01_季節外れの転校生
聞こえてくる鐘の音に、ジリアン・ノウルズは膝の上で広げていた古びた本を閉じて立ち上がった。
その拍子に、彼女の肩や膝に寄り添っていたポワポワと光る小さな白い塊たちが、コロコロと地面へ転げ落ちていく。
「もう戻るね。また明日」
ジリアン――ジルが屈み込んでその「モフモフ達」を撫でてやると、表情は見えないものの、彼らは全身を小刻みに震わせて嬉しそうに甘えてきた。
この不思議な生き物は、なぜかジルにしか見えない。学校に隣接する深い森に住まう精霊なのか、それとも他の何かなのか。わかるのは彼らに好かれていることくらいで、ウゴウゴと群れて動くその様子から、ジルは彼らをまとめて「ウーゴ」と呼んでいた。
森の境界線ギリギリまでついてくるウーゴたちに手を振り、ジルは石造りの校舎へと足を速めた。
「ジルっ!」
校舎に入るとすぐに、親友のエルマが駆け寄ってきた。二つの三つ編みを揺らした活発な少女は、珍しく興奮した様子で声を弾ませている。
「聞いて、今日転校生が来たみたいなの! さっきイルメダ校長と一緒にいるところを見たんだけど、ものすっごく綺麗な人だったよ」
「転校生? この時期に珍しいね」
卒業まで半年を切ったこの時期の編入など、滅多にないことだ。ジルが内心で首をかしげると、エルマは少し声を潜めた。
「私たちと同じくらいの年齢に見えたけど……何か事情があるのかな。……あ、ごめん」
エルマが謝ったのは、ジルが身寄りのない孤児であることを思い出したからだろう。だがジルは「気にしないで」と柔和な笑みを浮かべた。三歳でこの学校に引き取られたため、ジルは親の顔を知らない。本来なら孤児院へ送られるはずの身で、こうして教育を受け、寮生活を送れている幸運を、彼女は深く感謝してもいた。
二人が教室に入ると、そこには女子生徒しかいなかった。
この学校が隣接する森は、世界でも希少な薬草が自生する特別な場所だ。かつて「薬学の神」と称された大魔法使いが遺したとされるその森には、奇妙な制約がある。
――「十六歳前後までの、魔法の素養がある乙女」しか立ち入れないのだ。
それ以外の者が足を踏み入れれば元の場所へ戻され、もし「男」が侵入しようものなら二度と戻ってこられないという不気味な噂すらある。孤児であるジルがここで教育を受けられるのも、彼女にも僅かながら魔法の素養があったからだ。
(今年で十六歳。私がこの森に入れるのも、今年が最後なんだわ……)
窓の外、ウーゴたちが住まう深い緑を眺めていると、前方の扉が静かに開いた。
イルメダ校長が入ってくる。その後ろに、一人の少女を従えて。
教室中の生徒が、一瞬で息を呑んだ。ジルもまた、その一人だった。
エルマの言葉に嘘はなかった。腰まで届く夜色の黒髪に、吸い込まれそうな漆黒の瞳。冷涼な美貌には一切の隙がなく、最高学年のジルたちよりもいくつか年上に見えるほどの、圧倒的な気品を纏っていた。
「皆さん、転校生を紹介します。ノア・ダンカンさんです。ノアさんはご両親の仕事の都合で、卒業までこちらで生活されることになりました」
「ジリアンさん。彼女はあなたと同室になりますから、色々と面倒をみてあげてください」
「はい、先生」
ジルは立ち上がり、ノアに向けて親愛の笑みを浮かべた。だがノアは軽く頷くだけで、無表情に空いていた席に座った。通り過ぎるその横顔は青白く、どこか体調が悪そうに見えた。
「もうすぐ収穫祭なので、準備を始めなければいけません。今回も代表者はジリアンさんにやっていただきます。サポートはエルマさんに」
そう言って校長は、ジルを廊下へと呼んだ。振り返るイルメダ校長は笑顔だった。
「ジル。あなたが希望していた進路の件ですが、知人の研究室で下働きとして受け入れてもいいと返事をいただきましたよ」
どきりと心臓が鳴った。気持ちが盛り上がり、思わず感嘆の声が出る。
「あなたならきっと立派に勤めるでしょう。楽しみにしてますよ」
立ち去る校長の背中を眺め、ジルは飛び上がりたい気持ちを何とか押さえつけた。孤児の進路は限られている。多くは奉公に出され、運が悪ければ過酷な労働が待っている。だが、図書室の薬学書をすべて頭に叩き込んできた努力が、ようやく実を結んだのだ。
浮き足立ちながら教室に戻ると、案の定、新しい転校生が好奇心の強い生徒たちに囲まれていた。
「みんな、彼女は転校してきたばかりで疲れてるんだから。質問攻めはまた今度ね」
笑顔で注意するジルの言葉に、全員が素直に従い散っていく。成績優秀で面倒見の良いジルは、周囲からも厚い信頼を寄せられていた。
「ノア。私はジリアン・ノウルズ。ジルって呼んでね」
「……よろしく」
挨拶をすると、ノアは小さく頷き、「よろしく」と短く返した。
「疲れたでしょ。顔色がよくないようだから、寮まで案内するね」
立ち上がったノアが、ふと辛そうに顔を歪めた。思わず、ジルの手が伸びる。
はっ、と息を呑む微かな声が聞こえた。
「うわっ、冷たいっ」
氷のような冷たさに、ジルは両手で挟むようにノアの頬を包み込んだ。もうすぐ夏を迎えるというのに、彼女は一人だけ冬の底で凍えているように見えた。頬をさすってやると、ジルの熱が移ったのか、少しだけ赤みが戻った ように見えた。
「顔色が悪いし、寮に戻ったら急いでベッドに入った方がいいね。暖かい紅茶も淹れてあげるから。手もすごく冷たいもの」
ノアの手を引いて教室を出る。ノアは大人しく、じっと繋がれた手を凝視していた。不快だったのだろうかと、ジルが手を緩めようとすると――逆に、ぎゅっと強く掴み返された。
小柄なジルに対し、ノアは高い身長に見合った長い足で、余裕を持ってついてきた。
部屋に入ると、中にはノアのものと思しき荷物はなかった。
「あなたの荷物は?」
「……そのうち届くと思う」
「じゃあ、今日は私のローブを貸してあげるわ。ネグリジェは小さすぎるから無理ね」
棚の中からローブを取り出してノアに差し出すと、ノアは受け取ったそれをじっと見つめた。
「着替え、手伝おうか?」
「いやっ! 大丈夫だ……から」
ノアは勢いよく首を振った。その勢いに少し安心し、ジルは紅茶を淹れに一度部屋を出た。寮のキッチンで湯を沸かし、丁寧に茶葉を用意する。濃くなりすぎないよう気をつけて淹れ、部屋に戻ると、すでにノアはベッドに入って目を閉じていた。
「寝ちゃった?」
「寝てない」
すっと手が伸びてきて、冷たい指がジルの頬に触れた。身を引いてしまうほどの冷たさだったが、ジルはじっとしていた。正確には、ノアの瞳に囚われていた。漆黒の瞳は、間近で見ると黒曜石のごとく煌めいていた。
「そんなにこの顔が好き?」
くすりと笑われ、ジルは逆上せて頬を真っ赤に染めた。
「いやっ……、うん。すごく綺麗な顔で、びっくりしちゃって。よく言われるでしょう?」
「……よく言われる」
ノアはそう認めて体を起こした。
「紅茶をくれるかな」
「そうだった! 残念だけど、ミルクも砂糖も出せないの。朝食の時だけって決まっていて……」
「このままで十分だよ。ありがとう、ジル」
微笑みながらカップを受け取り、ノアは一口飲むと、ぴたりと動きを止めた。
「ノア……? 口に合わなかった?」
「いや。美味しい……。なんというか、とても元気になるというか。身体の芯まで、力が戻ってくるような気がする」
そう言って、彼女は一気に紅茶を飲み干した。お代わりを欲しがるようなその仕草に、ジルは嬉しくなった。
少し顔色の戻ったノアが、ふと部屋を見渡して尋ねた。
「ここに来て長いの?」
「長いよ、三歳の時からだから」
「そんなに? そんな早くから親元を離されたのか……」
ジルは重くならないよう、さらりと笑って言った。
「私、孤児なの。だから親はいないんだ」
ノアは、特別に驚いたような顔をしたり、憐れみを向けたりはしなかった。ただ静かにジルの言葉を受け止めたその様子が、ジルは嬉しかった。
「孤児院じゃなくて、ここにいる理由は……?」
「私、ここに通う子たちと同じで、少しだけ魔法力があるみたいなの。だからこの学校に入れられたの。すごくラッキーなことよね。もちろん魔法は使えないけど、そのおかげで立派な教育を受けさせてもらえたんだもの」
ノアは頷いて、じっとジルの顔を眺めた。
そこには過去を嘆く悲壮さは微塵もなく、心から今の環境に満足している様子だった。
「そうか」
納得したように、ノアは微かな笑みを浮かべた。
ふと、ジルは不思議な違和感を覚えた。
ノアの言葉遣いだ。
美しい令嬢のような見た目とは裏腹に、その口調はどこか男性的というか、女性らしくない。ご両親の仕事の都合だと言っていたが、どのような教育を受ければ、この美貌で「そうか」といった無骨な喋り方になるのだろう。
けれど、そんな疑問も不思議と彼女の醸し出す冷涼な雰囲気に馴染んでいた。
「元気が出たならよかった。食事には行けそう?」
「できるなら今日はもう休みたいな。なんだか一気に眠気が……」
あくびを噛み殺しながら、怜悧な瞼がとろんとしている。
「わかった。先生には言っておくから、今日はゆっくり寝てね」
「ん……」
布団をかけてやると、ノアはジルの手をキュッと握り、そのまま寝入ってしまった。
こんなに何度も人と手を繋いだのは、いつぶりだろう。ノアの魅力ゆえか、こうして人肌を感じるのは心地よかった。しばらくジルはそのまま、ノアの寝顔を眺めた。
単に疲れているだけならいいけれど……。
心配な気持ちもあったが、ひとまずは夕食だ。ポンポンとノアの肩を叩き、ジルは小さく呟いた。
「おやすみ、ノア」
一章(〜20話)を書き上げましたために全体を見直し、改稿(加筆、修正)しています。
ご了承ください。
更新情報はXにて「@sharineko01」
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