた事実は、残酷なまでの現実となってジルの心に突き刺さった。自分は、やはり捨てられたのかもしれないという現実が。
腕の中で声を上げて泣きじゃくるジルを見つめ、ノアは自分自身を殴りつけたい衝動に駆られていた。なぜ、彼女の不安を察してやれなかったのか。以前、彼女は「孤児でも自分は恵まれている」と話していた。それは事実なのだろう。だが、これまでの人生において、彼女が一度も自身の境遇を嘆かなかったはずがないのだ。
「ジル」
濡れた顔を上げさせ、その瞳を覗き込む。涙に煙る瞳は虚ろで、昼間の事件の影響もあり、彼女の疲労はとうに限界を超えているようだった。見られたくないのか、顔を背けて離れようとするジルの頬を、ノアは優しく、だが強い力で支えた。
「ジル、お前は特別だ」
それは彼女が浄化の魔女だから、という理由ではない。そうではなく、彼女はいつだって、ノアにとって特別な存在だった。しかし、その言葉が今の彼女に響いていないことはすぐに分かった。ジルはノアの顔をじっと見つめると、微かに首を振ってその手から離れた。
重苦しい沈黙が回廊に降りる。床の一点を凝視していたジルを、ノアがもう一度抱き寄せようとしたその時、「疲れた」と、ぽつりと呟きが漏れた。ジルは目元をぐいと乱暴に拭った。
「今日は……色々あって。私、少しおかしいの。ごめん、もう寝るね」
それだけ告げて、彼女はノアに背を向けた。その小さな背中は、今はただ一人になりたいと切実に懇願しているように見えた。
遠ざかっていく華奢な後ろ姿を見送りながら、ノアは内心で毒づいた。親に捨てられたのかもしれないと怯える彼女に、即座にそれを否定してやれたなら、どれほどいいだろう。
だが、ノアはこの世が時に残酷で理不尽であることを知っている。
ノア自身、母親を五歳の時に亡くした。記憶は曖昧だが、慈愛に満ちた人だった記憶がある。
対して父は、幼い息子を顧みることはなかった。いつだって自身の欲望にのみ忠実な男だった。父親としても君主としても、到底尊敬などできなかった。ただ、ノアにはロズリーがいた。彼が父親代わりとなって、自分を導いてくれたのだ。
(ジルの過去を探らなければならない)
その鍵を握っているのは、やはりヘルナだろう。あの忌々しい「賭け」の存在を含め、すべてを暴いてやりたい。
そして、もしジルの両親が存命で、本当に彼女を捨てたのだとしたら――。
それにあの封印。王立学院に入れることに賛成したヘルナも、封印を解除する意図はないようだった。
ならば、その理由を知る必要がある。なぜジルに封印が施されているのか。そして、それが解かれた時、一体何が起こるのか。
ジルのためにも。
そして、自分のためにもだ
※
翌日、ジルが目を覚ましたのは、太陽が真上をとうに過ぎた頃だった。
真っ先に意識を浮上させたのは、食欲をそそる香ばしいパンの匂いだった。半分思考が停止したまま、用意されていた湯気を立てる食事を口に運ぶ。無心で食べ終え、熱い紅茶を飲み干すと、ようやく霧が晴れたように頭がしゃんとしてきた。
顔を洗おうとバスルームへ向かったジルは、鏡に映った自分の姿を見て愕然とした。酷く腫れ上がった瞼が昨日の出来事を鮮明に呼び起こし、思わず「あー……」と呻き声が漏れる。昨夜の醜態を思い出し、顔から火が出るような思いだった。
(穴があったら入りたい……)
だが、いくら悔やんでも現実は変わらない。自分の行動を受け入れるしかないのだ。ただ、言い訳を許してもらえるなら、昨日は本当に、相当に大変な一日だったのだ。
今日は金曜日だが、ジルを無理に起こして登校させようとする者はいなかったようだ。自分でも今の平気な顔をして学院へ行くのは無理だと思っていたので、その配慮はありがたかった。何より、この惨めなほど腫れた目では無理だ。
しばらくして、侍女のサリーが新しい紅茶とクッキーを運んできてくれた。彼女はジルの顔を見ても表情一つ変えず、いつも通りに接してくれた。それが今のジルには救いだった。
紅茶を飲み終え、クッキーをハンカチに包んで部屋を出た。広大な庭園を散策すれば、少しは鬱屈とした気分も晴れるだろう。
美しく整えられた庭園をかなりの時間歩き回っていると、視界の端に、王宮へ来た翌日に訪れた温室が映った。
中を覗き込み、人の気配がないことを確認してから足を踏み入れる。色とりどりの草木や花は、以前と変わらず咲き誇っていた。
そして、あの「金の薔薇」も。
芳醇で甘い香りが鼻腔をくすぐり、ジルはほうっと深く息を吸い込んで、花弁に鼻先を寄せた。
意識して香りを吸い込むと、不思議なことに、以前とは違うニュアンスを感じた。薔薇特有の香りの奥に、ベルガモットの爽やかさと、どこかスモーキーな落ち着いた香りが混じっている。それが不思議とジルの心を慰めてくれた。
ジルは金の薔薇の前に座り込み、美しい花の輪郭をただじっと見つめ続けた。そうしているうちに、嵐のように波立っていた心が、静かに凪いでいくのを感じた。
(今日はここでゆっくりして、夜にはノアに謝らないと)
昨夜、必死に慰めてくれたノアを思い出し、胸が温かくなると同時に、ちくりとした痛みを感じる。
「特別だ」と言ってくれた彼の言葉は嬉しかったが、それが自分でも制御しきれない謎の力に起因していることは理解していた。
(でも、私はノアの力になると決めたのだから)
ノアはジルが必要だと言い、ジルはそれを受け入れた。それは、ジルの封印にまつわる謎や過去とは別の、自身で選んだ道なのだ。
酷い疲労があったとはいえ、昨夜吐き出した言葉は間違いなく本音だった。だからこそ、時間をかけてでも自分の中で消化していかなければならない。
これまでずっと、そうして生きてきたように。
その時、温室の扉が重厚な音を立てて動き、ジルは勢いよく振り返った。
「ロズリー公爵様」
まさか再びこの場所で会うとは思わず、ジルは慌てて立ち上がり、膝を折った。同時に、もしかしてここは公爵に与えられた私的な庭なのではないかと思い至った。
「まさか、また君に会えるとはな」
「申し訳ございません。もしや、ここは公爵様の私庭でしたでしょうか」
「まさか」
公爵は薄く笑った。普段あまり笑う習慣がないのだろう。口元や目元に深い笑い皺がないことから、ジルはそう推察した。
「公爵とはいえ、王宮に自分の庭など作れんよ。だが、そうだな……ここは若い頃、先代の豹王に賭けの商品として借り受けたのだ。私が死んだら返すことになっている」
それは、事実上公爵の所有物と言って差し支えないのではないだろうか。
「勝手に入り込み、申し訳ございませんでした。この金の薔薇を、どうしてもまた見たくて」
一礼して立ち去ろうとするジルに、公爵が「待ちなさい」と穏やかに声をかけた。
「気に入ったのなら、気遣わずにここへ来るといい。この薔薇も、君がいるせいか、いつもより輝いて見える」
そう言われ、ジルは公爵の視線の先にある金の薔薇に目を向けた。
「美しい薔薇だろう。昔、ある人に贈られてね。ずっと枯れることなく咲き続けているのだ」
公爵にとって、どれほど大切な人だったのか。その優しく愛情に満ちた瞳が、すべてを物語っていた。
「そうだ。以前から聞きたかったのだが、この温室はどうやって見つけたのかな?」
「どう見つけた……、と言いますと? 最初は二階の回廊から見かけました。今日は散策の途中に寄らせていただいたのですが」
「いや……。ここには特殊な魔法がかけられていてね、私以外にこれが見えるのは、あと一人しかいないはずなんだ。もちろん、あえて探そうとすれば可能だが……君は偶然、見かけたんだね?」
ジルの心臓が跳ねた。おそらく、自分の浄化の魔法が関係しているのだろう。だが、ノアは親代わりとして信頼しているはずのロズリー公爵にさえ、ジルが浄化の魔女であることを伏せていた。
余計なことは言わない方がいい。ジルはそう判断し、「そうですか……」と短く、控えめな相槌を打つに留めた。
ロズリー公爵はそんなジルをしばらく観察するように見つめていたが、やがて彼女の肩を軽く叩いた。
「では」
短く挨拶を残し、彼は温室を出て行った。
その後ろ姿にノアが彼を慕う理由が、少しだけ分かった気がした。ロズリー公爵は一見すれば怯んでしまうほどの威厳を纏っているが、その内実は、厳しくも温かな心を持っているのだろう。
彼は無断で温室に入り込んだ自分を咎めることもなく、そして、泣きはらした酷い顔をした自分を笑うことも、眉を顰めることもしなかったのだから。




