29 ザハグランロッテの目覚め…③
結局、ロスには何も手を出されなかった。
ザハグランロッテの目が覚めたとき、ロスは彼女の横で固まっていたのだ。
バカね……。
良かったような、残念なような。
ザハグランロッテは自分の気持ちがよく分からなかった。
とりあえずロスを不自由から開放してやろうと思い、彼女は起き上がろうと体をよじった。
すると、すかさずロスの補助が入ってきた。
私の些細な行動にさえ、この男は自然に手助けに入るわね……。
ザハグランロッテが体を起こしやすいよう、ロスは下から優しく持ち上げたのだ。
私は何もかも借りてばかりね……。
ザハグランロッテがロスへの対価として差し出せるものはほとんど無い。
今回は匂いを差し出し、不快なのを我慢して、ロスの性癖に付き合ったのだ。
この不快を放置する意味も無い…。
対価は十分でしょう……。
「自分で拭くからお前はサッサと部屋から出てなさい。終わったら直ぐに呼ぶからドアの前にいなさい」
「あ、あぁ…ごめん。そのコップ、ついでに片付けておくね」
そう言って、ロスはザハグランロッテの持っているコップを受け取りに近付き、しれっと鼻から息を深く吸い込んでいた。
「名残惜しそうな顔を止めなさい」
「い、いや、そんな……」
気づいてるわよ……。
もはや小言をいう気にもなれない…。
普段からの世話に加え、今回の風邪に対する献身的な看病。
ザハグランロッテはロスに感謝している。
そう…私は感謝している……。
それについて、本当に感謝はしている…。
さっきあれほど長時間、近くにいる事を許したのにまだ足りないの……?
ロスの残念な行動は、ザハグランロッテの感謝が表に出るのを阻害していた。
感謝くらい言わせなさいよ…。
そう思うザハグランロッテの視線の先。
ドアの前でロスは少し立ち止まり、それから名残惜しそうに出ていった。
立ち止った時、最後だと思って深呼吸でもしていたのだろう。
あいつ…とんでもない馬鹿ね…。
結局…手は出されなかったけど…。
それが良い事なのか悪い事なのか…ザハグランロッテには判断ができなかった。
願わくば、これでロスが自分から離れなくなれば良いと思うだけだ。
軽く体の汗を拭き取り、それからザハグランロッテはロスと二人でお風呂屋に向かった。
着くまでの間、いつも以上にあれこれと世話を焼いてくるロスだったが、その顔はとても嬉しそうに見えた。
何がそんなに嬉しいのか、ザハグランロッテには分からなかった。
「はぁ…ようやくさっぱりしたわ」
体を丁寧に洗い流し、湯船に浸かったザハグランロッテは、久し振りの感覚にいつも以上の心地良さを感じていた。
汗が纏わり付く不快感が綺麗に無くなり、体中がさっぱりしている。
最高の気分だった。
「待たせたわね」
自然と上機嫌になっているザハグランロッテは、いつもより弾んだ声をロスにかけた。
ロスの方は、ザハグランロッテとは対照的に露骨に残念そうな顔になっていた。
匂いフェチの様子に、ザハグランロッテは心底呆れてしまった。
本当に馬鹿なんじゃないの……?
「それで?これからどうするの?」
体を綺麗にするという目的を果たしたザハグランロッテに、次の目的は無い。
だから、ロスにこの後何か予定があるのか気になった。
ロスは特に考える素振りもなく、ザハグランロッテの質問に答えなかった。
答えないまま、ロスはザハグランロッテに質問を返した。
「体調はどう?」
「そうね。起きた時よりも良いみたい」
時間が経つほど軽くなっていく体に、ザハグランロッテは健康の有り難さをしみじみと感じていた。
「後は咳に移行しなければ…でも…今回は大丈夫だと思う…」
風邪で厄介なのが最後に残った場合の咳だ。
咳は睡眠を阻害し長期に渡って体力を奪い続けるからだ。
「そっか…なら良かった!まだしんどいのに風呂に入りたかったのかと思って心配だったんだ」
本心の半分は、どうせお風呂に入られたくなかったって事でしょう……はぁ…。
「良くなったのなら何か食べないとね。食べられそうかな?ザハグランロッテちゃんが良くなったら、病み上がりでも美味しく食べられるお店を調べておいたんだ」
ロスは「さあ行こう!」と言ってザハグランロッテに手を差し出した。
寝込んでいた時に何度も見た……。
私に差し出される手…。
元気な時なら見慣れた光景だと思えるのね……。
だが、差し出されたその手を取るかどうか…ザハグランロッテは今も戸惑いながら手を伸ばしている。
そうしていると、ロスに手を掴まれる。
その手に、ザハグランロッテはいつもホッとするのだった。
手を引かれ、連れて行かれたのは粗末な造りの建物で、初老の夫婦が二人で切り盛りしているようだった。
粗末で質素な造りだが、中は清潔にされているのが分かる。
ロスによると出てくる物は、どれも薄味で若い人には物足りないらしいが、年を取って脂物が苦手になった者にはかなり評判が良いらしい。
「今のザハグランロッテちゃんは、このくらいの味付けとか、具材がトロトロになるまで煮込まれたスープなんかが良いと思うんだ」
いつもと違う雰囲気の店に連れて来られたなと思ったが、いつものように自分の事を考えての事らしく、それがとても嬉しかった。
「美味しい…」
「本当…!良かったぁ」
確かに食べやすく、これなら消化にも良さそうだと思った。
「お前は…私から離れないの?」
…これまでに私が何度も投げかけた質問だ。
その度にきちんと答えは返ってきている。
それでも、どうしてもザハグランロッテは確認したくなる。
「……何度でも言うけど、俺は最後までザハグランロッテちゃんと一緒にいるよ。…どうしたの?そんなに信用できない?それとも、不安?」
いつもと同じ答えが返ってきた。
私は答えよりも返答に引っ掛かりがない事を確認して安心する。
まだ、心変わりはしていないようでホッとした。
「この店、料理も美味しいし、今のザハグランロッテちゃんにピッタリでしょ。といっても、教えてくれたのはカルルさんなんだけどね」
『ピキッ…』
ロスの口から余所の女の名前が出た瞬間、ザハグランロッテは自身が不快になるのが分かった。
「チッ…あの小娘ね」
「し、舌打ち…?ていうか小娘って…。前から思ってたけど、カルルさんザハグランロッテちゃんより年上だよね…?あ、いや…なんか、いや…ごめんなさい」
ザハグランロッテの急な変化に、ロスはかなりたじろいでいた。
「お前、どうせまた昼過ぎてからそんな話をしていたんでしょう」
「え…?えっ…え??そ、そうだけど、なんで!?」
ロスと同じ店で働いているカルルは陽気で、働き方も元気が良い。
だから汗もよくかいているのをザハグランロッテは知っている。
あの小娘は、昼を過ぎるとほのかに甘い香りを振り撒きだす……。
ザハグランロッテはそれが気に入らなかった。
意識してか無意識かは分からないが、ロスがそれに誘われるからだ。
ムカつくわね……。
ザハグランロッテは見なくてもロスの動きが手に取るように想像できた。
昼を過ぎるとこの男は、花の蜜に誘われる蜂のように小娘の周りをうろちょろし始め、少しずつ近づき始めるのだ。
自分の匂いを嗅がれるのは嫌だが、だからといって余所の女の匂いに惹かれていくロスを見ると、ザハグランロッテはイライラが収まらなくなる。
「ふん!あまり私の洞察力を舐めないことね!」
気に入らない…!
他の女の話なんか聞きたくない…!
へそを曲げたザハグランロッテは席を立ち、スタスタと出入り口に向かって歩き出した。
「ああ!ちょ…ちょっと待って…!?あ!お会計お願いします!」
ロスは慌てて支払いを済ませてザハグランロッテの後を追う。
外は今、地のマフィアに狙われる危険があり、そんな場所を無防備に歩かすわけにはいかなかった。
そんなロスの気持ちを知らないザハグランロッテはスタスタと前を歩いて行く。
ザハグランロッテだって本気で怒っているわけでは無い…ただ、気に入らないものは、気に入らないのだ。
ロスが付いて来ているのを感じながら、ザハグランロッテは建物の角を曲がろうとして……そして足を止めた。
「ちょっと待ってよ!ザハグランロッテちゃん!……ザハグランロッテちゃん…?どうかした……?」
あれは……。
ザハグランロッテも良く見知った間抜け面が先に見えている。
何やら慌てているように見える。
またトラブルかしら……?
「見つかったか!?」
「いや、やっぱりこの辺にはいないみたいです!」
「くそ…おい!もう一度探すぞ!……じいさん。心配すんな、きっと大丈夫だよ!」
あの間抜け面は間違い無くホセだ。
何やらザハグランロッテが知らない…見た事がない奴と、会話のやり取りしていた。
何となくホセに見つかりたく無いとザハグランロッテは思った。
ロスも角からホセの様子を窺っている。
さて…どうするのかしら……。
覗き混んでいたロスを観察すると、ホセを見ながらうんざりした表情で溜息をついている。
自分の内心と似たような反応をしているロスを見て、ザハグランロッテはちょっと面白いと思った。
「はぁーぁ…ザハグランロッテちゃん。何か面倒そうだし、回り道して帰ろ?」
そう言って、ロスはザハグランロッテに手を差し出した。
手……。
差し出された手が、ザハグランロッテには所在無さげに見えた。
何も考えずに手を出したのね……。
でも、今はそんな事より…。
「お前…」
首を突っ込むつもり…?
ザハグランロッテは小さくそう尋ねたが、ロスには聞こえなかったようだ。
拗ねていても仕方ないとザハグランロッテはロスの手を取った。
いまの所、ロスがホセ達の問題に首を突っ込む気は無さそうに見えた。
ザハグランロッテも、今はそれで良しとする事にした。
お前は私を見ていれば良いのよ……。
回り道をして宿屋の部屋に戻ると、ザハグランロッテは思っていたよりも疲れを感じた。
少し休んだほうが良さそうね…。
「私はこれから寝るわ」
ロスの返答を待たず、ザハグランロッテは自分の部屋に入った。
その後を付いて、ロスも一緒に部屋に入ってきた。
寝るまでここに……?
それとも起きるまでここに…?
どちらか分からなかったが、ザハグランロッテはベッドに横になった。
もしかしたらベッドに入ってくるのかしら……。
そんな考えが頭に浮かんだザハグランロッテは、即座に自分で否定した。
ロスが自分の許可なくそんな行動に出ないと分かっているからだ。
ふぅ…私も馬鹿ね……。
困った顔をしながら自分を心配そうに見てくるロスに、ザハグランロッテは胸が苦しくなった。
どうすれば正解なのか分からなかった。
今回も…ザハグランロッテは何も言えないし、何も行動できなかった。
元気になったと思ったのに……。
まだ全快じゃ無かったみたいね…。
急激な眠気に襲われ、ザハグランロッテは直ぐに眠りに落ちた。




