眼差し
駅前の本屋の前で、彼女を見かけたのはこれで3度目だ。
決してストーカーをしている訳ではない。偶然が3回続いただけだ。
彼女はいつも決まって、文芸コーナーの前にいた。
今日も彼女は同じように本棚の前で立ち止まり、こちらに背を向けている。
そう思った瞬間、彼女が一瞬振り返った。
そして、目が合った。
大きくて、潤んでいて、でもどこか冷めたような、そんな目。
その大きな瞳は、まるで全てを見透かしているようで、僕の心の中すらも読み取っているんじゃないかと思い、慌てて視線を逸らした。
「認識されたかもしれない、今がチャンスだ」そう思ったが、無論今まで話をしたことすらない彼女に、声をかける勇気などなかった。
そんな僕の気持ちなど知らない彼女は、また本に目をやった。
その間、僕は文房具エリアで無意味に万年筆を握りしめ、彼女の隣に立つタイミングをうかがっていた。
だけど、先ほど見たあの目にまた見られるのが怖かった。
彼女とは高校で同じクラスだった。
席は遠く、会話はほとんどなかったが、一度だけ「消しゴム貸して」と言われたことがある。
それが、僕の10代のすべてだったと言ってもいい。
卒業して何年も経ち、街で彼女を見かけた瞬間、心臓が小さく跳ねた。
「奇跡だ」と思った。もう一度、彼女を見られるなんて。
それから、散歩を装って彼女の姿を探すようになった。偶然は、3度までなら神様も許してくれるだろう。
ある日、僕はようやく決心した。
彼女が本屋から出たタイミングで、後ろから声をかけた。
「……あの、すみません」
彼女がゆっくり振り返る。
僕の事を覚えていてくれたらどうしよう、そんな期待が喉に絡んで、声が掠れた。
「……はい?」
一言。短く、無表情な返事。
何を言うべきか、頭の中でシミュレーションしていた文章が全部飛んでいった。
「高校生の時、同じクラスだったんです。覚えてますか? 3年B組の……」
彼女は少しだけ眉を寄せた。記憶を探るように、僕の顔を見つめた。
長い沈黙のあと、静かに首を横に振った。
「ごめんなさい。人違いかも……」
そう言って、彼女は微笑んだ。柔らかく、礼儀正しく、でも完全に他人へ向ける微笑みだった。
綺麗な黒い髪が風に揺れる。彼女は、そのまま去っていった。振り返りもせずに。
その背中を見送りながら、僕はポケットの中の消しゴムを握りしめていた。
高校時代に貸して、返ってこなかったあの消しゴムと同じメーカーの。
彼女はそれを忘れていた。
いや、僕の存在ごと忘れていたのだ。
名前すら残らない。
だけど、たしかに僕は、あの瞳に恋をしていた。
それはたぶん、誰にも否定できない、ささやかな真実だった。