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番外編・彼と彼等の長い午睡(8)

♢♢♢


 いつ、生まれたんだろう。その瞬間のことは覚えていないようだ。でも瞼が開いて初めて目にしたものはわかる。ふわふわの長くて柔らかそうな毛。アッシュグレーの大きな体。多分、母猫だろう。

 その猫の周りに、三匹の幼猫が纏わりついている。へたれた枕をベッド代わりに、猫たちは満ち足りた様子でゴロゴロと、寝転がっていた。もちろん、あの子も一緒に。


 母猫はどこかの家の飼猫らしく、細い首輪を着けていた。どうにも自由な猫、自由な家に育ったらしく、半分開け放された窓から外へ飛び出しては、また帰って来る。多分今までもそんな暮らしで、そうしている内に仔猫を授かったのだろう。母猫が留守にしているその間、仔猫たちはよく眠り、目を覚ましては互いにじゃれ合って、母親が戻れば乳を飲み、思い煩うことなくあたたかい場所で過ごした。


 けれどほどなくして、仔猫たちは大きな籠に詰め込まれ、どこかへ運ばれて行った。着いた先には他の仔猫がたくさんいて、あの子も兄弟猫とともに、無機質な白いケージに移される。

 人間の大人達が次から次へと現れて、ケージの中の猫たちを順繰りに眺めていく。指を差されて選ばれた子が外へ出され、また戻されることもあれば、そのまま連れて行かれることもあった。仔猫の目に映った大きな看板には、譲渡会という文字が印字されていた。


 あの子を選んだのは女の人だった。夫婦や家族連れが多い中、その人は一人で来ている様子だった。まだ片方の手のひらに乗るほど小さかったあの子を抱き上げ、しばらく撫でたり頬擦りしたりした後、そのまま連れて帰った。

 着いた先は小綺麗なマンションの一室だ。前の家より広くて、壁も家具も何もかもが真新しく、清潔で、洗練されていた。母猫のお乳が失われた代わりに、ちゃんとミルクも用意されていた。かわいい。だいすき。わたしのたからもの。そんな言葉が、小さなあの子の耳に届く。乗れば体がふんわりと沈み、尻尾の先まですっかり埋もれてしまうくらいふかふかのクッションで、あの子は毎日すやすやと眠った。


 前と変わらず、安全で、平穏だった。ただひとつのことを除いては。


 この家では、真夜中に男の人が帰って来る。きっちりとスーツを着込んだ、立派な佇まいの男の人だ。その人はとても無口で、女の人が話しかけても返事もしない。隙なく身に纏っていたスーツを脱ぎ捨て、床に散らばったそれらを、女の人は笑顔で拾い片付けて回った。作っておいた食事は口を着けることもなく流しに捨てられた。このまま無言で過ごすのかと思うと、突然大声で怒鳴って、壁を叩いたりした。何をそんなに怒っているのか、ずっと見ていてもさっぱりわからなかった。その人が寝た後、女の人はいつも泣いていた。泣いて縋りついてくる女の人に、あの子はされるがまま、その温かい小さな体を慰めに差し出していた。


 ある日、男の人はとてもご機嫌で帰ってきた。頬を紅潮させて、珍しくよく喋り、大声で笑う。その人が口を開くとアルコールの匂いがむっと部屋に広がった。女の人はいつもと同じ、どこか困ったような笑顔を浮かべ、一生懸命に世話をして、相槌を打った。

 ただ、一度だけ。男の人が顔を近付けて何かを言った時、眉を顰めて顔を逸らした。多分至近距離で発せられるお酒の臭いに耐えられなかったのだと思う。一度きり、その些細な行動で、男の人は一転、がらりと態度を変えた。一瞬で両方の目尻を吊り上げて、女の人の胸をどんと突き飛ばして床に転がした。

 そこからは見るに耐えない。男の人は手近にあった陶器の置物を手に取り床に投げ付け、大声で喚き散らした。つかえない。むのう。やくたたず。ごくつぶし。意味を理解できる言葉は一つもなかったけれど、その言葉が孕む悪意と聞いたこともないようなボリュームの怒声が、部屋の片隅で眠っていた仔猫を震え上がらせた。いつもは流しに捨てられる手作りの食事は、今日は女の人に向かって投げ付けられた。何時間も煮込まれたホロホロの美味しそうなお肉が、女の人の髪にぶちまけられて張り付いた。きたねぇな、あらえ。あらってやる。そう言って男の人は、お酒の蓋を開けて瓶を真っ逆さまにして、女の人にかけた。全部、全部かけてから、狂ったように大笑いして、でていけと言った。


 男の人が寝た後、女の人はシャワーを浴びて、服を着替えた。小さな鞄と、小さな箱。それにタオルを一枚だけ持って、ひっそりと足音を忍ばせて、部屋を出る。眠っていた仔猫を片手に抱いて。


 しばらくの間、女の人は休むことなく歩いた。そしてある場所で、ふと足を止める。箱の中にタオルを敷き詰めて、道端の隅っこに置いた。そこに仔猫をそうっと入れる。


 ごめんね。


 立ち去って行った女の人を、仔猫は追おうとした。でも箱は思ったより深く、なかなか出られない。何度も前脚を滑らせて、それでも諦めず引っ掻いている内に、箱はカタンと傾いた。転げるように箱から飛び出した仔猫は、もうすっかり疲れていたけれど、力の入らない足を何とか動かして歩いた。

 

 女の人は、もうとっくにどこか遠くへ行ってしまったみたいだった。ほどなくして夜が明けて、月明かりが映し出す残影は、朝の光に掻き消されていく。夜のあいだに去ったひとの影は、それきりもう、捕まえることが出来なかった。



♢♢♢

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