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番外編・彼と彼等の長い午睡(10)

 一度だけ、あの女の人について、壱己と話した。


「一応前の飼主がいたってことじゃない。もしかしたらどこかに落ち着いた後、迎えに来るつもりかもしれない。その時は…」

「そんな万が一の事ばっか考えてても仕方ないだろ。もし来たとしても、こいつはもううちの子なんだって言やぁいいだけの話だ」

 待ち合わせ場所に向かう道を並んで歩きながら、壱己は呆れた顔で私を見下ろす。

「そうは言っても…あんな形で置いて行ったとはいえ、あの子のことはちゃんと可愛がっていたみたいだったし…」

「『あんな形で』、夜中に身一つで出て行った奴だぞ。落ち着く場所を見つけるどころか、今生きてるかどうかもわかんねぇよ」

「そ…そんな、縁起でもない」

 物騒な物言いに動揺する私に、壱己は肩を竦めて見せる。

「どうしてるかなんて知らないけどさ。尊厳を踏み躙られた人間てのは、どっかが壊れるんだ。何をしたっておかしくないし、回復するには時間がかかる。どれだけ経っても直らない事だってあるだろ。迎えに来る余裕なんて、多分ないよ」

 淡々とした、でも真面目な口調だった。それでようやく私は思い至る。壱己は悪意をもって、わざと過激な言い方をしている訳じゃない。

 ただ、知っているだけだ。尊厳を奪われた人がどうなるのか。それを取り戻すための道のりが、どれほど長く困難で、険しいものなのか。身をもって、知っているだけなのだ。

 ぶらんと脇に垂れていた手を取ると、壱己は私を安心させるようにふっと笑って、しっかりと握り返してきた。それだけで私は、少しほっとする。


「なぁ灯里、気付いてた?あいつが置いて行かれた場所な、動物病院の前だったよ」

「……うん。知ってた」


 あの日夢で見た街並みは、私も壱己も見知らぬ場所だった。いくつかの小さな商店が連なる通りでは、どの店もとっくに営業を終え、シャッターが下りている。仔猫を入れた箱は、その中のある一軒の前、歩道の片隅に置かれていた。営業時間外でも掲げられた看板はそのままだから、わかる。よくある苗字の後に、アニマルクリニックと続いていた。

 せめてあの子が、幼い猫にとって安全な場所で保護されるように。そう願っていたことだけは、私にもわかった。勿論それだけであの子の安全が確保される訳じゃない。それだけで何かが許される訳では、きっとないのだろうけど。

 きっと彼女も本来は、引き取った仔猫を路傍に置き去りにするような人ではなかったんだろう。本当はずっと傍にいて、伝え続けていたかったんだろう。かわいいね、大好きだよ、と。そう考えると余計に、私の心は重く軋んだ。


「なぁ、あいつの名前、決めた?」

「まだ…知ってるでしょ、私、そういうの苦手なの。全然思い付かない。壱己が決めていいよ」

「お前が連れて来たんだろ」

「うちの子にするって決めたのは壱己じゃない」

 言い合って押し付け合う内に、目的地に着いた。

 

「白崎さん、芦屋くん!こっちだよー」

 自動ドアをくぐってすぐに、こちらに向かって手を振る益子さんの姿が見えた。入口付近にあるレジカウンターの前の待合席に座っている。

「お待たせしてごめんなさい。今日はありがとうございます。お休みなのに」

「こちらこそありがとう。誘って貰えて嬉しいよー、デザートビュッフェなんて久しぶり」

 無邪気にはしゃぐ益子さんは、会社で会う時よりメイクも服装もナチュラルで、何だかすごく若く見える。そして約束の時間を五分ほど過ぎてから、もう一人の待ち人は現れた。

「お待たせ。皆、早いね」

「あんたが遅いんだよ。自分が言い出した癖に遅れんな」

「あはは。芦屋くんと天河くんが友達だって話、本当だったんだ。うちの会社のイケメン二大巨頭が最近つるんで仲良くしてるって、女の子達ざわついてるよ」

「仲良くもないしつるんでもないし友達でもないんですよ」

 益子さんに笑われて、壱己は苦虫を噛み潰したような顔をした。


 そう。今日は私たちが天河さんにあの日のお礼をする日。天河さんにビュッフェをご馳走する約束だった。


 あの日、天河さんは私たちより数時間遅れて目を覚ました。他者の夢に人を招くには結構なエネルギーを使うらしく、深夜を回っても目覚めない天河さんを待っている内に、私たちも再び眠ってしまった。

 翌朝起きて、三人で朝食を食べながら仔猫を飼うことにしたと話すと、天河さんは微笑んで「それがいいよ」と頷いた。

「で、ビュッフェにはいつ行く?」

 あんたが行きたがってたスウィーツビュッフェのチケット買ってやる、と言った壱己の申し出は、いつのまにか天河さんの中で三人で行くと約束したことに変換されていた。勿論壱己は頑なに拒否したけれど、天河さんはしつこかった。

 でも実際、天河さんが協力してくれなければ仔猫の事情も知ることが出来なかったのだし、私としては何かしらお礼をしたい気持ちもあった。ただ、私一人でこの二人は手に余る。そこで、スウィーツに目がない益子さんを誘って、扱いが面倒な二人の危険生物を上手くいなして貰おうと思い至った。益子さん、いつも緩衝材みたいに、猛獣使いみたいに扱って、ごめんなさい。

「この子が芦屋家初の子かぁ」

 私のスマホに収めてある仔猫の写真を見ながら、益子さんは「かわいい」と相好を崩している。

「少し大きくなった?このくらいの猫は日に日に成長するね。来月あたり、また会いに行こうかな。ナップは僕のこと覚えてるかなぁ」

 さらりと口にした天河さんの言葉に、私も壱己も引っ掛かりを覚える。

「…ナップって何?」

「その子の名前。いい名前だろう?」

「勝手に人の家の猫の名付けをするな」

「だって君たち未だにあの子とかあいつとか言うじゃないか。名前くらいちゃんと付けてあげないと可哀想だよ」

「だからって何であんたが」


 昼寝ナップ。結局それがあの子の名前になった。その日一日散々連呼されたおかげで、その名前が私たちの頭にも染みついて、他の名前に違和感を覚えるようになってしまったのだ。

 天河さんが名付け親というのも複雑な気がしたけれど、名を呼ぶとぴょこんと耳を動かしてこちらに駆け寄る仔猫の姿は、筆舌に尽くし難くかわいい。


 残業が続いた後の休日の午後、壱己はリビングのラグに寝そべってうたた寝をする。それに気付いたナップは、足音を忍ばせてそっと壱己に近寄り、お腹の上に乗って身体を丸める。

 私は寝息を立てる二人に洗いたてのブランケットを掛けてやり、とっておきのお茶を入れてその光景を眺める。彼らの穏やかな午睡を妨げないように、静かに。


 目が覚めたら、私とも遊んでね。


 声に出さずに語りかけると、二人は同時に、小さな寝返りを打った。

 


 end.

こちらの番外編にて完結となります。

最後までご覧下さりありがとうございました!


引き続き別の作品を掲載していく予定です。

またお会い出来れば嬉しいです。

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