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番外編・彼と彼等の長い午睡(9)

 目を覚まして最初に、頬を伝う涙を拭った。次々に溢れる生温い雫の出処でどころは、確かに私の両の瞳だった。だけどそれは、本当に私の体から湧いて出たものなのだろうか。そうじゃない気がした。誰かから預かった涙を代わりに流しているような、そんな気がしていた。自分で泣くことが出来ないから、私の身体を借りて、私の中に侵入して、泣いている、誰か。それは一体、誰なんだろう。


 眠りから醒めた壱己が、指先でそっと私の涙を拭う。どのくらい時間が経ったのかわからないけれど、私は眠りについたその時のまま、壱己の胸に凭れかかって体を預けていた。壱己は身動きもせず、黙って私の涙が止まるのを待った。やがて壱己は、私を庇護していた腕を解く。まだ少し湿っている目尻をもう一度親指でそっと撫でて立ち上がり、今度は仔猫の前にひざまずいた。

 仔猫はまだ夢と現実の狭間をさ迷っているみたいだった。うつらうつらと瞼を開きかけてはまた閉じて、前脚で顔を擦ったり、大きく口を開けて欠伸をしたり。ひとつひとつの動作を、壱己は根気強く、じっと見守っていた。その視線が気になるのか、仔猫も壱己の方へちらちら視線を送る。

 何度か瞬きを繰り返した後、仔猫はようやく起きることを選んだようだ。よいしょと言いたげに立ち上がり、前脚をぐぐっと伸ばす。ぷっくりしたアーモンド型の瞳が全開になるのを確認すると、壱己は手を伸ばして、仔猫の頭をぐりぐり撫でた。


「なぁ。お前、うちに来いよ」


 開口一番、壱己は仔猫に向かってそう言った。


「食うには一生困らせないし、上等な寝床も用意してやる。退屈ならおもちゃも買ってやるよ。どう?」

 仔猫は訝しげに尻尾の先をゆらゆら揺らして、窺うように私を見た。心なしか困ったような顔をしている。そりゃそうだ。起き抜けに突然勧誘されて、人生の重要な選択を迫られているんだから。

 仔猫の去就については私次第だと思っていたのに、急にそんなことを言い出した壱己を、私はハラハラしながら見守った。仔猫の視線を追って振り向いた壱己と、目が合う。でも壱己は、すぐに仔猫に向き直った。

「…心配か?俺も灯里あいつをいじめるんじゃないかって」

 壱己は仔猫の顎をそっと持ち上げて、低い声で尋ねる。

「大丈夫だよ。俺は灯里を泣かせたりしない。だから灯里も、お前を連れてこの家を出て行ったりしない。行かせないしな。あいつは死ぬまで俺の傍にいるってもう決まってんだ。なんなら死んだ後もだよ。一緒の墓に入る約束してるんだ」

 ちょっと、壱己。仔猫相手に何の話をしてるの。それにまた勝手なことを言って。

「俺らにはお前を置いて行く理由がない。二人で一生面倒みてやるよ。いいだろ?」

 壱己は両手を仔猫に向かって差し出した。


「お前が決めな。右がイエス、左がノーだ」


 今度はイカサマする気はないらしい。壱己の両手は、仔猫に向けて開かれていた。

 少しの間、仔猫は戸惑った様子でふたつの大きな手のひらを見比べていた。でもすぐに、両方の前脚をいっぺんに動かして、壱己の手のひらにたしっと乗せた。


 右手だった。


「よし、決まり。……名前を考えないとな」


 最後の一言は、仔猫ではなく私に向けられていた。仔猫はそのまま手のひらによじ登ろうとしては何度もずり落ちて、最後には腹立ち紛れに、壱己の指をかぷりと噛んだ。

 

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