03_かりそめの安息
一条の閃光が闇を切り裂き、絶望的な断末魔が、夜の森を引き裂いた。
直後、ジルは力強い腕に引き寄せられ、抗いようのない確かな熱に包み込まれた。
自身の荒々しい息遣いだけが、まだ生きていることを教えてくれる。だが、この数瞬に何が起こったのか、ジルの理解は追いついていなかった。
恐る恐る振り返り、薄闇の向こう側に残った「それ」を見た瞬間、ジルは息を呑んだ。
女はもはや、人の姿を保ってはいなかった。
地獄の業火に直接焼かれたかのように、全身が炭化している。形を失った肉体が、音もなくパラパラと灰になって崩れ落ちていく。それが現実なのか、恐怖が見せた幻なのかさえ分からなかった。
「大丈夫か?」
鼓膜を震わせる静かな声。震える唇を噛み、ゆっくりと視線を上げると、そこには見慣れたはずの、けれど見たこともないほど峻烈で美しい顔があった。自分を抱き締めているのは、ノアだった。
「ノ……ァ……」
掠れた声が喉に張り付く。
「首を怪我している」
ノアは繊細な眉をひそめ、ジルの首元を険しく見やった。「深くはないが、手当てが必要だ。帰ろう」。そう言って、まだ呆然とするジルの顔を覗き込んだ。
ジルは一歩も動けなかった。思考は麻痺していたが、ノアの冷たい指先が頬に触れた瞬間、張り詰めていた均衡が決壊した。
「ジルっ!」
焦りを含んだノアの声が遠くに聞こえる。ジルは逃げ場を求めるようにノアに縋りつき、その胸に顔を埋めた。両の目からは堰を切ったように涙が溢れ出し、喉の奥から止まらない嗚咽が漏れた。
「こわ……怖かった……っ……!」
ガタガタと震える身体を、ノアの腕が強く、折れそうなほどきつく抱きしめ返した。その背中に指を食い込ませ、ジルは泣きじゃくった。死の淵を歩かされる恐怖が、これほどまでに恐ろしいものだとは知らなかった。
しばらくの間、ノアの腕の中で時を忘れて泣き続けた。
「ジル……」
やがて、ノアの両手がジルの顔を優しく包み、上向かせた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔。呆れられても仕方ないはずなのに、ノアの漆黒の瞳には、茶化す様子は一切なかった。そこにあるのは、静かな心配と、何か……別のものがある気がした。
だが、ふと目が逸らされ、肩を軽く叩かれた。「そろそろ戻ろう」と促される。
「首の傷も見なければいけない」
ようやく落ち着きを取り戻して周囲を見渡すと、あたりは深い闇に閉ざされていた。ウーゴたちの淡い光が周囲を照らしてはいるが、月の位置からして、かなりの時間が経過していることは明白だった。
「どうして……こんなに時間は経っていないはずなのに……」
「森の中で迷ったせいだろう」
当惑するジルに、ノアが静かに告げた。彼女は足元で不安げに蠢くるウーゴたちに視線を投げた。
「この森は時間の流れが歪むそうだ。時には早く過ぎ、時には異常に遅くなる。ホロウたちの導きがない者が行方知れずになるのもそれが理由かも知れない」
「ホロウ……って、ウーゴたちのこと?」
「ウーゴ?」
ノアが不審そうに眉根を寄せた。ジルは彼女の手を離れ、地面に屈み込んだ。ウーゴたちは弾かれたようにジルを取り囲み、心配でたまらないといった様子でせわしなく光を振るわせている。
「みんな、助けてくれてありがとう」
あの怪物が森へ踏み込んだとき、彼らは恐怖で隠れるしかなかったのだ。それでも、逃げるジルのために命がけで道標になってくれた。ウーゴたちは感激したようにジルの手に体を擦りつけてくる。その無垢な愛情に触れ、ジルの心の芯がほんのりと温かくなった。
「……ジル。ホロウが視えるのか?」
頭上から降ってきたノアの声には、探るような鋭さが混じっていた。
ジルはゆっくりと立ち上がり、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私はウーゴって呼んでるの。ウゴウゴたくさんいるから。……他のみんなには視えていないみたいだから、黙ってた。ノアも、視えているんだよね?」
「ああ……多少ぼんやりとしてるが」
ノアは「ウーゴ……」と小さく反芻し、何かを深く考え込むように沈黙した。だがすぐに頭を振ると、ジルの身体に腕を回し、軽々とその身を抱き上げた。
「戻ろう。聞きたいことは山ほどあるが、まずは治療だ。――ウーゴ、出口まで案内を頼む」
ウーゴたちは勇んで先頭に立ち、森の闇を切り裂くように進んでいく。ジルは自分で歩くと申し出たかったが、あまりの疲労に指一本動かす気力が残っていなかった。
「ノア」
「……」
「助けてくれて、ありがとう。本当に」
至近距離にあるノアの端正な顔が、その瞬間、痛みに耐えるように微かに歪んだ。まるで、自分こそが謝罪すべきだと考えているかのように。
(あなたは……本当は何者なの、ノア……)
寮へ戻る道すがら、ジルは深い眠りに落ちた。体力の限界だった。
先導するウーゴたちを追いながら、ノアは胃の奥に苦い澱を流し込まれたような気分だった。
夕食時になっても戻らないジルを探しにでたところ、森との境界線に、尋常ではない数のホロウが集まっていた。ノアには姿を見せないホロウたちが、狂ったように光り、森の奥へと急かしたのだ。
真っ先に脳裏を過ったのは、あのポワポワと頼りなく笑う少女の顔だった。
全力で駆け抜けた先で、今まさに爪が振り下ろされようとする光景を目にした時、ノアの思考は止まった。
一切の迷いなく、自らに禁じていた攻撃魔法を放った。それが自身の寿命を削り、呪縛を強めることになるだろうとは思ってはいたが、迷いはなかった。
森を抜け、境界線の内側から見送るホロウたちを振り返る。
「騒がせて悪かったな」
短く声をかけると、彼らは答えるように跳ね回った。なるほど、確かにあれを「ウーゴ」と呼ぶ感性は、ジルならではのものだ。
ジルを腕に抱いたまま、ノアは静まり返った寮へと足を進める。玄関を抜けると、廊下は死んだように静まり返っていた。
「イルメダ」
呼びかけると、廊下の影が静かに揺れ、一人の女性が進み出た。
「豹王陛下」
灰色の衣装に身を包んだ校長は、深々と一礼した。しかしジルのボロボロになった姿を目にした瞬間、その眉根が険しく跳ね上がる。何があったのかと問いたげな視線をノアは冷たく黙殺し、ジルとノア、二人の部屋へと向かった。
ベッドに優しくジルを横たえると、救急箱を抱えたイルメダが遅れて入室してきた。
手当てを彼女に任せ、ノアは窓辺に腰を下ろしてその様子を眺めていた。首の傷に薬を塗られ、白い布を巻かれても、ジルはぴくりとも動かなかった。
「……それで、一体何があったのですか」
一通りの処置を終え、イルメダが重い口を開いた。
「泥人形が森に潜んでいた」
ノアの淡々とした説明を聞くうちに、イルメダの顔からは血の気が引いていった。
「なんてこと……」
彼女は口元を押さえ、震える声で呻いた。
「閣下、ここは安全だ。危険はないとおっしゃったではありませんか」
「判断が甘かった。すまなかった」
「……泥人形を相手に、よくぞ殺されずに済んだものです。この子が」
戦慄を隠しきれない目で、イルメダは眠るジルを見つめた。あと1秒でも遅ければ、ジルの命はこの世になかったのだ。
「どうなさるおつもりです? 陛下がここにいらっしゃることが露見したとなれば……」
「明日、ジルから森での様子を聞き、それから考える。ひとまず、生徒たちの外出を校舎内のみに制限してくれ」
「陛下!」
なおも食い下がろうとするイルメダの声を、ノアの視線が射抜いた。
「――待てと言っている」
漆黒の瞳が、瞬時に金の虹彩を帯びる。
圧倒的な捕食者の覇気に気圧され、イルメダは深く頭を下げた。この絶対的な支配者を相手に異を唱え続けることの愚かさを、彼女は誰よりも熟知していた。
部屋を辞去しようとするイルメダの背中に、ノアが掠れた声をかけた。
「……どうしても、成さねばならないんだ」
罪のない子供を巻き込みたくないのは、ノアとて同じだ。だが、これは個人の感情を超えた王の責務。国家と国民のために、優先順位を違えることは許されない。
「……一言だけ、よろしいでしょうか」
イルメダが足を止め、向き直った。
「ジルは聡い子です。彼女の目の前で攻撃魔法を使った以上、もう誤魔化しはききません」
「彼女をこれ以上巻き込むつもりはない」
「巻き込むか否かの話ではありません。あの子を欺き通すことは、もう不可能だと申し上げているのです」
「……何も答えるつもりはないさ。収穫祭が終われば、私はここを去る」
そう、すべては収穫祭のため。ジルがどれほど悩み、答えを求めたとしても、王がその問いに応じることはない。
「……余計なことを申しました」
イルメダは一礼し、部屋を去った。足音を聴きながら、ノアは長く重い溜息をつき、ジルのベッドの傍らへ歩み寄った。
眠るジルの頬には、わずかに赤みが戻っていた。そっと指を触れると、指先からジルの温もりがじんわりと身体に溶け込んでくる。不思議な現象だった。彼女に触れている間だけは、この身を蝕み続けるおぞましい「呪い」が、凪のように形を潜めるのだ。
だが、イルメダの忠告を忘れてはならない。
全身を震わせ、泣きながら縋ってきたこの少女を、これ以上危険に引きずり込むわけにはいかないのだ。
ノアはポケットから一枚の紙片を取り出し、古の呪文を低く唱えた。紙は青白い炎を上げて霧散し、窓の外に水色の結界が展開されていく。
刹那、ぐらりとノアの視界が揺れた。身体に蔦のように絡みつく呪縛の鎖が、肉に食い込むような激痛を伴って軋む。魔法を使った代償が、容赦なく襲いかかってきたのだ。
「っ……、う、ぐ……」
思わず呻いた、その時。くい、と服の袖が引かれた。顔を上げると、いつの間にか目を覚ましていたジルが、澄んだ空色の瞳で自分を捉えていた。
「……つらいの?」
ジルは弱々しい手でノアの手を包み込み、静かに問うた。
「……何でもない。つらくないよ」
「嘘つきね、ノア」
だがその言葉は、半分は真実だった。握り合わされた手から伝わる心地よい熱が、身体を苛む激痛を少しずつ和らげていく。
ジルは再び、安心したように目を閉じた。
離しがたいその温もりに抗えず、ノアは誘われるようにジルの隣へと横たわった。
少しだけ。夜が明けるまでの、ほんの少しの間だけ。
一生完結により、1話〜20話を加筆、修正しています(3/1)
更新情報はXにて(@sharineko01)




