06_王立学院 〜洗礼〜
(なるほど、予想通りが過ぎるわね)
学院に一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような無数の視線を感じて、ジルは内心で小さく溜息をついた。七歳から十八歳まで、国中の貴族の子息令嬢が集うこの学び舎はあまりに巨大で、生徒の数も圧倒的だ。車寄せに停まった馬車に刻まれた、王家を象徴する「黒豹」の紋章。それを見た生徒たちは、降りてくる主が今世間を騒がせているジリアン・ノウルズ――「大魔女代行」であることを瞬時に察したに違いない。
地面に降り立ったジルに向けられる眼差しは、好奇というよりは、明らかな拒絶と軽蔑を含んでいた。もっとも、自分が手放しで歓迎されるなどと夢見るほど、ジルは自惚れ屋でも愚か者でもなかった。その執拗な視線は、校舎に入り、案内された教室の席についても変わることはなかった。
窓際の空席に腰を下ろしても、誰一人として近づいてくる者はいない。代わりに聞こえてくるのは、耳障りなクスクスという忍び笑いだった。隠された口元から漏れるのは、間違いなく自分に対する陰口だろう。周りの生徒たちは、ジルよりも二、三歳は年下に見えた。これまで正式な魔法教育を受けてこなかったジルは、年齢相応の学年に編入することができなかったのだ。年下に囲まれ、孤立する状況。それは普通なら耐えがたい屈辱かもしれないがジルは気にしていなかった。
ジルの立場は、表向き「諸事情により魔力が封印されている」ということになっていた。そのため、実技ではなく魔法力学や論理学といった、魔力の構成理論を学ぶクラスへの編入が決まったのだ。幸いなことに、このクラスには貴族であっても魔法を苦手とする者や、研究職を目指すために実技を選ばない者のためのクラスだった。もし、杖を振るような実践授業ばかりだったら、永遠に卒業できないだろう。
だが、不運なことに敵は生徒だけではなかった。
教壇に立った魔法論理学の講師もまた、ジルを歓迎してはいなかった。
「再来週、半期分の範囲を網羅した試験を行う」
講師は冷淡に告げると、これ見よがしにジルをチラリと見た。その瞳の奥に宿る湿った意地悪な色を、ジルは見逃さなかった。新参者、それも「代行」などという胡散臭い肩書きを持つ年上の編入生を、早々に叩き潰してやろうという魂胆なのだろう。
(……受けて立とうじゃないの)
ジルは教科書を手に取り、思考を前向きに切り替えた。理由はどうあれ、これほど整った環境で教育を受けられる機会など、一生に一度あるかないかだ。本当は王立薬学院が管理する研究室にも興味があったが、今は目の前の学問を修めることが最優先だと自分に言い聞かせた。
それからのひと月は、怒涛のように過ぎ去った。
ジルは寸暇を惜しんで図書室に籠もり、学業に没頭した。睡眠時間を削ってまで知識を詰め込んだ結果、魔法論理学の教師は苦虫を噛み潰したような顔で、ジルの答案を返却することになった。結果は、学年でも指折りの優秀な成績。ジル自身、自分にこれほどまでの負けず嫌いな一面があったのかと驚くほどだった。
成績が貼り出される頃になると、変化も訪れた。
「あそこの解釈、凄かったわね」
クラスの数人が、おずおずと声をかけてくれるようになったのだ。派手な魔法実践を好む主流派の貴族たちとは違い、このクラスには将来の文官や研究者を目指す、根が真面目な生徒も多い。ひたむきに机に向かうジルの姿に、一定の敬意を抱く者も現れ始めたのだ。もっとも、彼らも周囲の目を気にしてか、必要以上に親交を深めようとはせず、常に一定の一線を引いてはいたのだが。
学院での生活は、お世辞にも充実しているとは言えなかった。けれど、王宮に戻ればその疲弊も和らいだ。
王女オリビアとは今や気心の知れた友人となり、毎日状況を確認したいというノアとも、例え数分であっても顔を合わせることができた。サリーをはじめとする使用人たちも、ジルを温かく出迎えてくれる。さらに、時折、ヘルナとは夜のお茶会もした(もちろんヘルナはワインだ)。それらが、ジルにとって何よりの気晴らしであり、学びの時間でもあった。
依然として、学院内でのジルに対する視線は冷たい。だが、ノアが危惧していたような直接的な揉め事は、今日まで一度も起きていなかった。
――そう、「これまでは」の話である。
※
その異変にいち早く気づけたのは、ひとえにジルがこれまでの生活環境の中で、幼い子供たちの面倒を見る癖がついていたからだった。
その少年――エリアス・サルダーノは、まだ十歳ほど。この学院においては「子供」と呼んで差し支えない年齢だ。彼はジルのクラスメイトだったが、勉強の遅れを取り戻そうと必死なジルとは対照的に、飛び級で進級してきた神童だった。エリアスはジルに対して敵対心を見せることはなかったが、同時に興味もなさそうで、常に彼女以上の熱量で学業に没頭していた。少なくとも、ジルでさえ昼食時に片手でサンドイッチを頬張りながら読書をするような真似はしていなかった。
最初に違和感を覚えたのは、極端に人付き合いを避けるはずのエリアスが、誰かと密談している姿を見かけた時だった。国立図書館にも引けを取らぬ蔵書数を誇る学院図書館は、中庭にどっしりと鎮座する巨大な別棟だ。ジルは次の試験に備えて参考書を探すついでに、好奇心から、普段は人が立ち入らない最上階まで足を運んでいた。
異国の言語で綴られた古い皮装丁の背表紙を眺めながら歩いていると、書架の奥から微かな話し声が聞こえてきた。私語厳禁の場所で誰が、と不審に思って覗き込むと、そこにエリアスが立っていた。
彼の向かいには、もう一人誰かがいる。本棚の影になって、見えるのは逞しい腕と長い足だけだったが、その体格からジルよりも年上の上級生であることは明らかだった。
(エリアスが上級生と? 珍しい組み合わせね。進路の相談かしら……)
そう思った直後、ジルはエリアスの表情に凍り付いた。
本を読み漁る時の貪欲な瞳でも、他者を撥ねつける無機質な瞳でもない。光を失い、焦点の定まらない――まるで魂が抜けたような、虚ろな眼。
理屈よりも先に生存本能が警鐘を鳴らした。ジルは考えるより先に叫んでいた。
「エリアス!」
鋭い声が静寂を切り裂く。同時に、影にいた男がジルとは反対方向へ脱兎のごとく駆け去る音が響いた。
ジルは慌ててエリアスの元へ駆け寄り、その細い肩を掴んだ。
「エリアス! エリアス・サルダーノ、しっかりしなさい!」
触れられた瞬間、エリアスは弾かれたように意識を取り戻した。目の前にあるジルの真剣な眼差しに、彼は当惑したように小さく頭を振った。
「エリアス、今の人は誰? 何をしていたの?」
「僕……? 僕は、なんだろう。誰かと話していたような気がするけれど……」
「ええ、確かに誰かと話していたわ。上級生のような男の人だった。思い出せないの?」
「ここで勉強をしていたはずなんだ。でも、何だろう、今の……」
「一体、何事ですかッ!!」
記憶を辿ろうとするエリアスの言葉を遮ったのは、憤怒に震える司書の女性だった。額に青筋を立てた彼女の形相に、ジルは震え上がった。
その後しばらく、ジルはこっぴどく説教を食らう羽目になった。最初に事情を聴かれ、「騒ぎに関係なし」と判断されたエリアスは早々に解放されたが、ジルは平謝りを続け、なんとか出入り禁止だけは免れた。疲労困憊で図書館を後にした頃には、予定していた帰宅時間を大幅に過ぎていた。正門前に待機していた馬車に乗り込むと、重いため息が漏れる。
揺れる車内であの光景を思い出す。あの男は誰だったのか。なぜ逃げたのか。
何より、エリアス本人の記憶が曖昧なのが不気味だった。あの空虚な瞳は、かつて泥人形に襲われた時のような「闇」の気配を感じさせて、ジルの背筋に冷たい戦慄を走らせた。
※
「顔は見られたのか?」
薄暗く、僅かな灯火しかない一室。学院の使われていない旧棟の一角に、数人の影が集まっていた。
「いや、見られていないはずだ」
図書館にいた男が低く答える。
「見られていないにしても、何かしら疑念は残るだろうな。サルダーノの記憶が曖昧であれば尚更だ」
「だからといって何の問題がある。ろくな魔力も持たない小娘だぞ」
「その小娘は、大魔女ヘルナの代行として王宮に住んでいる。我々が豹王に目をつけられるリスクが分からないのか」
「豹王が学院の些細な問題にまで首を突っ込むはずないだろう。例え興味を持たれたところで、どうということもない」
男の不遜な物言いに、統率者と呼ばれた人物が眉を潜めた。この男は常に状況を甘く見る節がある。それがいずれ自らの首を絞めることになるとも知らずに。
「エリアス・サルダーノは諦めるのですか?」
沈黙を守っていた別の一人が問いかけた。
「いや……あの少年の頭脳は天才的だ。いずれ伯爵位を継ぐ身であり、父親は親王派でもある。仲間に引き入れるにはこれ以上ない人材だ」
「では、このまま計画を続行するということでよろしいのですね」
「予定通りだ。だが、邪魔が入らぬよう細心の注意を払え」
「いっそ、あの小娘を殺したらどうだ。そうすれば邪魔も――」
男は、次の言葉を紡ぐことができなかった。
突然、見えない手に喉を締め上げられたように、彼は必死に空気を求めてもがいた。顔を真っ赤にし、喉を掻きむしり、数秒の地獄ののち、ようやく解放された彼は激しく喘ぎながら床に伏した。
「愚か者が」
氷柱のように冷酷な声が室内に響き渡る。
「余計な真似はするな。例え魔力が使えずとも、あれは『代行』だ。事は密やかに、かつ速やかに行わねばならんのだ。わかったか」
男は頷いた。
だが、統率者は気づいていなかった。
床で苦しげに息を吐く男の瞳に宿る、その凶暴な色に。
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