1 ザハグランロッテ
彼女のファーストネームはザハグランロッテ。
家名であるセカンドネームは今や世間で凋落の代名詞として揶揄されるスカーバラだ。
つまり彼女の名前はザハグランロッテ・スカーバラと言う。
スカーバラの家名はいま、没落の代名詞とされ、至る所で嘲笑されている。
聞こえる嘲笑に耳を澄ませば、かなりの確率でスカーバラ家の事だったと言えるくらい落ちぶれ、話題となっている。
なぜこれほど嘲笑されているのかというと、スカーバラ家が名家だというのが一番の理由だろう。
多くの人が羨み、そして妬む名家の没落劇。
それは格好のネタとなり、娯楽となっていた。
何も成し遂げていない生徒個人の名声など、学内で基本的に有りはしないのが普通だが、そこで最も序列の判断材料になるのが家柄である。
スカーバラの家名は序列で見れば最上位グループに入る名家である。
最上位クラスの名家が最も嘲笑される家名まで落ちているというのが、彼女の立ち位置をとても難しくしているのだ。
嘲笑が一般化してしまい、たとえそれが本心からスカーバラ家を立てたものだとしても、慇懃無礼にしか聞こえないし、見えないのである。
彼女の扱いが難しいのは、スカーバラ家だからというだけではない。
彼女本人も、自身の立ち位置をどこに置くか内心ではいつも困惑し、苦心していたのだ。
その立ち位置の難しさから、当時の彼女には親しい友人もいなかったし、寄り添い頼りになる教師もいなかった。
それは彼女に問題がある訳ではない。
ただ、運が悪かったのだ。
その様な環境の中で生活する彼女の心中など押して知るべしというものだ。
当の本人は自身の周りで起こっている没落の事象に関わる事もできず、抗う術もない。
ただ流れるまま、身を任せるしかなかった。
ややこしい事情を持つ…それも没落予定の彼女の周りに、わざわざ人は寄り付かない。
つまり、彼女は学生時代を常に1人で過ごして終えた。
彼女の境遇は、彼女に自身の感情が他者に漏れるのを許さない…弱さを見せれば付け込まれ、利用され、嘲笑される。
そういう類の縛りを持ち、そして無意識に彼女の自由を奪っていった。
そこに出来上がったもの…彼女は、誰にも頼らず、誰にも媚びず、誰にも心を許さず、誰にも感情を読ませない、そんな人間になっていた。
更に、彼女は横の繋がりも縦の繋がりからも距離を取るようになった。
そうする事で自身の立ち位置を他人に左右されず確保する術を身に付けたのだ。
そのようにして身に付けた護身術は、彼女の扱い難さを一層際立たせたが、一方で他者からの侮辱や嘲笑を目の前から遠ざけてくれた。
しかし、学内で他者との関わりを完全には防ぐことはできない。
その日、彼女は自身の不手際から同じ学府に通う女子生徒の服を汚してしまったのだ。
「きゃぁ!?」
昼食を取ろうと彼女が食事を席に運んでいた。
そのとき、床にあった何かに躓き、体勢を崩してしまった。
その拍子にトマトスープがピチャッと跳ねた。
お椀から跳ねたトマトスープは、運悪く前にいた女子生徒に飛び散ってしまったのだ。
飛び跳ねたトマトスープの大半は女子生徒の服にかかったが、数滴女子生徒の顔にも飛んだため、思ったよりも驚いてしまったようだった。
これは…困ったわね…。
そう思った彼女は先手を取って謝罪を口にした。
「ごめんなさい。怪我はないかしら?服は後日、新しい物を届けさせるから」
謝罪、相手への心配り、被害物への保障。
それらを簡潔、完璧、迅速に相手に伝えたが彼女の謝罪には彼女の持っていないものが足りていなかった。
気持ちを込めた演技である。
当然女子生徒は納得しなかった。
「何よその態度は!全く悪いと思っていないじゃない!!」
女子生徒の大声で食堂の関心が一気に集まる。
はぁ…面倒くさい相手に捕まったわね…。
感情的な女子生徒に対して彼女は物凄く面倒だと思った。
謝罪に問題は無いはずだ。
けれど、感情で物事を判断する相手に理屈は通用しない。
「私の態度が気に入らないのならそれも謝るわ。悪かったわね」
彼女は媚びない。
ただ淡々と追加の謝罪を繰り返すだけだ。
謝罪はする…謝罪はするが、目的は不利益を被らない為の謝罪だ。
誰にも媚びるつもりは無かった。
媚びれば付け込まれるからだ。
誰にも媚びない…それを実現する為に、彼女は他人と接する言動が対等よりも自身が少し高い位置からのものになる。
これは彼女が平穏に生活する為に譲る事が出来ないものなのだ。
しかし、こういう場面において、それは高飛車と取られるものだ。
謝罪が相手への侮辱として伝わってしまう。
不本意ではあるが、自身を守る為にはそれ以外の方法を取ることができない。
このまま相手の根負けを待つしかないわね…。
そう思いながら凛として立つ。
必要な事は既に済ましている。
ならばそれ以上は相手への媚びでしかない。
彼女はそう考えていた。
「ちょっと!貴方のせいで私の服が汚れたって言ってるのよ!?それが謝ってる態度なの!?」
女子生徒は自分の上着を持ち上げながら汚れた(らしい)部分を指差して抗議していた。
「私もザハグランロッテさんの態度は良くないと思うわ…」
怒っている女子生徒の周りにいた、友人と見られる女子生徒が数人、一緒になって彼女を非難した。
周りの雰囲気は相手の女子生徒たちの方に同情的でありザハグランロッテは内心でかなり悔しく歯がゆい思いをしていた。
集団で批難された彼女は、自身の…いや、スカーバラ家がかなり見くびられているのだと改めて実感した。
スカーバラ家が没落していなければ、最初の謝罪で相手は納得して受け入れただろう。
それどころか好意的に解釈した可能性が高い。
相手の背後にある力関係まで見て態度を変える人間は存外多い。
感情論で動く人間はこれだから…。
達観した彼女は、女子生徒の評価をどんどん下げていく。
とはいえ黙っていれば相手は自分が正しいと勘違いするだろう。
ならば自分は理知的に対応するまでだと考えた。
「私の落ち度で貴方の服を汚したのは確かよ。悪かったわね。服は新しい物を用意して送らせるわ」
感情のこもらない口調で、再度謝罪する彼女の態度は、客観的に判断しても謝罪しているようには見えない。
それは彼女にも自覚はあった。
今の謝罪は自分の感情を殺し切れず、怒りを抑えて事実とその対応を口にしているだけだと。
全然理知的では無いわね…。
思った事は実行できなかったけれど、それでも、公平に見ればスカーバラ家を見下し、謝罪を受け入れない女子生徒の方が言い掛かりを付けているはずだ。
背景を深読みしてみれば自分の態度に共感する者もいるだろう。
彼女はそう考えて…いや、期待した。
「ねぇ、そろそろ終わりにしようよ」
外野から声が聞こえた。
温和な雰囲気と笑顔でこちらの争いに介入してきた男を、ザハグランロッテは品定めする。
「ローレンさん…」
トマトスープをかけてしまった相手の女子生徒が、少し嫌そうな顔をして男の名前を呟いた。
嫌そうな顔をした女子生徒だが、それはローレンを嫌っての反応では無いようだ。
「私はザハグランロッテさんが謝ってくれればそれで良いのです」
男に向かって女子生徒は自分の正しさを主張した。
この女…私の謝罪は無視か…。
「それは見ていたから理解しているよ。ごめんね、自然と目に入っちゃったからさ」
ニコニコしながら男はわざとらしく申し訳なさそうな仕草をした。
そのわざとらしい仕草がなんとなく気に入らないと感じた。
そして、気に入らない男はそのままザハグランロッテの方を向くとこう言った。
「僕も一緒に謝るからさ、仲直りしようよ」
「貴方には関係無いことよ」
気に入らなかった。
怒りを抑えて彼女はローレンの提案を一蹴した。
この男は私が悪いと考えている…認められないわね…。
「うーん。こんな時なら多少は耳を傾けてくれると思ったんだけど…。不本意かも知れないけど、仲直りする為だと思ってさ」
この男は私に…相手に媚を売れと…。
認められない…この男は敵だ…。
そう思った彼女は周りを見て自分の感情が凍っていくのを感じた。
こいつは敵だ…周りは全部敵だ…。
ザハグランロッテはそう思った。
それなら受けて立つしか無いわね…。
「仲直り?仲を取り持つつもりかしら。それなら尚更必要無いわ。そもそも取りなす仲など最初から無いのだから」
場の空気が更に冷ややかになっていく。
自分が完全に悪役になるのを承知で言い放ってやった。
「ちょっ…」
自分の言葉で男が慌てる様子を見て少し溜飲が下がった。
無様ね…。
無関係な奴がしゃしゃり出るからこうなるのよ…。
「だから!貴方がきちんと謝ればいいだけでしょう!!」
相手にしていなかった女子生徒の方が怒りを募らせてしまったようで、想定外ではあったが、もはやどうでもいいと思えた。
男のお節介を拒絶したつもりだったんだけれど…まぁ、いいわ…。
この女も調子にのり過ぎなのよ…。
攻撃的になった彼女に、周りの人間もかなり引いた様子を見せている。
ヒソヒソと彼女を非難する声が聞こえてくる。
表立って敵対する人間がいない…それは彼女の求める結果であり、彼女の考える勝利でもあった。
ローレンと呼ばれた男が困っているのも小気味よかった。
事はもう小さく収まりそうもない。
それならいっそ、この状況を他者との距離を取るのに利用しようかと考えていた。
そのとき。
『ガンッ!!』
突然食堂の空気が大きな音で震えた。
少しびっくりしたが、平静を装って音の方を見て原因を探る。
新しい対立者なら厄介だと思った。
椅子が食堂の端に転がっている…恐らく、近くの怒った顔の男がやったのだろう。
この暴力的な男の相手は遠慮したい。
平静を装いながら観察する。
「お前らうるせぇんだよ!」
怒った顔の男は、見た目の通り怒っているようだ。
こちらを睨みながら今にも殴りかかってきそうな雰囲気を感じた。
こ、これは予想外ね…。
批難に耐性の有る彼女も、直接的な暴力には免疫が低い。
内心かなり焦っているが、彼女は澄ました顔を取り続ける。
今は自分に批難が集まる流れだし、この男も自分を責めるに違いない…彼女はそう思い…どうすれば良いかと考えを巡らせる。
しかし、よく見ると男の視線は自分から少し逸れているような気がした。
睨んでいるのはローレン…という男の方かしら…?
「人が静かに食べたいと思ってりゃピーチクパーチク大声で囀りやがって!」
「あ、貴方には関係ないでしょう!!」
ザハグランロッテに怒っていた女子生徒が乱暴な男に言い返した。
「それに!あ、貴方の方がうるさいじゃない!!」
「そ、そうです。貴方の方が静かにしてください」
「椅子を投げるなんて…」
「野蛮な人は黙っていればいいんです!」
女子生徒とその周りの友人達が乱暴な男に向かって一斉に批難を始めた。
ザハグランロッテは、自分が置き去りにされているのを利用し、深呼吸を繰り返す。
そうして、なんとか落ち着きと余裕を少し取り戻すことが出来た。
「うるせぇ!!そんな事はどうでも良いんだよ!!」
男は女子生徒達の批難を恫喝で黙らせ、続けて謝罪を求め出した。
「おら!お前らのせいでこっちは不愉快な思いをしたんだ!謝罪しろよ!!」
あまりにも自分勝手な謝罪要求にも見えたが、彼女はそれを自分勝手とは決めつけなかった。
正当性は人の数だけある…それは父からの教えだった。
騒ぎを起こしたのは自分に非があるのだから、それについては謝罪をしよう。
また文句を言われようとも…ね。
「すまなかったわね」
そしてチラリと時間と男のテーブルを見て、食べ残した料理を確認した。
休憩の残り時間と、この場の雰囲気を考えれば、あの料理はもう食べられることはないだろう。
「そこの食べられなかった料理の費用は私が出すわ」
周囲から「アレで謝罪のつもり?」などの声が聞こえてくる。
この男もどうせ謝罪の態度じゃないと喚くだろう…そう覚悟していた。
しかし男はザハグランロッテを一瞥するだけで、視線を女子生徒達に移した。
文句を言わない…?
変わった奴ね…。
普通…文句を言うものなのに…。
男はザハグランロッテの謝罪を無視して女子生徒を睨みつけている。
その圧力に負けた女子生徒が嫌々謝罪を口にし始めた。
「な、何よ!謝れば良いんでしょ!悪かったわよ、五月蝿かったのは事実ですもの!」
その瞬間、男の隣にあった椅子が宙を舞った。
椅子が大きな音をたてながら食堂の端まで吹き飛んでいく…。
理不尽なまでの暴力に体はビクリと反応し、心が竦んでしまいそうになった。
な、なんて乱暴な男なの…!?
「あぁ…?てめぇはそれじゃ駄目だろうが!?」
女子生徒も周りの人間も完全に男の雰囲気に飲まれている。
「偉そうに気持ちがこもってないだの何だのほざいてただろうが…あぁ?お前の謝罪のどこに悪かったって気持ちが入ってんだよ…!」
男の言葉にザハグランロッテはハッとした。
この男は中立的に判断しているのだと…。
つまり自分の敵では無かったのだ。
そう考えれば先程の謝罪に文句を付けてこなかったのも納得できる。
「やり過ぎだハウル!それに暴力で相手を思い通りにしようとするのはは違うだろ!?」
暴力的な男、名はハウルと言うらしい。ハウルを止めようとローレンと呼ばれた男が前に出た。
「あぁ?お前がそれを言ってんのか?頭沸いてんのかよ…!」
ハウルはドスをきかせた声でローレンの矛盾を責める。
ローレンと呼ばれたお節介男はハウルの言い分に思い当たるフシが無いのだろう。
首を傾げたまま不思議そうな顔を浮かべている。
間抜けな顔だ…見ているだけで不快な気持ちが膨らんでくる。
「お前はそこの女に味方して数の暴力を振るって思い通りに動かそうとしてただろうが!だからてめぇはクズなんだよ!!」
何を怒られているのか突き付けられ、ハッとしたローレンだが、目の前でハウルが椅子を掴んで持ち上げたのを見てそれどころでは無くなった。
「あ?ダメだ!みんな逃げて!!」
ローレンが女子生徒たちにそう言うと女子生徒達は一拍の間を置いて逃げ始めた。
そしてローレンは飛んでくるであろう椅子を防ぐ姿勢を取った。
「こいつは俺が抑えるから!早く行って行って!!」
一度は逃げた女子生徒たちだが、そのまま逃げていいものか迷い、どうしようかと出入り口で戸惑っていたのだ。
しかし、実際に椅子がかなりの勢いでローレンに投げつけられると悲鳴を上げながら食堂から逃げて行った。
ザハグランロッテは、それを見て胸のモヤモヤがスッと無くなるのを感じた。
「ほら!も、もういいだろ!?ハウル、落ち着けよ!ま、待っ…!」
椅子を投げ終わった男はズカズカと肩を怒らせながらローレンと呼ばれた男に歩み寄り、思い切り殴り飛ばした。
「クズが…」
殴って少し落ち着いたのか、ハウルと呼ばれた男は散らかった食堂を黙ってしばらく観察している。
そうこうしているうちに、休憩の終わりを告げる鐘が鳴った。
あまりの勢いにボーッと見るだけになっていたザハグランロッテは、ハッと我に帰ると自分の役割を思い出した。
「あの食事なら銅貨10枚ね…ここに置いておくわ」
そう言って彼女は近くのテーブルに銅貨を置いて食堂から出ていく。
助けられた形だが、面倒事からは距離を置くのが彼女の処世術なのだ。
若干逃げるように食堂を出た彼女は考える。
感情を別にして、客観的に物事を判断する人間ばかりなら…自分も、もっと柔らかな立ち振る舞いができるのに…と。
しかし世間の現状は、スカーバラの家名を、没落間近…いや、既に没落貴族としてレッテルを貼っているも同然だ。
世間はそんなザハグランロッテに対して、既に格下のレッテルを貼り、そのフィルター越しに彼女を見るのだ。
彼女はそれに抗う為に、他者に媚びないし、助けを求める事も出来なかった。
食堂を出たザハグランロッテは、午後の授業を受ける気になれず、庭園を歩いていた。
あぁ…面倒臭い…。
気に入らないなら関わらなければいいだけなのに…。
没落目前の実家が原因で、自分がゴシップ遊びの対象として見られているのは仕方ない。
そういうのを楽しむ土地柄だし、貴族という人種は人の粗を探して回って引きずり落とすのを至上の娯楽と考える輩も多い。
それは代々受け継がれるこの地の悪癖であり、落ちぶれるのが自分でさえなければ、誰もが自然と頬が緩む…それが多くの貴族が持つ性質である。
貴族なんて…本当にウンザリするわね…。
中庭に差し掛かった廊下、彼女は歩きながらキョロキョロと辺りに視線を走らせる。
今日も居るかしら…。
庭園を歩きながら中央に設置されているベンチを目指すザハグランロッテ。
………居るわね…。
目的の人物を見つけるとベンチに向かいながら声をかけた。
「毎日ご苦労なことね」
少し蔑んだ物言いだが、この程度で相手が怒らないことを彼女は知っている。
「これは、スカーバラ嬢。ちょうど良かった、今から休憩しようと思ってたんですよ」
やや軽薄な感じの男が、気安い口調で彼女の言葉に応えた。
「今日は甘いマフィンを持ってきてるんで、砂糖無しのコーヒーが合うと思いますよ」
「そう。ちょうどお昼を食べ損ねてしまったから、有難く頂こうかしら」
先程のトラブルを思い出して彼女は怒りよりも空腹を思い出した。
「そうですか、お昼を…」
男はそう言いながら手際よくコーヒーを淹れ始め、合間にマフィンを取り出したり彼女が腰掛けるベンチにキレイな布を敷いたりする。
相変わらずマメな男ね…。
男の様子を観察しながらそう思った。
男はこの学園の庭師として働いているのだが、自分の噂を耳にしているだろうし、自分こそが嘲笑されている令嬢だと知っているはずである。
にもかかわらず、貴族の序列や権力には興味がないのか、ゴシップに踊らされる様子もなく自然体だった。
それは彼女にとって心地良かった。
だから嫌な思いをしたときは無意識にこの場所に足が向かうほどだった。
学園の中で唯一気を抜いてボーッとする事ができる。
この場所が好きだった。
それに、庭師は学校の生徒に嫌がられているのか他の生徒が近付かない。
それも好都合だった。
「あら、本当に甘いわね」
物思いに耽りながら口にしたマフィンの味に、彼女は舌鼓を打った。
「でしょう。その甘さをコーヒーで洗い流すんですよ。うん。良い香りだ」
マフィンを齧りながら、ザハグランロッテはその甘さと美味しさに、顔ではなく心をほころばせた。
「これも自分で?」
これまでも庭師の男から色々なものを貰ったが、全て自分で作ったと言っていた。
この美味しいマフィンもそうなのだろうかと気になったのだ。
「ええ、そうですよ。売ってる物だとどうしても好みの味とズレが出ますからね」
今までに食べたお菓子はどれも彼女の好みと合致するものだった。
この男と自分は余程味の感性が似通っているのだろう。
「そうそう、お昼を食べ損ねたのならコレを持って行ってください。焼いた木の実で栄養価が高いですから…小さいしちょっとした合間に食べれば家に帰るまでお腹も持つでしょう」
そう言って渡された小袋には、しっかりと焼かれた、いかにも香ばしそうな木の実が入っていた。
彼女はそれを一つ摘んで口に入れると噛み砕いた。
コリッコリッという歯ごたえと、見た目通りの香ばしさ、それに少し塩で味付けもされているようだ。
美味しい…。
「ありがとう。貰っておくわね」
「いえいえ、仕事をするだけだと退屈なので。いつも話し相手になってくれて助かってます。他の方たちはこんな庭師に近付こうとはしませんから」
「さあ、そろそろ戻ろうかしら。次の授業は出た方がいいでしょうし」
庭師の自虐を無視してザハグランロッテはその場を後にした。
木の実を貰えたのは正直幸運だった。
ひと粒齧りながら、ザハグランロッテは空腹を気にしなくても良くなった事を喜んだ。




