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呪われ豹王の専属魔法使い  作者: しゃり猫
二章_首都学園編(前編)
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03_懐疑なる洗礼③


 まどろみの底から浮上するような、ぼんやりとした目覚めだった。


 ジルは重い瞼をこじ開け、天蓋のついた見慣れぬ天井を凝視する。意識がはっきりするまで数秒を要したが、ここが王宮の一室であることを思い出すと同時に、腹の虫が「グーッ」と情けない音を立てた。自覚した途端、猛烈な空腹が押し寄せてくる。


 そろりとベッドから床に足を下ろすと、サイドテーブルの上に朝食が用意されているのが目に留まった。パンにオムレツというシンプルな献立だが、ボリュームは十分だ。ジルは寝ぼけ眼のまま、吸い寄せられるように食事にかじりついた。


 しばらくして、扉を叩く控えめな音と共にメイドが熱い紅茶を運んできた。その芳醇な香りを吸い込んでようやく、ジルの頭もしゃんとしてきた。


(よほど疲れていたんだわ……)


 少し横になるだけのつもりだったのに、昨夜はそのまま泥のように眠ってしまったらしい。だが、それも仕方のないことだ。これほどまでに柔らかく、吸い付くような寝心地のベッドなど、人生で経験したことがなかったのだから。


 サリーという、ジルと歳の近そうなメイドが「お召し替えをお手伝いしましょうか」と申し出てきた。ジルは素頓狂な声を上げそうになるのを堪え、目を丸くした。


「いえ、結構よ。自分一人で着られるから」


 貴族という人種は、服を着るのすら人の手を借りるのだろうか。でもノアは自分で着ていた気がするが……。

 丁重に断ると、サリーは物分かりよく頷いたが、食い下がるように付け加えた。


「では、お髪だけでも解かせてくださいませ」


 言われて無意識に頭に手をやると、ジルの指先にごわついた感触が当たった。昨夜、髪をろくに乾かさないまま寝てしまったせいで、豊かな巻き髪はまるで鳥の巣のように無残に膨れ上がっている。


「……お願い」


 ジルは鏡の前に座った。

 サリーが手際よく櫛を通し、髪を整えて退室した後、ジルは「服がある」と言われていたクローゼットの扉を開いた。


 中には十着ほどの衣服がハンガーに掛かっていたが、ジルの価値観からすれば、それは到底「服」と呼べる代物ではなかった。


(これ全部……ドレス)


 煌びやかな装飾こそ控えめだが、どれも指先が滑るような上質の生地で作られている。とりあえず一着取り出してみたものの、背中のボタンを鏡越しに確認して絶望した。これは一人では手が届かない。


 やはりサリーを呼び戻すべきか。悩みながら部屋を見渡すと、隅に置かれた自分のカバンが視界に入った。ジルは着替えを後回しにして、カバンの中の「同居人」の様子を窺うことにした。


「ヘルナ様? ヘルナ様、いらっしゃいますか」

「……なんだい、うるさいねぇ」


 返ってきたのは、ひどく掠れた、苦痛の滲む声だった。間違いなく二日酔いだ。ジルは呆れ半分に溜息をつく。酒は早急に取り上げた方がいいかもしれない。大魔女のくせに酒好きで、その上アルコールに弱いというのは、弟子としては非常に困りものだ。


「何かお食事を召し上がった方がいいのでは?」

「私は液体しか受け付けないんだよ、お嬢さん。……ところで、今は何日経ったんだい」

「何日も経ってませんよ、昨日着いたばかりです。それよりヘルナ様、本当に私を弟子にしてくださるんですか?」

「そうだと言ったさね」

「じゃあ、修行をつけてくださるんですね?」

「…………」

「ヘルナ様? ヘルナ様ってば!」


 無音の返答。ジルは深いため息を吐いた。どうやら今のところ、自分は「名ばかりの弟子」らしい。貴族たちの前であれほど大見得を切ったというのに、前途多難すぎて不安が募る。


 その時、再びドアがノックされた。

 顔を出したのは王女オリビアだった。彼女はまだ使い古したローブ姿で立ち尽くしているジルを見ると、美しい眉を「あら」と持ち上げた。


「服のサイズが合わなかったかしら? 一応、私が子供の頃に着ていたものを用意させたのだけど」

「いえ、その……」


 ジルは正直に、ドレスを着る羽目になるとは思わず、サリーの助けを断ってしまったのだと打ち明けた。

「こういうドレスは着たことがなくて……。申し訳ありません、後でサリーを呼んで手伝ってもらいます」


 すると、オリビアはくすくすと楽しそうに笑った。その笑い声には蔑みなど微塵もなく、ただ純粋に愉快そうだった。


「私が手伝ってあげるわ」

「えっ、王女様にそんな!」


 驚愕するジルを余所に、オリビアは手際よくドレスを着せ、背中のボタンを一つずつ留めていく。


「うん、少し横幅が余っているけれど、丈はちょうどいいわね。いずれテーラーを呼んで、貴女にぴったりのドレスを作らせましょう」

「そんな! これで十分すぎます!」


 慌てて固辞するジルを、オリビアは不思議そうに見つめたが、それ以上は追求してこなかった。


「ああ、そうだった。今日は一緒に夕食をとりたいと思って。それと、ノアから伝言よ。十一時に執務室へ来てほしいって。あの子ったら、昨日は顔色が悪そうだったのに、今朝は早くからあちこち動き回っているんですもの。心配して損したわ」


 朗らかに笑うオリビアに、ジルもつられて笑みを返す。時計を見れば、約束の時間まで一時間ほど余裕があった。わざわざ足を運んでくれた王女に礼を言う。昨日、彼女が言った「賓客として迎える」という言葉に嘘はなかった。


 オリビアはお茶会があると言い、部屋を去っていった。去り際に「そのうち貴女も参加して」と誘われたが、ジルは曖昧な笑顔で返すことしかできなかった。貴族との交流など、可能な限り避けたいのが本音だ。いつどこでボロが出るか分かったものではないし、何より昨日の大広間での冷ややかな視線を思い出すと、歓迎されるとは思えなかった。


 十一時。ノアの待つ執務室は、昨日オリビアに挨拶した部屋と同じだ。王宮は迷路のように複雑だが、記憶力に自信のあるジルは、一度通った道は忘れない。


 少し早めに部屋を出たのは、昨日窓越しに見かけた「温室」が気になっていたからだ。

 記憶を頼りに迷路のような廊下を進むが、外への出口が見当たらない。誰かに聞こうにも、人影すらなかった。


「……ええい、こうなったら」

 ジルは意を決して近くの窓を開け放った。一階なので高さはない。ドレスの裾を気にしながらも、ひらりと外の地面に飛び降りた。


 ガラス張りの温室は、近くで見ると意外にもこじんまりとした大きさだった。

 鍵は掛かっておらず、中へ一歩踏み込むと、清々しい緑の匂いが鼻をくすぐる。色鮮やかな花々や見たことのない植物が植っていた。


(素敵な温室だわ。なんだか温かみがある)


 王宮の庭園も素晴らしいが、ここは私人が管理する、憩いの庭園のようだ。

 ふと、温室の奥で、ふわりと輝く一輪の花を見つけた。

 吸い寄せられるように近づくと、それは外からの陽光を反射しながらも、その何倍も輝いていた。


 それは、金色の薔薇だった。


 顔を寄せると、芳醇で濃密な香りが鼻腔をくすぐる。それは単なる花の香りというより、魂を揺さぶるような魔力的な甘やかさを孕んでいた。あまりの芳しさに、意識が遠のくほどの陶酔感に襲われる。


(……なんて薔薇なの)


 この世のものとは思えない輝きを放つ花弁を指先でなぞろうと、さらに身を乗り出した、その時。



「……どうやってここに入った」



 背後から響いたのは、冷たく低いバリトンだった。


 心臓が跳ね上がり、ジルは弾かれたように振り返った。

 そこに立っていたのは、ロズリー公爵だった。


 彼は昨日、大広間でジルを値踏みした時と同じ鋭い眼光を向けていたが、その瞳の奥には隠しきれない動揺が走っていた。昨日のような冷徹な拒絶というよりは、到底信じがたいものを目の当たりにしたような、形容しがたい困惑が彼にあった。


 公爵は扉の施錠を確認するように背後へ一瞥をくれると、再びジルへと視線を戻した。その眉間の皺は、理解の追いつかない事態に深く、険しく刻まれていく。


「あの……窓からこの温室を見かけて。それで、陛下に面会に行く前に立ち寄ったんです」

 ジルの答えを聞いても、公爵の不審は晴れるどころか、さらに深まったようだった。


「見かけただと?」

「はい。あそこの、二階の廊下の窓から……」


 ジルが縋るように指さしても、公爵は視線を動かそうとはしなかった。ただ、目の前に立つ少女という存在そのものを疑うように、じっと凝視し続けている。彼は何かを言いかけ、喉の奥で言葉を飲み込んだ。その様子は、問い質したいことが山ほどあるのに、何から手をつければいいのか分からない、といった風でもある。


 説明のつかない沈黙が温室の空気を重く沈殿させていく。その威圧感に耐えかね、ジルはぎこちなく口を開いた。


「あの……私、失礼します。陛下に呼ばれていますので」


 膝を曲げた挨拶に、公爵はそれを受けるでもなく、石像のように微動だにせず立ち尽くしていた。


 ジルは逃げるように彼の傍らをすり抜けた。温室を出る間際、最後にもう一度だけ彼を見たが、ロズリー公爵の依然としてそこに留まる姿に、ジルは自分が失敗をしてしまったと後悔した。

更新情報Xにて(@sharineko01)

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