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番外編・彼と彼等の長い午睡(2)

 病院で検査した結果、その仔猫は幸い病気もなく健康体だった。多少の怪我はあったけれど、後々の生活に支障が出るほどのものはない。栄養のある食事を与え、安静に。獣医師は穏やかにそう伝え、里親を探すなら多少の協力は出来ると言ってくれた。

 けれど里親は、壱己の「猫事情に精通した友達」の人脈によって、わずか一週間足らずで見つかった。彼の近所に住む壮年夫婦で、長らく三匹の保護猫を引き取って世話をしていた方々だという。三匹それぞれが順番に寿命を全うし、去年最後の一匹を亡くして以来、夫婦二人きりで暮らしていたそうだ。今回の話を聞いて仔猫の先行きを心配し、よかったら我が家へと申し出てくれたのだ。

 そうして、アッシュグレーの小さな猫は、ほんの数日で我が家を去った。



 そんな出来事があったのは、もう十年以上前の話。


 そして今。


 紆余曲折を経て一緒に暮らし始めた私達の部屋に、あの時と同じくらい小さな、弱々しい仔猫が横たわっている。


「お前なぁ…」


 私より三時間ほど遅く帰宅した壱己は、リビングの片隅で小さくなっている私と仔猫を見て呆れたように溜息を吐いた。

 畳んだバスタオルの上に寝かされた仔猫と、床に縫い止められたようにその傍から離れられずにいる私。交互に視線を動かして私と仔猫を見比べた後、ソファに置いてあったクッションを手に取って私に差し出した。それを見てようやく私は、自分が長いあいだフローリングに直接座っていたことに気付く。どれだけこの子に夢中になっていたんだろう。数時間振りに我に返った途端、急に床の固さと冷たさが気になり始めた。


 仕事からの帰り道、この仔猫を見つけた。

 駅から家に向かう途中に銀杏並木の通りがある。その街路樹の根元に、この子はいた。葉陰で雨宿りをするように小さくなっていたけれど、今さら雨から逃げても意味がないくらいに濡れそぼっていた。ハンカチ代わりにしているガーゼタオルを慌てて鞄から取り出して、恐る恐る手を伸ばす。仔猫は一瞬背中の毛を逆立てたけれど、逃げる気力もないのか、すぐにしゅんと脱力した。

 さっと片手で持ち上げて、タオルに包んで急いで家に連れ帰った。それから湯を張った湯桶の中で体を洗い流して、弱めにドライヤーをかけて乾かし、ブランケットの上に寝かせた。慣れない作業だったし、まだ幼い小さな身体を扱うから臆病なほど慎重になってしまって、一つ一つに時間がかかる。気付いたらもう、夜の十時近くなっていた。

「灯里。お前、飯は食ったの?」

 保護した仔猫を家に連れて来た時点で、壱己に連絡をするべきだったと思う。けれど私の頭は目の前のこの子をとりあえず綺麗にして暖かい寝床を用意する事でいっぱいになっていて、それを怠っていた。

 食事の支度は私の役目と決まっている訳じゃない。でも今日は壱己の方が帰宅時間が遅いとあらかじめわかっていたから、用意しておくと昨夜から約束していた。壱己からしてみれば、家に帰ったらある筈の食事はなく代わりに見知らぬ猫とその子に夢中になって座り込んでいる私がいたという呆れて当然な状況で──私が逆の立場だったら、もっと驚いて、連絡くらいくれたらいいのにと不機嫌になると思う。

 私は気まずい気持ちで首を横に振り、クッションを受け取った。それを敷く為に足を動かすと、じんとした痺れで思うように動かない。

 壱己はまたひとつ溜息を吐いて、私の横に腰を下ろして胡座をかく。何度か私と仔猫の間で視線を動かした後、仔猫の頭から背、首やお腹の上から下まで──毛を掻き分けて撫でながら、点検するような目付きでまじまじと見つめた。

「…怪我は大した事なさそうだな。病院に連れてくのは明日でいいだろ。とりあえず何か食う物買ってくるよ。弁当でいい?」

 壱己は私の頭に掌を置いて、それを支えにまた立ち上がる。のしっとした重みを頭に感じて、私の体はさらに床に沈んだ。その手は私に、もうしばらくこのまま仔猫の傍にいていいと許しをくれているようだった。

「ついでにそいつの食べる物も買ってくる」

 たった今、長い仕事を終えて帰って来たばかりなのに、壱己はそう言ってスーツ姿のままさらりと部屋を出て行った。私が行く、も、ありがとう、も、言う隙がなかった。


 壱己が買って来てくれたお弁当をちまちま口に運びながら、向かいに座る壱己の様子を目の端から盗み見るように窺う。壱己は何をするにも私よりずっと早い。とっくにお弁当を食べ終えて、静かに眠る仔猫を見るともなく眺めていた。テーブルに片肘をついたまま体を半分リビングの方へ向けて、ペットボトルの水を時々口に運ぶ。普段は食後にビールを飲むのに、今日はただの水。何故かは聞かなくてもわかる。結婚して少ししてから、壱己は車を買った。深夜に仔猫の身に何かあったら、自分で車を出して夜間診療対応の動物救急病院に連れて行くつもりなのだ。私は車の免許を持っていないし、タクシーがすぐに捕まるとは限らないから。きっと救急病院の情報も調べてある。さっき買い物に出た短い時間で、私に気付かれない内に。そういう、抜かりない性格なのだ。


「今度はどうしたい?」


 不意に尋ねられ、私は「え?」と間の抜けた声を出してしまった。何が、と問い返しそうになったけど、壱己の視線は仔猫の方に向いたまま。質問の内容は、仔猫の去就に関することだ。里親探しの方法についてだろうと見当をつけて、私は少し考えてから答えた。

「前は壱己が友達に当たってくれたから…今度は私もちゃんと、探してみる。動物病院とか近所のお店にポスター貼って貰ったり、譲渡会の情報とかも…」

「いや、そうじゃなくてさ」

 壱己はリビングに向けていた体の向きを元に戻して、私を正面から見つめる。ぱっと目が合って、私は慌てて視線をお弁当に落とし、目を逸らす。

「お前が、自分で飼いたいと思ってるんじゃないかって」

「自分で…って、無理でしょう…」

「何で?」

「何でって、だって…マンションだし…」

「ここペット可だよ」

「えっ、そうなの?」

「うん。十キロ以下の犬猫はいいって契約の時言ってたろ。たまに連れてる奴もいるじゃん。見た事ない?」

 そう言われてみれば、何度かある。ただ皆キャリーケースに入っているので、ペット連れで遊びに来たどこかの家の来客だと思っていた。

「申請が必要だとかエレベーターだのエントランスだの共用部分ではバッグに入れるとか多頭飼いは駄目だとか、細かい決まりはあるらしいけどな。猫一匹なら気をつけて飼えば問題ないだろ」

 飼うのは無理だと頭から思い込んでいたから、急に湧いて出た選択肢に、私は戸惑った。

「そ…そうなんだ…でも、私も壱己も仕事があるし…」

「共働きで猫飼ってる奴なんていくらでもいるだろ。うちの部署の先輩も一人暮らしで猫飼ってるけど、二、三日ならちゃんと餌とか置いとけば平気で留守番してるって言ってたぞ」

「そういうもの?」

「まぁそれは極端な例かもしれないけど、旅行とか行くならペットホテルもあるしさ。その気になれば飼えない事はないと思うけど」

「でも、ペットなんて飼ったことないし」

「何するにしたって初回ってのは必ずあるんだよ」

 壱己は待ち伏せしていたかのように、私の逃げ道を次々と塞いでいく。どうして、と私は混乱した。

「……もしかして、壱己は飼いたいの?」

「いや、別に」

 飼う決断をするよう誘導しているに等しい態度なのに、壱己はあっさり否定する。

「俺一人ならまず飼わないな。そもそも拾ってくる事もない。でもお前、実はすげぇ好きじゃん、猫。本当は飼えるなら飼いたいと思ってるんじゃないかって」

 実は凄く好き──なんて、口に出したことはない。ない筈なのに、なんでわかるんだ。図星を突かれて口をへの字に結んだ私を見て、壱己はハッと笑った。

「見てりゃわかる。見かける度に目ぇ潤ませてさ。本当は撫でたいけど嫌がられるかもって、近付くの我慢してるんだよな。猫動画とかもこっそりよく見てるよな。TVに出てくりゃ夢中になって瞬きもしなくなるし──」

「もういい」

 自分のわかりやすさを指摘されて恥ずかしくなり、思い余ってさえぎった。壱己は楽しそうに喉の奥で笑って、腕を伸ばす。私の方へ手を伸ばし、頬にかかった一筋の髪を、耳に掛け直してくれる。

「好きなものはちゃんと手元に置いて、嫌ってほど可愛がってやりゃあいいんだよ。今なら俺もお前も、それが出来る」

 何も出来なかったあの頃とは違って。

 壱己はそこまでは、はっきりと口にしなかった。

 言いたいことは沢山ある気がしたけど、何も言葉にならなかった。私は何度か唇を開いて、閉じて、形をなさない心の内を口にするのを諦めて、ただ細く息を吐いた。

「すぐに決めなくていいよ。こいつもまだこれからの事を考えられる状況じゃないだろうしさ。病院行って飯食わせてもうちょい太らせて、飼い主困らせるくらい元気になったら、そこからその先の事を考えればいい」

 壱己は「俺、先にシャワー浴びてくる」と言って席を立った。

「……懐かしいな。そいつ、昔お前が拾った猫にそっくりだよ」

 私の横を通りざま、ぽんと頭を軽く撫でていく。なんだか自分が子供になったような気がした。欲しいと駄々を捏ねたい気持ちを押し込めて、でも簡単に見透かされて、我慢しなくていいと甘やかされて。私は俯いて、弁当箱の片隅に残った南瓜の最後のひとかけらを、箸で拾って口の中に押し込んだ。もうとっくに、お腹はいっぱいだった。


 時々、出会った頃から今日までのことを思い出しては、壱己が今まで私に与えてくれたものの大きさに、その数に、途方に暮れることがある。

 それはいつも私の追いつけない速度で、あまりにさりげなく渡されるものだから、私はいつも言い損ねてしまう。ありがとう、と、心の中では何度も囁いているのに。

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