16 正義と欺瞞
5月中旬
ザハグランロッテと水の街を目指す旅は、快適とは程遠かった。
重要な選択と責任がロスに重くのしかかり、常にヒリヒリとした焦燥感に追い立てられた。
寄る辺を失った彼女を助けたいと思い…そして助けると決めた選択の結果である。
彼女を助けると決めたこと。
その事に後悔はない。
しかし、旅立ってからずっと、彼女を危険に巻き込んでいるという…別の後悔がロスの胸中に重く、重くのしかかる。
街を出てからというもの、何度も追い詰められ、何度も死にそうな目にあった。
いや、正確には彼女を死なせそうになった。
しかし、それらのリスクは、あの時…自分で抱えると決めたのだ。
だが自分には力が足りない…。
あの時…絶望的な状況に追いやられ、余裕の無い状況で自分を頼り、治安最悪の前線基地を探し回っていた彼女。
自分に先を見通す力がもっとあれば…。
暴漢に襲われ、あわやという場面で間一髪助ける事はできた…でも。
暗く、何も期待していないといった澄ました表情を見たとき、ロスの中で揺るぎない気持ちが芽生えたのだ。
その気持ちが芽生えたロスに、彼女を見捨てる、彼女を助けない、彼女を守らない。
そういう選択がロスの中から消え去った。
湧き上がったのは恐らく父性。
守りたい。
助けたい。
喜ばせたい。
笑わせたい。
幸せになってほしい。
そういった感情だった。
彼女が一人でも安心して暮らせる場所、それが近場には一つも無い。
それが腹立たしかった。
近場にないのなら移動するか無理やり作るしかない。
しかし無理やり作る力が自分には無い。
だから取れる選択は他の街への移動しか無かった。
足りない…。
彼女を守るための力が、環境が、何もかもが足りなかった。
彼女を連れてだと、過酷な道のりになると分かっていた水の街。
それでも行くと決めたのは、それ以外に彼女が安心して暮らすのが不可能だからだ。
考えが甘いのは自覚していた。
けれど想定していた苦難と、実際に降りかかる苦難は、つらさの度合いが想像とは大きく違い過ぎた…。
自分が判断を間違えれば彼女に重大な被害をもたらす。
その受け入れ難い事実は、ロスの精神を少しずつ追い詰めていく。
笑え…。
笑え…。
致死性の威力をもったオークの棍棒が、彼女の頭のすぐ上を掠めていったとき。
頭がまっ白になり、悲鳴すら上げられなかった。
助かった…。
笑え…。
笑え…。
自分の余裕は彼女の安心になる。
笑え…。
笑え…。
束の間の休息で自分の作った料理を、澄まし顔のつもりで美味しそうに食べる彼女を、愛おしく感じた。
彼女に降りかかる困難を恐れた。
笑え…。
笑え…。
彼女を不安にさせるな。
笑え…。
笑え…。
つまらない冗談や態度は、不安を誤魔化す精一杯の強がりだった。
笑え…。
笑え…。
街から離れた廃村で人の気配を感じた時、湧き上がったのは殺意だった。
彼女を害する可能性の排除。
ロスの心に余裕は無かった。
結局、集落から逃げたけれど、その理由は、その方が彼女に害がないと思ったからだ。
彼女が体調を崩したときも狼狽えた。
看病と食料の確保が同時に出来ない事に苛立ち…彼女の側を離れる事を恐ろしく感じた。
隠せ…。
悟られるな…。
彼女が快方に向かうと確信した時、自分はこんなに緊張していたのかと驚いた。
体中がガチガチに固まり、気が抜けると同時に意識が無くなった。
ある時、彼女が不安を吐露した。
なぜ何処にも行かないのかと…。
自分が何を言っても、彼女はそれを信じないだろうと思った。
もっと彼女のために…!
もっと尽くせ…!
旅の中で彼女の身体から余分なものが削ぎ落とされていく…それが嫌だった。
ゴブリンを見て恐怖する彼女を抱きしめて安心させたかった。
彼女の嫌なもの全部を排除したかった。
笑え…。
彼女の不安を取り除け…。
笑え…。
笑え…。
水の大精霊と遭遇した。
彼女を傷つけやがった…奴の事は大嫌いになった。
強大な力の差、全く意趣返し出来ないのが悔しかった。
トロールに追い掛けられた時は油断のせいで死ぬかと思った…彼女が。
喜ばせる事を優先し、状況を見誤った…割と絶望的な状況だった。
彼女を明るく鼓舞させるのだ。
笑え…。
笑え…。
絶望でも悟らせるな…。
笑え…。
誤魔化せ…。
こんなのは何でも無い…。
大したこと無いと思わせろ…。
笑え…。
笑え…
トロールが振りまく死の気配を、焦りながらも何とか逃げ切った。
狙い通り…ではないが、彼女は笑った。
報われた気がした。
けれど、それは薄氷の上で成り立った事…偶然だ。
笑え…。
そうだ、笑え…。
彼女を不安がらせるな…。
旅はまだ序盤だ。
なのに既に何回も死にかけている。
危機は突然訪れる。
このまま生きて水の街に着くのは不可能かもしれないと思った。
命が簡単に刈り取られてしまう。
何か…。
彼女を助ける何か…。
それが無ければ、こんな綱渡りの旅路は早晩破綻する。
一人、日々焦燥感を募らせる。
そして、またしても危機に瀕した。
ゴブリンの巣穴を避けた途端に狙われたのだ。
くそ…!
この状況で猿か…!
魔物と魔獣、どちらとも区別がつかない厄介なモンスターだ。
執着心が強く、好奇心は旺盛、遊び感覚で人間を狩る、性格が最悪のモンスターだ。
いまも自分達を追い立てながらキャッキャッと笑っているのだ。
くそ…!
不甲斐ない…!
不甲斐ない…!
笑え…!
何とかなると…俺が何とかすると思わせろ…!
笑え…!
彼女とはぐれない様に逃げるのは、一人で逃げるよりも遥かに難しい。
彼女に軽口を叩きながら逃げる…余裕は全く無かった。
気取られるな…。
絶望させるな…。
笑え…。
笑え…!
足がもつれてコケる彼女を庇い、自分もコケたときはナイフを抜き、死を覚悟した。
1匹でも多く…。
彼女を傷つける奴を殺す…。
決死の覚悟は空振りした。
猿は襲わなかった。
猿の気を引いたのはミカドと蛇だ。
命拾いしたのだ。
蛇に脅威を感じ、一度はミカドを置いて逃げようと考え、そして彼女の視線を感じて躊躇った。
見られている…。
見られている…!
いいのか…?
彼女の前で見捨てて…?
簡単に見捨てる奴といて、彼女は安心できるのか…?
どうする…?
どうしたらいい…?
自分の頭の中で様々な考えが一瞬のうちに巡ったが最適解を出してくれない。
俺は彼女の前で不誠実な態度を取ることから逃げた。
意味の無い人助けを選んだのだ。
くそ…。
何をやっているんだ…。
逃げればいいものを…。
そんな思いも彼女を前にすると表に出せなかった。
かっこ悪い所を見せたくなかった。
とはいえ、考え無しに決めたわけでは無い。
必ず成功させる…!
成功させろ…!
しかし、そのせいで彼女を本気で泣かせてしまったのは誤算だった。
正直泣いた彼女も可愛いと思った。
最低だけど、見たこと無い感情が見れて嬉しいとさえ思った。
それもこれも猿が大の苦手としている魚を手に入れたせいだ。
命の危険から逃れてテンションが変になっていた。
反省しろ…。
彼女を助けろ…。
そして今回も綱渡りで命を拾った。
そして、水の街まで2人が無事に辿り着くのは不可能だと確信した。
当初は本当に人助けするつもりだった。だけど、助けるフリだけで目的は達成できると気がついた。
蛇が少しでも敵意を見せたら「仕方ない」そう言って逃げるつもりだった。
それで彼女に言い訳できる…。
彼女を優先しろ…。
そんなロスの考えを無視するかのように、意外にも蛇は大人しかった。
猿を1匹殺す場面を見ていたので、攻撃性は持っているはずだ。
そしてミカドを拾った。
ミカドと、イビル種の蛇…。
使える…。
利用できる…。
そう思った。
だからミカドの仲間も助けるように促し、そして手伝った。
博打だけど…。
2人で水の街に辿り着くより…。
確率は高い…。
ミカドと、その仲間を手の平の上で転がした。
一番重要で、一番苦労したのはザハグランロッテに悪く思われないようにする事だった。
ミカド、ホセ、エニア、イビル種の蛇。
利用できれば水の街に彼女を、生きたまま連れて行ける可能性が跳ね上がる。
だから…。
利用しろ…。
都合よく自分の駒として動く人間が手に入るチャンスだと思った。
全員死なせずにヘイナスを倒す作戦を押し通したのも、人情ではなく打算だ。
感情を剥き出しに拒否する奴等の姿を見て、見捨てると決めた。
あれは嘘だ…。
見捨てる振りを見せたが、困るのは死を覚悟していた3人よりも、死にたくない、ザハグランロッテを死なせたくない自分の方だったのだ。
ミカド達の方が折れてくれて助かった。
それは、自分の思惑が上手くいった瞬間だった。
後はヘイナスを排除すればいい。
そうすれば、ロスは大きな…大きな博打に勝った事になる。
彼女を…ザハグランロッテを高確率で生きたまま安全な場所に連れて行ける。
ロスの知るヘイナス。
それは、宴会で無邪気にはしゃぐ…人懐っこくて人に似た知能を持つ、イビル種の魔物。
それが全てだった。
ミカド達の仇の相手…。
知能のある魔物。
恨みの無い相手。
子供。
良心がズキズキと痛み、良心に責められ、自分勝手を突きつけられ…楽しそうなヘイナスの姿がチラついて決心が鈍りそうになる。
殺したくない…。
本音が頭の中で浮かび上がり、ロスの胸を締め付ける。
だけど…今更だ…。
俺は元々最低だろ…自分の本音に耳を塞ぎ、ロスは利己的な目的を優先する。
俺は最低、俺は最低、俺は最低、俺は最低。
俺は最低なんだ…!
自分に言い聞かせ、顔を歪ませながら…ロスは何の恨みもないヘイナスの喉を裂いた。




