10_知の魔女、ヘルナ
ノアは羅針盤の指針を頼りに、湿った土を踏みしめて歩き続けていた。
森は不気味なほどに静まり返っている。ホロウの導きはやはりなかった。
ただ、時折こちらを伺うように、茂みや巨木の陰から小さな輪郭が覗いては、すぐに消えていった。
(……やはり、歓迎はされていないか)
この森は深い。ホロウの導きを得られなかった探索者の一部が消息を絶つという噂は、あながち誇張ではないだろう。
彼らは今も、出口のないこの緑の迷宮を彷徨い続けているのかもしれない。ふとそんな考えが脳裏をよぎり、ノアは微かな笑みを浮かべた。自分も同じ運命を辿る可能性はもちろんあるのだから。
道中、足元に目を向ければ、王宮の薬草園でも滅多にお目にかかれない貴重な薬草が自生している。
この森の恵みが王国の国庫を潤しているのは紛れもない事実だが、ノアの胸中には拭いきれない違和感があった。
(果たして、あんな少女たちの労働に依存していていいのだろうか……)
学校でジルたちと共に過ごす時間が増えるにつれ、その疑問は確信に近い重みを持ち始めていた。
思考が散漫になるのは危ういと自覚していても、意識は磁石に引かれるように、自分がやってきた方向――ジルのいる場所へと戻ってしまう。
別れ際、ノアの声を聞いても、彼女はさして動揺した様子を見せなかった。もしかしたら、自分が男であることに最初から気づいていたのではないか。
あのような形で去るのが本当に正解だったのか。もっと別の、穏やかな伝え方があったのではないか。
後悔に似た迷いが、足取りを重くさせた。
ぽたり、と顎から汗が滴り落ちる。
森に入ってから二時間は優に過ぎた。相当な奥深くまで踏み込んだはずだが、目的の場所はいまだ見えてこない。
本来なら、この程度の行軍はノアにとって造作もないことだ。しかし、森の深淵に近づくにつれ、体内にある「それ」が脈動を強めていた。
嫌な粘り気を帯びた何かが、ノア自身の魔力にじりじりと吸い付く感覚。内側を侵食される不快感に、ノアは奥歯を噛み締めた。
(……全く、もう少し曾祖母の話を聞いておくべきだったな)
まさか自分自身が、あの「大魔女」に会いに行く羽目になるとは思ってもみなかった。
その時、視界の端に一際大きな白い影が揺れた。
今日初めて、ホロウが自ら姿を現したのだ。
だが驚いたのはその大きさだ。通常、ホロウはジルの掌に収まる程度のサイズだが、目の前の個体は両手で抱えるほどに巨大だった。
この「変わり種」の登場は、停滞していた状況が動く兆候に違いない。ノアは努めて穏やかな声で、そのホロウに語りかけた。
「ヘルナの元へ案内してくれないか」
ホロウは動かず、ただじっと無機質な瞳でノアを見つめている。
ノアは膝をつき、視線を合わせて再度頼み込んだ。徐々にぼんやりしていたホロウの輪郭が、驚くほどはっきりと見えてきた。
(なるほど……意外に表情豊かな目をしているんだな。ジルが可愛がるわけだ)
返事を待つ間、数分が経過した。それでもノアは諦めず、その場に留まり続けた。
「――まるで似ていないじゃないか」
唐突に放たれた言葉に、ノアは耳を疑った。呆れたような、ひどく世俗的な口調。
「ヘルナ……なのか?」
「『ヘルナ様』と呼ばんかい、若造が」
思いもよらない姿での対面だったが、この不遜な物言いは間違いなく本人だろう。あまりの落差に、ノアは危うく吹き出しそうになった。
「一国に一王、一魔女。これらは常に対等なり……」
七獣国の原則を引き合いに出し、ノアは口角を上げた。つまり、豹王であるノアが彼女を「様」付けで呼ぶ義理はない。
ヘルナは、苦々しげに「ふん」と鼻を鳴らした。その態度は、いかにも隠居した大魔女らしい傲岸さに満ちている。
「ひ孫ともなると、ミランダの面影もありゃしないね。王家の特徴をそのまんま煮出したような面構えだよ」
王家に対して良い思い出がないのか、彼女は隠すことなく不快感を示した。
「わざわざ迎えに来てくれるとは。だが、なぜそんな姿で?」
ノアの問いに答えず、ヘルナはくるりと背を向けて歩き出した。
ノアは無言でその後を追う。しばらくの沈黙の中、周囲の景色が変化していくことに気づいた。見覚えのある巨木、特定の規則性を持って生える薬草――。
ヘルナが振り返り、ニヤリと笑った。
「ただの散歩さね。何せ、このあたしが館を出られるのは収穫祭の時だけなんだから」
「出られるのは……? 自由に出歩けないということか?」
自ら隠居したと聞いていたが、と問い返すと、ヘルナは忌々しげに言葉を吐き捨てた。
「昔、ある魔女との賭けに負けてねぇ。それ以来、この森の館に縛り付けられる羽目になったのさ」
あの大魔女を拘束するほどの賭けとは一体何だったのか。好奇心が疼くが、それ以上に「彼女が館から出られない」という事実は、ノアにとって計算外の痛手だった。
その時、突如として身体を激痛が突き抜けた。
「……っ!」
耐えきれず、ノアはその場に膝をつく。
脂汗が噴き出し、喉からは細く苦しげな呼吸が漏れた。
「厄介なものを抱え込んだものだね、あんたも」
前を行くヘルナが、冷淡に言い放つ。
「……何が、入っているのか分かっているのか」
「そんな禍々しいもの、古今東西、悠久の彼方から未来の先まで、ただ一つしかないさね」
ヘルナは同情の素振りも見せず、再び歩き出した。待つつもりはないらしい。ノアは震える足に力を込め、自らを鼓舞してその後ろ影を追った。
やがて、森の開けた場所に一軒の館が現れた。
重厚な趣を湛えたその建物は、おどろおどろしい魔女の家というより、洗練された貴族のマナーハウスに近い。ヘルナが近づくと、主を迎え入れるように扉がひとりでに開いた。
足を踏み入れると同時に、壁の蝋燭に次々と火が灯る。
「こっちに来な」
案内されたのは、こぢんまりとした、だが手入れの行き届いた居間だった。
椅子にどかっと腰を下ろしたホロウの姿をしたヘルナの向かいに、ノアも身体を預ける。
壁一面を埋め尽くす魔術書や、這い回る醜い使い魔、バイオリンを弾くコウモリ――そんな想像は、整然と管理された室内を見て霧散した。
人間サイズの椅子に、ちょこんと座るホロウの姿に尋ねずにはいられなかった。
「……どうして人の姿に戻らないんだ?」
「どうしてかって? 人間の肉体なんて、とうの昔に失ったからさ」
「ない……?」
ヘルナはもふもふの体から、枯れ枝のような細い腕を伸ばした。サイドテーブルの瓶からワインを豪快に注ぎ、一気に煽る。
「ふん……魔女が不死身でないことくらい、あんたも知ってるだろ?」
確かに、魔女の命も永遠ではない。しかし、大魔女と呼ばれる存在は概して長命だ。
歴史上、浄化の魔女以外で命を落としたのは、自作の毒薬の効能を確かめるために図らずも死んだセーブルのシャニンの先代だけのはずだ。
「一体、何年生きて……いや、何年生きたんだ、あんたは」
ヘルナはその問いには答えず、新しいグラスにワインを注いでノアに差し出した。受け取って一口含むと、驚くほど芳醇で美味かった。
杯を重ねても、ノアの意識は冴え渡ったままだ。父王と違い、ノアは酒に飲まれることがない。その体質を知ってか知らずか、ヘルナは壁に向けていた視線をノアへと戻した。
「久方ぶりの人間の来訪。それもミランダのひ孫と顔を合わせることになるとはね」
「曾祖母はよく、あなたの話をしていたよ。その時は、人の姿だったのか?」
「いや、この姿さ。勇ましい小娘でねぇ……こんな場所までやってくる変わり者だったよ。脅かしてやろうと姿を現したら――」
ヘルナの目が懐かしそうに細められる。その先の展開を、ノアは知っていた。曾祖母は出会った瞬間、恐怖するどころか「友達になろう」と詰め寄ったのだという。
「魔法使いとしても見所があったが、王家に入るなんてつまらん真似をしたもんさ」
「国を司る大魔女とは思えない言い草だな」
「ふん、先代の王も酷かったのはあんたも認めるところだろう?」
「……否定はできないな」
「酒と女とギャンブル。あんなのが居座れば国が傾く。早死にしたのはこの国にとって最大の幸運だったのさ」
あまりに辛辣な物言いに、ノアは怒りよりも先に笑いが込み上げてきた。
曽祖母以来、誰もこの館を訪れていないのだとしたら、彼女はこの静寂の中でどれほどの時を過ごしてきたのか。
「噂では、あなたには千里眼があると聞いたが」
問いかけると、ヘルナは今日一番の笑い声を上げた。
「そんなもの、あるわけないだろ!」
「なら、なぜ森から出ることなく外の状況を知れる? 俺が豹王だということも知っていたようだが」
ヘルナは棚に置かれた、水が満ちたクリスタルの器を指差した。
「魔女の醍醐味といえばあれさ。もっともそれは借りもんだがね。ここでの退屈しのぎに借りたのさ。時折は時勢を覗くのも必要だからね」
「なるほど……それ以外はずっと一人で? 使い魔もいないようだが」
「ずっと一人さ」
それ以上は聞くなとばかりにヘルナが手を振る。そして、唐突にその視線が鋭くなった。
「『それ』を抱えている割には、元気じゃないか」
ヘルナの眼差しが、ノアの心臓のあたりを撫でる。
「ミランダの血が混じっていなければ、即死だったろうね。もっとも、だからこそ『器』に選ばれたんだろうが」
「……――」
ノアが口を開きかけたが、ヘルナの細い指がそれを制した。
「生憎、あんたの腹に『それ』が入った経緯までは知らんよ。私は見たいものしか見ない主義でね。……もっとも、あんたがこの森であの小娘を助けたあたりからは、興味深く拝見させてもらったけどねぇ」
ニヤニヤとした気配が伝わってくる。ホロウの顔に口は見えないが、絶対に笑っている。
「ホロウたちが、助けろと泣きついてきた矢先にねぇ、あんたが現れたんだよ。まったく出る幕がなかったもんさ。白馬の王子様! いやさ、女装した豹王様!」
ゲラゲラと毛玉が笑い転げた。どうやら相当に酔いが回っているらしい。
「あー……ったく、ダメだね。この体はアルコールに弱すぎるよ」
毒づきながら、ヘルナはワインボトルを掴み、残りを直接口へ流し込んだ。空になったボトルをテーブルに叩きつけると、中身が沸々と湧き上がり、瞬時に満たされていく。
その光景を横目に、ノアは静かに尋ねた。あの時、ホロウがヘルナにも泣きついたとは驚きだった。
「……ジルを助けるつもりだったのか?」
ボトルを再び持ち上げたヘルナは、赤い液体を喉に流し込み、そして、射抜くような視線でノアを真っ直ぐに見据えて、「当たり前だろう」と答えた。
「あの子は――この世でただ一人の、浄化の魔女なんだから」




