13_忍び寄る禍(わざわい)③
「その子供は置いていけ」
背後から突き刺さった声には、抑揚も温度もなかった。
ジルの背筋に冷たい戦慄が走った。恐る恐る振り返ると、闇の中に一人の男が佇んでいた。
透けるような青白い肌に、知性を湛えながらも凍てつくほどに冷徹な瞳。隙のない貴族的な装束。その姿は、ナタリーが語っていた「あの男」の特徴と一致していた。
年齢は自分より十ほど上だろうか。だが、その若さに似合わず、男が纏う空気は濃密な悪意に満ちていた。この男にとって、他者の命など道端の石ころに等しい――直感がそう告げていた。
ジルは反射的に、アンナを庇うように一歩前へ出た。守られているはずの少女は、虚空を見つめたまま、人形のように何の反応も見せない。この男の目的が何であれ、幼い子供の心をここまで傷つけた事実は変わらない。ジルの胸の奥底で、憤怒が溢れ出た。
「立て」
それは、命じることに慣れきった傲慢な響きだった。ジルは無言のまま、抗うことなく立ち上がる。同時に、力なく伏していたアンナの細い腕を掴み、無理やり引き起こした。掌から伝わる少女の小刻みな震えが、ジルの指先にまで伝染しそうになる。それを、叱咤するように強く握り締めた。
「多少は胆力がありそうだな。そっちのガキは使い物にならなくて困っていたところだ」
男は、まるで壊れた道具を捨てるかのような、身勝手極まりない口調で吐き捨てた。アンナの心に、一生消えないであろう深い傷を負わせておきながら、その言い草は何だ。今すぐその頬を張り倒してやりたい衝動に駆られる。
だが、今は怒りに身を任せる時ではない。何としても、アンナをこの毒牙から逃がし、安全な場所へ送り届けなければ。
「……私に何をさせたいの」
「簡単な道案内さ。収穫祭の折にしか姿を見せないという、『森の主』の元へね」
森の主――?
ジルの思考が動きを止めた。収穫祭の間だけ深部へ入れることは知っていたが、そんな伝承めいた存在は初耳だった。
一瞬、この男の狙いはノアではないのかという疑念がよぎる。しかし、男はジルの動揺を見透かしたように薄く笑った。
「そして、その森の主に面会しているであろう御仁にも、用があってね」
やはり、ノアが目的なのだ。
ジルは知る由もなかったが、もし森に主が存在し、会える機会が収穫祭に限られているとするならば。ノアがこの時期に森へ留まっている理由も、イルメダ校長が言っていた言葉の意味も、すべてが一本の線で繋がった。
そしてこの男は、森の複雑な理を越えるために、ウーゴの案内を受けられるアンナを狙ったのだ。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
アンナの視線は今も空中を彷徨い、焦点が合っていない。この小さな肩は、一体何時間、この男が放つ凍えるような恐怖に晒され続けていたのか。
「さあ、来てもらおうか。お前はホロウと会話ができるようだしな」
先ほどのやり取りを、どこからか見ていたのか。
「それに、どうやら『豹王』とも面識があるらしい」
ジルの目が驚愕に見開かれた。それを見た男は、獲物を追い詰めた獣のように愉快そうに喉を鳴らした。
「知っているだろう? ついさっき、奴の愛称を親しげに呼んでいたじゃないか」
豹王。
(ノアが……あのノアが、豹王……?)
立ち居振る舞いから高位の貴族だとは思っていた。だが、まさか一国の主その人であったとは。
あまりの事実に全身を衝撃が突き抜け、震えが止まらなくなる。そして一周回って、こみ上げてきたのは乾いた笑いだった。
身分違いどころではない。本来なら、同じ空気を吸うことさえ許されない雲の上の存在。そんな方と、自分は肩を並べて笑い合っていたというのか。
だが、今はそれを反芻している余裕はない。何よりも優先すべきは、腕の中のアンナだ。
「……この子を学校に返して」
「もう返したつもりだが?」
「あの中……結界の中に入れるまで、安心できないわ」
男の口元が、わずかに引き攣った。
「……あの忌々しい結界が見えるのか。ホロウの件といい、魔力がない割には随分と『いい目』をしているな」
細められた瞳が、爬虫類のそれを彷彿とさせる。生理的な嫌悪感にジルは顔を背けそうになったが、必死に踏み止まった。ここで引けば、アンナを救う手立てはなくなる。
「アンナ……アンナ!」
耳元で、張り裂けんばかりの声を出した。少女の視線が混濁し、彷徨い、ようやくジルを捉える。
「……ジル……」
その微かな反応に、胸を撫で下ろした。完全に正気を失ってはいない。ジルはアンナの視界から男を遮るように立ち塞がった。
「アンナ、聞いて。今すぐ校舎に戻るの。お願い、足を動かして。いいわね!」
それでも立ち竦むアンナの頬を、ジルは迷わず叩いた。
パァン、と乾いた音が静寂に響き渡る。
ジルはアンナの眼前に顔を突き出し、一言一句を刻みつけるように命じた。
「歩いて。振り返らずに」
背中を強く押し出すと、アンナは糸の切れた人形のような危うい足取りで歩き始めた。一歩、また一歩。ようやく結界の境界を跨ぎ、崩れ落ちるように倒れ込んだが、その場所ならもう安全だ。ジルはそれだけを確認し、深く息を吐いた。
「行くぞ」
男の無機質な声が、無慈悲に旅の始まりを告げた。
歩き出したジルの足元は、深い暗闇に包まれている。木の根に足を取られ、よろめいた瞬間――。
男が、すっと指先を持ち上げた。
直後、ジルの二の腕に、鋭く鈍い痛みが走った。
熱い液体が、肌を伝って滴り落ちる感触。かつて襲われた時の記憶が鮮明にフラッシュバックし、膝がガクガクと震え出す。
「言わずとも分かっているとは思うが。お前が役に立たないと判断した瞬間、次は首を掻き切る」
抗う言葉など持ち合わせていなかった。ジルはただ、小さく頷く。
「さあ、案内してもらおうか」
促されるまま歩き出したジルの背後から、低く、酷薄な笑い声が追いかけてくる。
「道中、たっぷりと聞かせてもらおうじゃないか。豹王の話をな……」
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