17_ジルの慟哭
静寂が、すべてを塗り潰した。
先ほどまで不遜に振る舞っていた男の成れの果て――崩れ落ちた土塊となった残骸を凝視しながら、ジルは現実の境界線を見失いそうだった。
せり上がるような強い吐き気が、ジルの喉を突き上げる。
視界は不自然に歪み、色彩が混濁していく。
昔、森で採取した毒草の分量を誤って飲んでしまった時の感覚に似ていた。肉体の神経と脳の伝達が断絶され、自分の体ではないような浮遊感。思考は支離滅裂に掻き乱されているというのに、心の芯だけが恐ろしいほど冷え切っていた。
(このまま、意識を手放したい……)
そう逃避しかけた瞬間、鼓膜を引き裂くような咆哮が地の底から響き渡った。
男の死によって術が解けたのか、あるいは、主を失ったことで暴走が加速したのか。
ノアのあげる叫びは、もはや獣のそれですらなく、魂を削り取るような苦悶に満ちていた。
男が口にしていた「何か」が、今まさにノアの存在そのものを喰らい尽くし、支配しようとしているのだ。
「ノア……」
掠れた声で名を呼ぶが、狂乱の渦中にいる彼には届かない。
目の前にいるのは、片足で払われるだけで自分の命など容易く散ってしまうほどの巨躯を持った肉食獣。漆黒の毛並みに覆われた、異形の黒豹だ。
「ノア…」
ジルの瞳から、熱い雫がこぼれ出した。
傷ついてほしくない。これ以上、苦しんでほしくない。
あんな男の言った通りに、化け物に塗り潰されてほしくない。
ノアは、ノアのままでいてほしい。
「ノア……っ!」
ジルは、吸い寄せられるようにその巨体へと縋り付いた。太く、しなやかな野獣の首に、細い腕を回す。動くたびに腹部の傷が引き攣れ、焼けるような激痛が走ったが、そんなことはどうでもよかった。
ジルは必死に、彼の名を呼び続けた。何度も、何度も。
「ノアぁぁ……」
なぜ、彼はこんな姿に成り果ててしまったのか。あの男の正体は何だったのか。なぜこれほどまでに無惨な目にあわなければならないのか。
理不尽な試練が頭を駆け巡る。けれど、それ以上にジルの心を支配していたのは、ノアを失うことへの根源的な恐怖だった。
彼が、彼女の知る「ノア」でなくなってしまうことが、何よりも恐ろしかった。
ジルは泣いた。己の無力さに、ただ子供のように泣きじゃくった。
それでも、腕の力だけは緩めなかった。獣の猛々しい鼓動を感じながら、彼を抱きしめ続けた。
ずっと、ずっと。
出血と疲労で意識が遠のき、暗闇に沈んでいく間も、彼女の魂は彼を離さなかった。
やがてノアが、禍々しい獣の皮を脱ぎ捨て、一人の青年の姿に戻った時。
そして彼が、信じられないものを見るような眼差しで、自分を抱きしめる少女を見つめた時も。
ジルはただ、消え失せる意識の中で彼という存在を繋ぎ止めていた。
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