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幼い頃は、今よりもっと容易く夢を読めた。
でも歳を重ねるにつれてある程度の規則性が生じ、いくらかの時間と手順を要するようになって、それは私に回避の方法を与えた。
ここ何年も、私は他人の夢を読んでいない。試そうともしていない。もしかして、夢を読むことを避け続け年を重ねた今、私のこの厄介な能力は以前より弱まっているのかもしれない。だから天河さんの夢が読めなかったのかもしれないと、私はまずそう考えた。もしかしたら消えているのかもしれない、そんな、淡い期待。
その考えが正しいのかどうか確かめるために、私はその夜、以前壱己と行ったことのあるエスニック料理の店を一人訪れて、カウンター席に座った。この店には現地のスタッフがいる。カウンター越しに会話を楽しむことを好み、日本人の感覚では過剰に感じるくらい、じっと相手の目を見つめて話すウェイトレスがいたことを思い出したからだ。彼女なら簡単に夢を読める。それに多分、彼女の夢なら会話や思考は母国語の筈だ。私が覗き見たところで内容の詳細はわからない。他の人よりも罪悪感を持たずに済むと、そんな勝手なことを考えて、勝手に試す対象に選んだ。
なけなしの社交性を振り絞って何とか会話を引き延ばし、じっと目を見つめ、彼女の夢に落ちた。
結論から言うと、夢読みの力は変わらずあった。
私は彼女の亜麻色の瞳の奥にある書架を見つけ、夥しい数の蔵書の中から一冊を選んで開き、今よりずっと若々しい彼女が同じくらいの年頃の少女と笑い合いながらバイクで並走している姿を見た。多分故郷の国だろう。異国の風景に、郷愁の色が滲む夢をほんの少しだけ覗かせて貰った後、私は早々に店を出た。
私の力は消えていない。なのにどうして、天河さんの夢は読むことが出来なかったんだろう。どれだけ考えてもわからない。
家に着いた私は、もう手足を動かす気力も起きず、そのままベッドに倒れ込んだ。鞄の中でスマートフォンが鳴った。腕を伸ばして床に放り出していた鞄から取り出して見ると、天河さんからのメッセージだった。
モニター試験終了後、天河さんは私的な連絡先を私に教えた。体調に異変があれば、帰宅した後でもこの連絡先に知らせて欲しいと。私の連絡先も聞かれ、あまり気は進まなかったが上手く断れず交換した。
メッセージでは改めて謝罪が述べられていた。短いメッセージだったけれど、気遣いは感じられた。ちょっと液剤が目に入っただけ、そんなに気にする必要はないし、あの時意識を飛ばした理由も天河さんには無関係、何も非はないのに。そう思いながら、心配不要の旨とお礼を伝える事務的な文章を打って返信する。それだけでやり取りは終わった。
綺麗だったな。
スマートフォンをぽいと枕元に投げ出して、あの時に見た天河さんの瞳の色を思い出す。私や壱己のような真っ黒な目とは違う、海の向こうで生まれた人みたいな、淡い目の色。穏やかな海の底で育まれ、長い時間をかけて砂浜に辿り着いた貝殻のようだった。果てしなく遠い海の向こうから、波に攫われあちこちを漂い漸く浜に流れ着いたガラス片みたいに、研がれて澄んだ色の瞳。
あのひとは、どんな夢を見るのだろう。
ほんの少しだけ、見てみたいと思った。
♢♢♢
眠りにつけば、私も夢を見る。
その夜の私は書架の前にいた。ここは見覚えがある。誰かの、夢への入口だ。ずらりと並ぶ数え切れないほどたくさんの蔵書。埃っぽい匂いと、真新しい紙の匂い。
私は重い革張りの一冊を手に取って開く。でも中の頁は、最後の一頁まで文字ひとつなく真っ白だった。隣にあった絵本のような大型本を手に取る。何も書いていない。その隣、そのまた隣も、一番高い棚の一番端にある本も、文字や絵はもちろん、染みひとつなかった。
私は途方に暮れて、書架に凭れて座り込む。
夢の中で、私はあるひとつの欲求に取り憑かれている。
何でもいい。知りたい。ここにある書物に何が記されているのか、この書架の主がどんな夢を見ているのかを知りたい。
それが叶わなくて、不満と不安が胸の中で渦を巻いて、置き去りにされた子供みたいに膝を抱えて泣き出してしまう。
どれだけの間そうしていたのか。泣き疲れてふと顔を上げると、夢の中の私はあることに気が付いた。
書架の奥に、扉がある。
いつからあったのだろう。私が気付かなかっただけで、初めからあったのだろうか。いや、そんな筈ない。書架の奥行きは深く、どこまでも続き、果てが見えない。いつもそうだったし、今日もさっきまではそう見えていた。でも今、扉は確かにそこにある。それは初めて見た、夢の果てだった。
ふらりと立ち上がり、真っ直ぐに扉へ向かう。縋るような、憑かれたような切実な想いに身を灼きながら、扉へ向かう。
見たい。知りたい。
あの扉の向こうにある世界に行きたい。
強い欲求が私を突き動かす。その激情は夜の寝所で理性を手放して求め合う時のそれと、少し似ていた。抑えられない。もっと、どうしてもと、激化していく欲望。
古い材質の重厚な扉。金属製の取手を掴むと、それはぞっとするほど冷たかった。