10_王宮 〜残酷な符号〜
深い水底に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上していくの自分を感じた。
肉体はいうことを聞かず、身体の信号と脳の回路がうまく繋がっていないかのように、指先ひとつ動かせなかった。何か、正体のわからない実体のない何かがジルを苦しめている。それが一つ一つ、軋んだ音を立てながら正しい場所に収まっていく感覚に、彼女は耐えるしかなかった。
「ゆっくりでいい。戻ってくるんだ」
響く声が目の奥を刺すように攻撃してくる。同時に、全身を走る強烈な苦痛に、ジルは再び意識を手放したい欲求に駆られた。それを察したのか、肩を掴まれ、乱暴にならない程度に揺さぶられる。
「やめ……て」
(なんてことをするの……)
もし身体が自由に動いたなら、反射的に相手を叩いていたかもしれない。
「辛いだろうけど、僕の声に意識を集中させて。さぁ、ほら」
込み上げる吐き気に耐えながら、ジルは必死にその指示に従った。「大丈夫だから」と何度も繰り返される声を命綱にして、千切れそうな意識を繋ぎ止める。ひどく苦しげに喘ぐ音が聞こえるが、それが自分の喉から出ているものだとはすぐに気づくことができなかった。重い瞼をそっと持ち上げると、室内のわずかな薄明かりでさえ網膜に沁みた。
「よかった」
目の前で安堵の吐息を漏らす栗色の髪の少年。エリアス・サルダーノがなぜここにいるのか。それを疑問に思う余裕すらジルにはなかった。心臓が鉛になったかのように重く、ただ横たわっていることさえ辛い。
視界の中のエリアスは、どこか不機嫌そうだった。幼くも端正な顔は歪み、制服の胸元はぐしゃぐしゃに乱れ、どこか薄汚れている。
「全然、よくないわ……。何があったの? 身体が、動かないのだけど」
「魔力回路を探ったことで、封印が暴走したんだよ」
「封印……?」
いったい、何のことだろう。しかも暴走とは。今は脳内が混濁し、事態を正しく判断することができなかった。
「そう。君の封印はとても興味深いんだ。何重にも施されていて――」
そこでエリアスは言葉を切った。ジルの瞼が再び閉じそうになっていたからだ。
「……それどころじゃないね。もう寝て大丈夫だよ。一度意識を取り戻したなら安心だ」
許しを得たジルは、再び意識を暗い底へと沈ませ始めた。そうすれば、この肉体の苦痛を感じずに済む。
(ああ……気持ちいい)
微かなまどろみの中、どこか遠くで音が聞こえた。これは――爆発音だろうか。
「まったく、あの逃げ足の速い女のせいで、説明が面倒になったよ」
少年の不満げな呟きを最後に、ジルの意識は途切れた。
※
眠り続けたジルが目を覚ました頃には、すっかり日が暮れていた。体調は幾分回復したものの、全身を重い疲労感が支配している。医療魔法士の診察を受け、肉体的にも精神的にも後遺症はないとお墨付きをもらった後、魔法構成学の教師だけでなく、なんと校長までもが医務室に足を運んできた。
校長に促された教師は、封印の状態を把握することなく魔力回路を辿らせたのは不適切だったと、謝罪した。ジルはそれを受け入れ、自身の状態を判断できなかった未熟な自分が悪いのだと伝えた。実際、ジルは封印のことなどまるで知らないのだ。エリアスが朦朧とする意識の中で何か言っていた気はするが、こうして大人二人から聞かされても、どこか他人事のようにしか思えなかった。
(だって、封印なんて何のために? 何を封印しているというの?)
疑問は尽きないが、今は話を合わせるしかなかった。聞けば、窓ガラスや霊水を収めた盆などは破損したが、幸いにも他の生徒に怪我人は出なかったという。エリアスも「相当なお叱り」を受けた上で授業に戻ったそうだ。
結果としてクラスメイトは無事だった。だが、自分が引き起こしたかもしれない危険の大きさに、ジルは意気消沈しながら家路についた。このことをノアに相談しなければならない。だが、どう説明すればいいのか。
(ノア、私、どうやら封印術がかけられているみたいで、今日危うくクラスメイトたちを攻撃するところだったのよ……なんてね)
そもそも、本当に封印などかかっているのだろうか。そこまで考えて、ジルは自室で押し黙った。体調不良も相まって、胸の奥からじわじわとイライラした感情が込み上げてくる。その理由を探れば探るほど、彼女は不機嫌のるつぼへと沈んでいった。
着替えを済ませ、風呂を浴びて汚れを落としたジルは、今すぐベッドに飛び込みたい誘惑を抑えて、ノアのいる執務室へと向かった。ノックをしても返事がない。不在かと思い、扉を開けてチラリと様子を伺うと、ノアがヘルナの館が入った鞄に向かって何やら話しかけていた。いや、話すというには、その口調はあまりに険悪だった。
パタン、と扉の閉まる音にノアが振り返る。その顔は見るからに不機嫌だった。彼は手振りでこちらに来るように指示する。実のところジルも機嫌が悪かったが、黙って従い側に寄ると、ノアがジルの手を握ってきた。
「顔色が悪い」
彼の低い声に、体調を見透かされたのだと感じる。だが、それはノアも同じだ。魔法を使ったのだろうか、いつもよりずっと体調が悪そうだ。
ジルはノアの手をきつく握りしめた。その時、繋いだ手のひらが急激に熱を帯びた。
それは、いつもノアの手を握る時に感じる淡い温もりとは違う。何かが流れ込んでくるような、異質な感覚。驚いたノアが目を見開いて振り向く。ジルは弾かれたように手を離した。
「今……何をしたんだ」
ノアの問いに、ジルは何も答えられず首を振った。しばらくの間、二人は沈黙の中で見つめ合った。
「驚いた」
静寂を破ったのは、鞄の中から響いたヘルナの声だった。言葉通り、それは珍しく驚愕を含んだトーンだった。
「何に驚いたんだ。ジルに目的も不明な封印がかけられていることか?」
「……」
「どうやら、それはとっくに知っていたらしいな」
苦々しげに吐き捨てるノアに、ヘルナは「知ってたよ」と応じた。
その瞬間、ノアは力任せに机を拳で叩いた。
「ヘルナ! 知っていたならなぜ言わなかった!」
激しい怒声に、ヘルナは沈黙を守った。どうやらノアは、学校での出来事を既に聞き及んでいるようだった。
「魔法の知識をつけに行けとは言ったが、封印を解除してこいとは言わなかったはずだがね」
飄々と応える大魔女の態度に、ノアが今にも鞄を切り裂くのではないかと不安になり、ジルは場をなだめようと口を開いた。
「ヘルナ様……私、今日死んだかもしれないんですよ。それに、他の生徒たちまで巻き込んでいたかも……」
ジルの声は低く、沈んでいた。いつもの彼女らしい柔らかさはなく、明らかに心が沈んでいる。その変化に気づいたノアが、再びぎゅっと彼女の手を握った。
「……言えないね」
「ヘルナ様……」
「悪いが、私は何も言えないんだよ、お嬢ちゃん。これは私の意思ひとつで済む話じゃないんだ」
「例の賭けとやらの一環か? ……ジル?」
ヘルナの答えを待たず、ジルはノアの手を振り解いて部屋を飛び出した。
早足で回廊を歩いていく。視界が滲み、すれ違う使用人たちと目を合わせることすらできない。
「ジル!」
背後から呼ばれても振り返らなかった。だが、追いついたノアがその腕を捕まえる。彼はジルの華奢な両肩を掴んで顔を覗き込もうとしたが、彼女は頑なに視線を逸らした。硬く結ばれた唇が、微かに震えている。
「他の生徒たちを傷つけそうになったから怒っているのか」
「……」
「それだけじゃないんだな」
ジルは答えない。ノアの腕に阻まれて逃げ場はないが、彼女の全身が「ここから逃げ出したい」と叫んでいた。
「聞かせてくれるか」
首を横に振り、拒絶を示す。それでもノアが諦めずに問いかけ続けると、ジルの瞳から堪えきれない涙が盛り上がった。
「怖かったのか?」
ノアが優しく目元に指を触れると、ポロリと一筋の雫が伝った。
「ジル……」
「……封印なんて、知らない」
震える涙声が、静かな回廊に響く。そして、堰を切ったように感情が溢れ出した。
「封印なんて、知らない!」
吐き出すような叫びに、ノアは思わず指を離した。濡れた空色の瞳が、激しい感情を宿してノアを捉える。
「どうして、私に浄化の魔力があるのか分からなかった……。ただ、ノアの助けになればいいと思っていただけなのに」
「ジル」
「なのに、どうして――!」
ノアはたまらずジルを抱き寄せた。小さな身体は震え、頑なだった。それでもジルは、突き放すのではなくノアの背中に腕を回し、縋り付くように強く抱き締め返した。ノアは彼女をさらに深く包み込み、ジルの苦しみを取り去ってやりたいと願った。
「たまたま私が浄化の魔法使いだった? 偶然、あの森のそばの学校に入れられた? そんなはずないわ! ヘルナ様は、私のことを知っていた」
「ずっと前から、私が……。だから……」
言葉を絞り出すジルに、ノアは己の心臓を握り潰されたかのような痛みを覚えた。
「だから私は……捨てられたの?」
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