英雄
「アレスって、夢はある?」
「夢……?」
姉さんから、唐突に夢を聞かれた。
「うーん……僕の夢は、強くなることかな」
それは、幼い頃からの夢だ。ふわふわしていて判然としない夢だけれど。
「僕は、【勇者】みたいに強くなりたいよ」
数百年前、ヨーロッパ世界は悪魔の王【魔王】に支配されようとした。勇者と12人の弟子たちは世界を冒険して、見事、魔王を打倒した。
僕が「強くなりたい」という夢を抱いたのも、この『勇者』の物語を読んだことがきっかけだ。
勇者のように心身ともに強く、逞しくなりたいと、今でも思っている。
「そっか、強くなりたいか~。アレスらしい夢だね。じゃあさ、強くなって、わたしのことを護ってよ!」
「……自信ないかも」
「きっとできるよ、アレスなら♪」
そう言って、姉さんは微笑んだ。
姉さんの「きっとできるよ」という言葉は、僕を自然と勇気づけてくれる言葉だ。
そんな姉さんの言葉に背中を押されて、魔法剣を使いこなし、悪魔の首を斬って、街の人々を守った。
――姉さん、僕は、少しでも【勇者】に近づけたかな……?
♢
ひんやりとした石の硬い感触が背中に伝わる。
深い眠りから目覚めた僕は、白い月と、豊かな二つの丘を見上げた。
丘……いや、これはマーレの胸だ。
「ん、あれ……?」
仰向けになる僕に「おはよ、アレス!」というマーレの陽気な声が浴びせられた。
彼女の長いまつ毛がパチパチと動いて、濁りのない海のような瞳に見下ろされている。
僕は「お、おはよ」と、ちょっと困惑気味に言った。
どうやら僕は、マーレに膝枕されていたらしい。僕が頭を動かすと、マーレが「くすぐったいよぉ」と身をよじった。
「目覚めの魔法がやっと効いたみたい!よかった~」
「僕は……あれ、悪魔は……?」
「アレスは魔法剣で悪魔の首を斬ってから、気絶しちゃってたのよ」
気を失う直前の記憶を手繰る。
確かに僕は、魔法剣で悪魔の首を斬り裂き、そのまま地面を転がって気を失った。
悪魔と力をぶつけ合って、地面を転がったが、痛みも傷もなかった。
「マーレ、これって……?」
僕の全身が、若葉色のほのかな光に包まれていた。
「第二階位治癒魔法よ。どう、痛みはなくなった?」
「うん、痛みはないよ。ありがとう、マーレ」
僕はマーレの膝の上からゆっくりと頭を起こし、立ち上がった。
マーレは僕に感謝されて「うへへへへ」と笑い、頬を紅潮させ、口の端からよだれを垂らしていた。
……魔法に関しては天才だが、やはり酔っ払いのショタコンなのは変わらないな、この人。
「ほら、あそこ。アレスが倒した悪魔が倒れてる」
マーレが指さす方向、ボロボロになったメイド服姿のエーリカと、地面に倒れた人狼の悪魔の黒い巨体があった。
悪魔は、僕の魔法剣によって首を切断され、真っ赤な鮮血の絨毯を広げている。
エーリカは、激しい戦闘を通して首が曲がり、腕が折れて、悪魔の拳を食らって民家の壁に衝突しながら遠方へ投げ出されたにも関わらず、平然としている。
「嫉妬の悪魔【ミヒャエル】について教えなさい」
エーリカは低い声で、地面に転がった悪魔の頭に尋ねた。
「……」
悪魔は無言だ。
すると、悪魔の赤い眼球に立体的な人面が浮かび上がってきた。
その人面は、低い声で予言じみた言葉を残した。
「オレを殺したこと、弟が黙ってないぞ……」
「は?弟?」
「怠惰の悪魔【クヴァル】。彼は、お前らを恐怖と絶望の底へと誘うだろう……」
人狼の悪魔は、体が朽ち果て灰となり、崩れ去った。
「悪魔は、死体すら残らずに灰となる運命……」
灰の山と化した悪魔を見下ろして、エーリカはボソリと呟いた。
どうやら悪魔は、強大な力を得る代償として、死体すら残らず儚く死ぬ運命らしい。
静けさとともに、避難していた街の人々が戻ってきた。
その夜、ノア・ナイトメアの名は、町中に轟いた。
「キャー、魔法使い様!可愛い!!握手してー!!」
「勇気ある少年よ!よくぞハノーファーの街を護ってくれた!」
「「ノア・ナイトメア万歳!!」」
悪魔を討伐して街の平穏を守った僕とマーレ、エーリカは、ハノーファーの市民から、空が割れんばかりの歓声を受けた。
マーレは人々の歓喜の声を一身に浴びて「うへへへへへ……褒められるの気持ちいなぁ~」と、鼻の下をだらしなく伸ばしていた。
「うるさい……騒々しい」
一方、こういった歓声を嫌うエーリカは、慌ててローブを被り直して体と顔を隠す。
その黒いローブはホコリと砂を被り、ところどころ破けて穴が開いていて、悪魔との激しい戦闘を物語っていた。
「僕、悪魔を倒したんだ……」
人々の歓声を受けて、自らの手で勝利を掴んだのだという実感と喜びが湧いてきた。僕はついに、初めての悪魔狩りを果たした。
――強くなれたよ、姉さん。僕の背中を押してくれてありがとう、姉さん。
腰の《さや》に剣をおさめ、雲間から覗いた白い満月を見上げた。




