番外編・彼と彼等の長い午睡(1)
本編完結までお付き合いいただきありがとうございました。
このページからは番外編となります。
本編でチラッと話に出ていた、中学生時代に灯里が猫を拾った話。そこから本編の後、現在に舞台が移ります。
約25000字と比較的長い番外編になりますが、お楽しみいただければ幸いです。
目が合った。
その瞬間、私は雷に打たれたかのように、身動きすることが出来なくなった。
アーモンド型の灰褐色の瞳が、こちらをじっと見ている。少し目尻の吊り上がった、屹とした鋭い眼差し。全身びしょ濡れで毛先から水滴を垂らし、額の小さな傷からはうっすらと血が滲んでいる。その傷付き薄汚れた風体の中で、眼光だけが妙に明るく、強い。ボロボロなのにどこか気高さのようなものを感じる、凛とした姿に、私は瞬きも忘れて見入った。
性別ははっきりとはわからない。けど、多分男だと思った。四肢は細いが、体全体にしなやかな逞しさを感じる。見つめ合う内に動機が激しくなってきた。脳内に嵐が巻き起こるかのような高揚と、動揺。抗えない引力を感じる。
吸い寄せられるように近付くと、彼は目を伏せて、頭を垂れてそっと私の方へと差し出してきた。目付きの鋭さとは裏腹に、何て従順で愛らしい仕草だろう。庇護欲という新たな感情が芽生え、私はポケットから取り出したハンカチで彼の濡れた頬をそっと拭った。
近付いたら嫌がられるかも、そんな考えが頭をよぎったけれど、杞憂だった。嫌がるどころかハンカチ越しに頬を擦り寄せてくるのがわかる。そのやわらかな感触に、私の心臓はぎゅっと握り潰されそうになった。
「なぁ…」
か細い声で縋るように、彼は私に語りかけた。ほんの小さな発声、それだけで力尽きたように、細い身体がぐらりと傾いた。私は慌てて両手を彼の方へと伸ばし、痩せ細った体を支える。
駄目だ。放っておけない。うちへ、連れて帰ろう──。
♢♢♢
「放っとけないってのはまぁ、わかるよ。わかるけど、だからってな。無計画に家に連れ込むのもどうかと思うよ、俺は」
呆れ果てたように溜息を吐く壱己は、まだ制服姿だった。さっき私からの電話に出た時に、ちょうど委員会が終わり教室を出たところだと言っていた。学校指定の白いブラウスの肩先が少し濡れている。我が家を訪ねて来た壱己は思いがけず大荷物で、それらは私が拾った仔猫のための物だと一目でわかった。手にした傘が傾くくらい、荷物を運ぶのが大変だったのかもしれない。私は少し申し訳ない気持ちになって、ふいとその肩から目を逸らした。
無計画。そうだ、壱己の苦言の通りだと、自分でもわかってる。でもどうしても見過ごせなかったのだ。
「だって…放っておけなかったんだもん。こんな小さくて見るからに弱ってて、怪我もしてるししばらく雨も続くみたいだし…」
もごもごと小さな声で言い訳する間ずっと、私は膝の上のとびきり可愛らしい生き物を撫でている。
さっき出会ったばかりの仔猫。小さいながらもキリッとした顔立ちから、きっと男の子だろうと思っていたが、やっぱりそうだった。お風呂で湯桶にぬるま湯を張り、汚れを洗い流して乾かすと、アッシュグレーの被毛が本来の色と手触りを取り戻した。細いさらさらした毛質の撫で心地は極上で、手放すタイミングがわからなくなる。
「怪我?あぁ、これか。まぁ…それほど深い傷はなさそうだし大丈夫だろ。ほら、これ買ってきたから食わせてやんな」
壱己はドラッグストアのレジ袋から中身を取り出して床に並べる。猫用のミルク、ウェットフード、高栄養価の流動食。猫を飼ったことがない私は、キャットフードの売場なんてじっくり見たことがなかった。こんなものまで売ってるんだ、とびっくりする。
「このスポイトは何?」
「自力で食えない時はこれで離乳食を流し込むんだってよ」
私は唖然とした。
何だこの周到さは。何も考えず何も用意もせず、ただ家に連れ帰ってきただけの自分がひどく間抜けに思えた。
「ねぇ、壱己、ペット飼ってたことないって言ってたよね?何でそんなに詳しいの?」
「全然詳しくないから、猫オタの友達に色々聞いて来たんだよ」
「そ、そっか…あの、こっちは何?砂?」
ぎゅっと口を縛ったビニール袋には細かい粒々がぎっしり詰まっていて、持ち上げるとずっしりと重たい。
「猫砂。トイレに使うんだってさ。猫拾ったって言ったら分けてやるって言うからそいつの家寄って貰ってきた。部屋中に粗相されたくなけりゃすぐに躾けろって言ってたぞ。砂を敷くトレイも余ってるのあるっていうから、借りてきた」
学校からの帰り道、人通りの少ない住宅街の中にある小さな公園の片隅に、段ボール箱が置かれていた。野菜の品名が印刷されたそっけないデザインの段ボール。その中から微かに、助けを求めるような切なげな声が聴こえてくる。おそるおそる覗き込んでみると、か細く鳴いて震えているこの仔猫がいた。
箱の中には薄いタオルが敷いてあり、食べカスで少し汚れている。一目で捨て猫だとわかった。まだ一人…じゃない、一匹では生きていけないだろう、幼い仔猫であることも。
保護しなければ、という一心で思わず連れて帰ってきたものの、私はペットを飼ったこともないし、幼猫の扱い方なんてわからない。仕事中の父に連絡出来るほど気安い親子関係ではないから、この非常事態に咄嗟に頼れる相手は他にいない──というか、そもそもスマートフォンの中に登録してある連絡先は、壱己のものしかなかったのだ。
「…ごめんね、急に電話して」
「何で。俺だってするじゃん、別にいいよ」
壱己はフンと笑って、買ってきた紙皿にミルクを少しだけ注いだ。
そう、確かに壱己は頻繁に、気安く電話してくる。少し親しくなってからはいつもそう、遠慮のない様子だった。けどそれは明日の持ち物の確認とか宿題の範囲教えてとか、二言三言で終わる程度の気軽な用事だ。怪我をした仔猫を拾ったんだけどどうしよう、どうしたらいいかわからない助けて──だなんて、切迫した用件じゃない。
壱己は一通り事情を聞いた後、「必要な物は持ってくから、ちょっと待っとけ」と端的に言って電話を切った。そして三十分もしない内に、ドラッグストアのレジ袋を持って家に来た。
「お、飲めるか?」
まだ膝の上にいる仔猫の鼻先に壱己がお皿を近付けると、すんすん鼻を動かした後にペロリと舌舐めずりをした。立ち上がる素振りを見せたので、慎重に床に下ろす。はじめは少しふらついていたけれど、足取りは思ったよりしっかりしていた。ミルクを傍に置いてみたら、ちゃんと自力で飲み始める。私はほっと胸を撫で下ろした。壱己もどことなく嬉しそうに微笑んで、けどすぐに真面目な顔を私に向けた。
「それでこの後どうすんの?飼うの?」
「う…うちは無理だよ」
父親はほとんど家にいないし、世話をするとしたら私だけ。けど猫を飼ったことなんてないから、お世話するといったってどうしたらいいのかわからない。それに学校に行ってる時間は誰も見る人がいないし、餌代だとか病院代だとかもかかるだろう。いくらかかるかわからないけど、私のお小遣いだけじゃ賄いきれないだろう。
壱己は私の返事を予想していたみたいに頷いた。
「なら早目に里親探すんだな」
「里親探し…って、どうすればいいの?」
「色々方法はあるだろうけど、まずは猫好きの友達当たるとか」
「友達なんていない」
間髪入れずにそう返したら、壱己はぶはっと吹き出した。
「言い切ったな。もうちょっと躊躇えよ。お前本当に神経太いな」
「太くない。本当のこと言っただけだもん」
何がそんなに面白いのか壱己はいつまでも喉の奥で笑いを燻らせていて、私はちょっとむっとした。
「他の方法ないの?」
「どっかに里親募集のポスター貼り出すとか保護団体に引き渡すとかかな。あとは譲渡会ってのもあるらしい。SNSは興味本位の無責任な奴に当たる可能性高いからやめとけってさ」
「そう…」
短い時間に随分詳細な情報を集めてきたものだ。壱己だって猫の飼育経験はないと前に聞いていたからそれほど期待はしていなかったのに、こんなに手際良く対応してくれるとは思わなかった。ちょっと悔しいけど、感心する。
「まぁでも、まずは俺の周りを当たってみるか。友達伝てに情報拡散すりゃ誰か飼ってくれる奴見つかるかもしれないし」
「え…」
「あと、まずは病院連れてって病気持ってないかとかノミとかダニとかいないか検査した方がいいってさ」
「あ…」
「病院はSアニマルクリニックってとこに行けってよ。捨て猫保護活動に積極的で、拾ったって言や一律三千円で全身検査でやってくれるんだってさ。七時までやってるからこれから行くぞ」
「え…あ、う、…ん」
手際が良すぎて、追いつけない。相槌にもならない間の抜けた声を上げて、私は頷いた。
「…あの…」
壱己はさっさと持って来た猫グッズを部屋の端に寄せて片付けて、出掛ける準備をしている。行くぞ、というのはもしかして、壱己も一緒に行ってくれるって意味だろうか。確かめたかったけど自分から訊くのは図々しい気もして、言い淀む。それを察したのか、壱己はしょうがねぇなと言いたげに肩を竦めた。
「行くよ。俺だって動物病院なんて行った事ないから、役に立つかわかんねぇけどさ」
「…本当?一緒に来てくれる?」
動物病院は私にとっても未踏の地。ついて来てくれるだけでも充分心強い。私はほっとして、膝の上の仔猫をそっと抱き上げ、腕の中に収めた。




