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ある日、人間の男を拾ってしまった物語について


 むかしむかし。

 あることろに小さな泉がありました。森の奥にあるその泉は、ただの泉ではなく──人がうっかり物を落とせば、泉の精霊が現れて問いかけてくる泉だったのです。


「あなたが落としたのは、この金の斧ですか? それとも銀の斧ですか?」


 正直に答えた者は報われ、欲深き者はたちまち泉の罰を受ける。

 そんな不思議な泉は、長い間、人々に(おそ)(うやま)われていました。


 けれど、それはもう何十年も前のお話。

 人が訪れなくなった泉のふちで、精霊・アクアは今日も退屈そうに大きなあくびをしていたのでした。


      ⌘ ⌘

        ⌘ ⌘

 

「ふぁ〜……。今日も暇だあ」


 小鳥のさえずりが響き渡る、のどかな森の泉。

 私は大きなあくびをしながら泉のはしに腰かけ、暇をもてあそんでいた。


「もう何年も人間と会ってないなあ」

 

 この泉の守護者として正直者を試し、嘘つき者にはお灸をすえるっていうのが私の役目──だったのだが。

 人間がめったに来なくなったこの時代、落とし物なんて数十年に一度。おかげで最近は小鳥や鹿と遊んでばかり。


「はあ……。次に誰かが泉にやってくるのは、いつなんだろう」


 ため息をついて、気を紛らわせるように手のひらに蝶を乗せて遊んでいると──。

 突如、ゴウッと森を揺らすような突風が吹き抜け、木々がざわざわと不穏な音を立てた。


「きゃっ……! なに!?」


 空を見上げると、さっきまで青かった空がみるみる黒雲に覆われていく。切り裂くような稲光が走り、雷鳴が地響きを起こすように轟いた。


「嵐、かなあ。やだなあ……」


 吹き荒れる風に亜麻色の長い髪を乱されて、私は慌てて手櫛で整える。

 こんなひどい嵐なんて、今までなかった。

 この森はずっと穏やかで、泉のまわりも平和そのもの。むしろ平和すぎて、正直ちょっと退屈なくらいだったのに。


 ──まさか、泉にまで被害が出たりしないよね……?


 小さな不安が広がりかけた、そのときだった。

 泉から大きな衝撃音がしたと同時に水面が跳ね、激しく波打った。人間が何かを落としたときの現象によく似ていたが、それにしては音も水面の揺れも規模が大きすぎる。


 ──普通の落とし物……じゃなさそう!

 

 慌てて泉を確認すると──それは斧でも金貨でもなく、ずぶ濡れの青年だった。

 青年は意識がなく、泉に沈んでいく。


「お、溺れてる!? ちょっと、待って、えええ!?」


 慌てて手を伸ばすけど、もちろん届かない。

 仕方なく、私は水の力を解き放つ。


「……っ、浮きなさい!」


 透明な波が青年をすくい上げ、彼はごろりと岸辺へ転がった。その胸がかすかに上下しているのを見て、私はほっと息をもらす。


「……よ、よかった。死んでない」


 私は胸をなでおろしながら、彼が飲み込んでしまったであろう泉の水を魔力で吐き出させた。ごほごほと水を吐き思いきり咳き込んだ彼は、やがて力尽きたようにその場に横たわる。


「ふぅ……びっくりさせないでよね」


 私は彼の濡れた髪を顔から払って、青年をじっと見つめた。

 黒髪と、一瞬だけ見えた深い茶色の瞳。

 まだ若そうな顔つきは──二十代前半くらいだろうか。しなやかな体躯(たいく)には無駄のない筋肉がついていて、鎧の一部からしても、おそらく騎士か兵士に違いない。

 

 ──それにしても。久々の落とし物が、まさか“人間“なんてね。


 私は苦笑いをこぼす。

 これまで拾ってきたのは斧とか鍋とか釣り竿とか、よくある持ち物ばかり。人間が丸ごと泉に落ちてくるなんて、数百年やってきた私の仕事の中でも初めてだ。


 と、観察するように眺めていたそのとき。

 青年の長いまつげがふるりと震え、閉じられていた瞳がゆっくりと開かれた。


「……ここは?」

「森の泉です。あなた、たぶん嵐に巻き込まれてここに落ちてきたんだと思います」


 彼は上半身を起こそうとして、すぐに顔をしかめた。濡れた衣服が重たくまとわりつき、体力を奪っているのだろう。


「無理しないで。さっきまで溺れかけてたんだから」

 

 私は手を伸ばして彼の肩を支えた。触れた瞬間、ひやりとした水の冷たさが伝わってくる。

 彼は少し驚いたようにこちらを見つめ、息を整えてから小さく呟いた。


「助けてくれたのは……あなたですか?」


 その言葉に、私はうなずく。泉の守護者として、久々に人間に手を差し伸べた瞬間だった。


「ありがとう……ございます」


 かすれた声で告げた青年は、再びまぶたを閉じた。

 その表情は、先ほどよりもわずかに穏やかに見える。助かったことに安堵したのだろう。


 私はひとつ息をつき、手を振って彼の衣服にまとわりついた水分を飛ばした。

 冷えた身体をそのままにしておくわけにはいかない。


「えっと……たしか、この辺に空き家があったはず」


 思い出したのは、数年前まで使われていた小屋のことだった。持ち主が亡くなって以来、誰も住んでいないはず。

 私は魔力を込め、ふわりと青年の身体を宙に浮かせる。

 彼は抵抗することもなく、静かな揺れに身をゆだねていた。


 しばらく歩いてたどり着いた小屋は、案の定、蜘蛛の巣と埃に覆われていた。けれど、骨組みはしっかりしている。


「……まあ、何とかなるか」


 私は指先を動かした。水流が生まれ、壁や床にこびりついた汚れを洗い流す。次に熱を帯びた風を呼び込み、濡れた木材や布を一気に蒸発させた。

 ほんの数分で、人が眠れる程度には整った空間に変わる。


「このくらいでいいかな」


 私は青年をそっとベッドに横たえた。粗末な寝台だが、今の彼には十分だろう。

 安らかな寝息を立てる姿を見下ろし、ひと息つく。


「さて、と」


 ぐっすり眠りこんでいた青年のために何かを作ろうと、私は棚を物色した。

 乾いた豆、少し硬い麦、干した野菜──思ったより残っている。外に出れば香草やキノコも手に入るし、泉の水は私の魔力で何より澄んでいる。


「ふふっ、立派なごちそうになりそう」


 大きめの鍋に水を張り、火を起こして豆と麦を入れる。ぐつぐつと煮立ち始めると、香辛料と香草、野菜を加えた。

 やがて、やわらかな香りが小屋いっぱいに広がっていく。森の恵みが溶け込んだ、ほっとする匂い。

 私は木のスプーンで味をみて、頬をゆるめた。

 

 ──うん、悪くないかも。


 ちょっと気合いが入ったかもしれない。事故とはいえ、久々に人と触れ合えていることが楽しかったのかも。

 

 そのとき、ベッドの上から小さな呻き声がした。

 目を向けると、青年が眉をひそめながら上半身を起こし、ゆっくりと瞼を開く。かすかに揺れる茶色の瞳が、鍋をのぞきこむ私をとらえた。


「……いい匂いがする」


 乾いた声で、けれどどこか安堵をにじませて青年はつぶやいた。


「起きたのね」


 私は鍋をかき混ぜながら笑いかける。

 

「すぐできるから。お腹……空いてるでしょ?」

「はい……」


 私は器を取り、熱々のスープを注いだ。


「どうぞ」

「いただきます」

 

 青年は両手で器を受け取り、慎重に口をつけた。


「……あたたかくて、美味しい」

 

 目を細め、ほっとしたように小さな笑みを浮かべる。

 そして一口、また一口と、静かにスープを飲み干していった。


 ⌘


「改めて、助けてくれてありがとうございました」

 

 食事を終え、頬にうっすらと血色が戻った彼が頭を下げた。


「いえいえ、当然のことをしたまでですから。ほんとうに、助かってよかったです」

「俺はミシェルといいます。あなたは?」

「私は……」

 

 泉の精霊、と言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。

 ここで正体を明かすのは危険だ。人間は精霊を畏れると聞くし、信じてもらえるかどうかも怪しい。

 なにより、せっかく久しぶりに現れた人間に怖がられて逃げられるのは──いやだった。

 私は少しだけ胸を張って、笑顔をつくる。

 

「私はアクア。この家の家主なの」


 嘘をついたことに、ほんの少しの罪悪感が胸をよぎる。

 でも今はこの空気を壊したくなかった。


「アクアさん……ありがとうございます」

「もうお礼はいいですって。それと、呼び捨てでかまいませんよ。私もミシェルって呼ばせていただきますから」


 そう言うと、ミシェルは少し照れくさそうに微笑んだ。

 

「ありがとう、アクア。素敵な人に拾われて、俺はついてるな」


 その言葉と笑顔に、胸がとくんと小さく音を鳴らした。

 泉の精霊が人間にこんなふうに喜ばれるなんて。

 

 正直者に物を返すときとは違った温度感。

 これまで多くの人間は、不注意で落とすか、金目当てで嘘をつくかのどちらかで(大半は後者だったけれど)、素直に喜んでくれることは稀だった。

 でも今──言ってしまえば、私が拾ったのは彼の命。

 そんな彼の素直な感謝の気持ちは、とても新鮮で、広く心に()み渡った。

 

 ⌘


 それから、彼の身の上話などを聞いて過ごした。

 歳は二十四。やはり騎士だったらしく、どうやら戦場に(おもむ)いていた最中、崖から落ちて谷に流されてしまったらしい。

 そして、気がついたらこの泉にいた、と──。


「しばらく、ここに住まわせてもらえないだろうか。俺に出来ることなら、なんでもする」

 

 ミシェルの申し出には、真っ直ぐな誠意が込められていた。


「でも、帰らないと家族が心配したり……」


 そう言うと、ミシェルは小さく首を振った。


「俺は……孤児だったから。正直言えば、戦もしたくない。アクアが迷惑じゃなければ……」

 

 彼の声には度重なる戦場での疲労と、ひとりぼっちの寂しさがにじんでいるようだった。


 ──そんなの、断れるわけないよね……。


「迷惑じゃありませんよ。まだ体力も回復していないでしょうし、身体が完治するまででも」

「ありがとう、恩に着るよ」


 こうして、私たちは少し不思議で、少しだけ特別な共同生活を始めたのだった。


 ⌘


 それからの日々は、静かで、穏やかで、ほんの少し甘い時間だった。

 泉のほとりで笑い合い、散歩をして、動物と遊んで。それから一緒にご飯を作って、一緒の部屋で寝る。

 彼の笑顔に触れるたび、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。

 それは初めての感情で──たぶん、私はミシェルに恋をしていたんだと思う。


 

 とある日、遅めのお昼をゆっくり食べ終えた家の中。

 陽射しが柔らかく差し込み、窓からは鳥のさえずりが聞こえる。ミシェルと私は料理の後片付けをしながら、なんとなく笑い合って、手を触れ合わせていた。

 すると、ふと、彼が真剣な表情で私を見つめた。

 

「アクア……俺、ずっと思ってたんだ。アクアのこと、好きだって」


 突然の告白に心臓が大きく跳ねて、次第に目頭が熱くなっていく。顔を上げた先のミシェルの眼差しは、差し込む陽射しを受けてキラキラと輝いていた。


「私も……」


 ゆっくりと距離と視線を縮め合う。

 彼の体温、かすかな吐息を近くで感じる。

 そっと目を伏せて、唇が触れそうになった、その瞬間。


 泉からの揺れを察知した。

 

 それは、数十年ぶりの出来事──誰かが泉の中に物を落としたものに違いなかった。


 ──どうしてこのタイミングで……!


 そう思った瞬間、はたと現実に引き戻された。

 私は泉の精霊。

 ミシェルと同じ人間じゃない。

 

 いつか言わなければいけないと思っていた。

 だけど。

 怒られるのが怖くて、嫌われるのがいやで、隣からいなくなってしまうのが寂しくて。

 だから私はそれを隠し、嘘をつきながら日々を過ごしてきた。


 嘘つきに灸をすえてきた私が、嘘をつき続けるなんて──精霊失格だ。


「……っ、ごめんなさい!」


 ミシェルの身体を突き放し、小屋の扉へと向かう。


「アクア……!」

 

 彼の声には振り返らず、私は涙まじりに逃げるように泉へと走った。


 ⌘

 

 泉には、ひとりの男。中を覗き込んでは、声を上げている。


「ああ、俺の金の斧が落ちちまったなあ。誰か拾ってくれねぇかなあ」


 本音からくるものではない、わざとらしい発声。見るからに悪そうな顔つきで、体つきもがっしりしている。

 

 男が落としたと主張する“金の斧”。

 そんなものは、この泉には落ちていない。そして、斧ですらない。

 ただの太い木の枝だということは、私にはすぐにわかった。


 ──なんて不届き者……!


 怒りが込み上げたと同時に、自分の胸にずきっと痛みが走った。


 ──私だって、ミシェルに嘘をついていたのに。


 たけど。

 今は泉の精霊として、裁かなければいけないとき。私はぐっと拳を握って、背後から男に近づいた。

 

「あなた、ほんとうに金の斧を落としましたか?」


 静かに問いかけると、男は勢いよくこちらに振り返った。そして、すぐに揉み手をしながら下卑(げび)た笑みを浮かべ、嘘を語り出す。


「ええ、ええ。落としましたとも。そりゃもう立派な金の斧ですよ」


 男の自信満々な言葉と、わざとらしい身振りに、水面がざわつき始める。

 

「……嘘つきですね」


 その声と同時に、私は腕を勢いよく振り上げた。

 泉の水面から力強く水が湧き立ち、渦を巻きながら空中に柱を形成する。その柱は次第に形を変え、しなやかで巨大な龍の姿へと変貌していった。


「……んだよ、これ……! こんなの……!」


 男の声は水の音にかき消されていく。


「あなたは嘘をつきました。しかも、二つ。これは、泉の裁きです」


 水の龍は渦巻きながら男を飲み込んだ。男は必死にもがくが、龍の力の前に身動きが取れるはずもない。

 やがて渦が静まると同時に、男の姿も龍とともにふっと消えた。


「……はぁ」


 泉の水面は元の穏やかな表情に戻る。

 だが私の胸は正義を成した満足感と、ミシェルへの罪悪感でざわついていた。


「……アクア」


 背後から怯えと戸惑いの混じった声が届いた。

 振り向けば、ミシェルが目を大きく見開いて私を見つめている。


「……ごめんなさい!」


 声が震えた。

 けれど、隠し通すことなんてもうできなかった。

 

「私、人間じゃないんです。泉の精霊なんです。黙っていて、嘘をついていて、ほんとうにごめんなさい……!」


 言葉のあと、私は泉へと飛び込んだ。

 人間ならばそのまま沈んでしまう泉の上。けれど私は──その水面に立つことができる。

 

「……アクア、ほんとうに?」

「ええ。だから、もうミシェルとは一緒にいられない。……どうか、私のことは嫌いになってください。ぜんぶ忘れて、幸せに……」


 涙ぐみながら言う私の前で、ミシェルは泉へと足を踏み入れた。

 普通の人間である彼の身体は、すぐに水に沈みこむ。腰まで水に浸かりながら、それでも彼は手を伸ばし、私の腕を掴んだ。


「嫌いになるはずがない!」


 まっすぐで揺るぎのない声が胸に響く。

 

「忘れられるはずがない! 精霊だって、人じゃなくたって、俺は……アクアが好きだ!」

「ミシェル……」

「今度は俺がアクアを拾う。いや……幸せにしてみせる。だから、俺と結婚しよう」

「……はい」


 涙が頬を伝う。胸の奥から、愛おしさがあふれて止まらない。

 私が精霊であることも、嘘をついていたことも、ミシェルは受け止めてくれた。こんな幸せを、私はずっと待っていたのかもしれない。

 泉の精霊としてではなく、ひとりの女として、誰かに愛されることを。

 

 彼は私の左手を取り、薬指に口づけを落とした。

 嬉しくて、また涙があふれ出す。


 ──この瞬間を、ずっと忘れたくない。


 すると私の身体は意思に反して、ゆっくりと泉の奥へと引き込まれていった。


「えっ……!? なに!?」


 驚いている間にも冷たい水に全身を包み込まれ、息をすることさえできなくなる。

 強制的にミシェルの手が離された。


「……ミシェル!」

 

 息のできない苦しさよりも、胸を締めつけるもの。

 それは、ミシェルと引き離されることへの恐怖だった。

 

「アクア!!」

 

 水の中から伸ばされたミシェルの手が必死に私を追いかける。

 だけどその叫びは──どんどん遠ざかっていった。


 ………………

 …………

 …

 

 水底へと沈んでいく意識の中、ひと筋の光が差し込んだことに気づく。

 そして耳元に澄みきった声が響いた。


『精霊よ』


 ──だれ……?


『おまえは真実を告げ、人との愛を選んだ。その勇気と覚悟に報いよう』


 ──え……?


『人として────……』


 そこで私の意識は途切れた。


 ⌘


「……ア! ……クア! アクア!」


 懸命に私の名を呼ぶ声が聞こえる。

 うっすらと瞼を開けていくと、そこには必死な顔のミシェルがあった。


「……ミシェル」

「アクア! よかった!」

 

 彼は横たわっている私の身体を、ぎゅっときつく抱きしめた。激しいけど、あたたかい鼓動が全身に伝わってくる。


「心配かけてごめんなさい……」

「無事でよかった……!」

「うん……」


 私も彼の身体を抱きしめ返した。


「ミシェル、私を受け入れてくれて……ありがとう」


 涙まじりにそう告げると、彼は少し力を緩めて私を見下ろした。

 

「受け入れるもなにも……俺は最初から、アクアのことが好きだったから」


 まっすぐな瞳に見つめられ、胸が熱くなる。怖かった気持ちも、不安も、すべて溶けていくようだった。

 彼の肩に顔を預けながら、ふと気づく。

 

「ふふっ。私たち、ずぶ濡れですね。今、水分を飛ばしますから……」


 手をかざそうとした瞬間、違和感が走った。

 

 ──力が、出ない。


 泉の精霊として当たり前だった水の加護が、どこにも感じられない。


「……あれ?」


 焦って何度も試すが、泉の水は静かなままで私の命令には応えなかった。

 私はふと、あの澄んだ声を思い出す。

 

『人として──生きろ』


 たしかに、そう聞こえた。


「アクア……?」

「……ミシェル。私、もう水を操れないの」

「それって……」

「精霊じゃなくなったの……! 神様が、私を人にしてやるって……! 私、人間になったの!」


 驚きよりも、喜びが全身を駆け巡る。

 こんな感覚、精霊として過ごしていたときには味わえなかった。本当に純粋な喜びだった。


「ミシェル……! ありがとう、私、ほんとうにミシェルに会えてよかった!」


 思いきり抱きつくと、勢いのあまり私たちは草の上に倒れ込んだ。

 草の柔らかさと、少し湿った衣服のひんやり感が現実味を帯びていく。

 

「……ふっ。あははは」


 どちらからともなく笑い声が起きた。

 

 ひと笑いしたあと、お互いの顔を見つめながら息を整える。


「アクア。これからは、同じ人間として、一緒に生きていこう」

「はい」


 そして私たちは──そっと唇を重ねた。


 水に濡れた髪と衣服が、互いの体にぴたりと張り付く。それでも全身で感じるぬくもりが何より愛おしく、確かな愛情だった。

 草の匂いと、ミシェルの温もり。

 そして、初めて感じる人としての自分の鼓動。

 

「アクア、ずっと大好きだよ」

「はい。私も、ずっと大好きです」


 泉の水面が穏やかに光を放っている。

 それは精霊としてここを守護していた証と、これからの未来を生きる私たちを祝福するように、やわらかく輝いていた。


       ⌘ ⌘

        ⌘ ⌘

 

 むかしむかし。

 あることろに小さな泉がありました。

 森の奥にあるその泉は、ただの泉ではなく──人がうっかり物を落とせば、泉の精霊が現れて問いかけてくる泉だったのです。


 けれど、それはもう何百年も前のお話。

 愛を誓った泉の精霊は、神様の力によって人間となり、生涯を通して仲睦まじく暮らしました。


 その泉にうっかり物を落としても、もはや精霊は現れはしません。

 けれど、二人のあたたかな愛の物語は、今も泉のさざめきにひそやかに残っているのでした。


読みいただきありがとうございました!

シンデレラ、白雪姫、人魚姫etc、様々な童話をモチーフにしたお話がありますが、ここに焦点を当てたのはたぶん初めてだろう…!と思いたいです

おもしろかったなど、お気持ちを一つでも★に変えてくだるととても励みになりますのでよろしくお願いします

(っ´∀`)╮ =͟͟͞͞ ★★★★★


また何かの作品でお会いできたら幸いです

ありがとうございました

 

葉南子

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