75 epilogue2
実際に、天河さんのお祖母さんもそうだったらしい。第一子であるミフネ君を妊娠した時から少しずつ力が衰え始め、産後にはもうすっかり消えていた。
「女性の脳って妊娠出産の影響で構造が大きく変わるらしいんだよね。多分そのせいじゃないかと僕は考えてる。とにかく産後も継続して能力を保持していた人は一人もいなかったらしいよ。逆に子供を持たなかった人は、死ぬまでその力を持ち続けた」
なるほど、確かに男性である天河さんには、逆立ちしても不可能だ。
私は納得したけれど、けど、だからと言って。
じゃあ早速子供を作りましょうだなんて、言える訳もない。
式を言い訳にのらりくらりと話し合うのを避けて来たけれど、それもそろそろ限界だ。
「別に俺は急かすつもりはない。お前がまだ無理っていうんなら待つし、死ぬまで子供は望まないって言うならそれはそれでいいと思う。ただ俺は出来ればいつかは欲しいし、それが今すぐでもいい。そのくらいの準備は整ってる。だからとりあえず、お前がどう思ってるのかを聞かせて欲しい」
婚姻届を出した後、私たちは一緒に検査に行った。念の為、お互いに妊娠可能な体なのかどうかを調べておいた方がいいんじゃないかというのが壱己の意見だった。
それでもし何らかの理由で妊娠が難しいと判っても、自分から別れるつもりは全くない。能力の解消も子供も諦めて、力を抱えたまま二人で生きていく心構えを持ちたいからと。
結果、二人とも問題はなかった。
だからと言って作ろうと思ったらすぐ出来るっていう訳じゃない。時間の経過で体の状況が変わっていくのもわかっている。お互い三十間近だし、子供を産むつもりなら早い方が、リスクが少ないのもわかる。
でも…。
「…正直言って、よくわからないの」
溜息とともに、私は素直な気持ちを吐き出す。
「ごく最近まで、私は一生一人で生きていくんだって、頑なに信じて暮らしてきたから。こうして壱己と結婚して一緒に過ごしてることすら、不思議に思う。ましてや子供なんて考えたこともなかったのに、それで能力が消えるから早く作ろう、産もうっていうのは、子供に対してあんまりだと思うし…」
私の話を壱己は真顔で聞いて、うんと頷いた。
「お前の言いたい事はわかる。でも俺はその話を知る前から、お前との子供なら欲しいって思ってたよ。言ったよな?」
「うん…」
以前、確かに壱己はそう話していた。
それを事前に聞いていたことは、私を少し安心させた。少なくとも壱己は、能力を消す為だけに子供を望んだ訳ではないと。
問題は私だ。
能力を消す方法がそれだと知ってしまった為に、余計に自分の気持ちがわからなくなってしまった。
「…自信がないの。人間を産んで育てるなんて、自分一人で生きるよりもっと難しい。産むからには、産まれてよかった、幸せだって思って欲しいじゃない。私が誰かをそんな気持ちにしてあげられるとも、思えないし…」
「いや、それは出来ると思うよ」
私の大きな躊躇いを、壱己はあっさりと一蹴する。
「そんな簡単に言わないで」
「簡単じゃないよ。お前と会ってからの十数年かけて、俺が証明してるんだよ。ずっとクソみたいだって思ってたけど、やっぱり産まれてよかったって、お前がいるから幸せだって思ってる奴が、目の前にいるだろ。それじゃ駄目なのかよ」
壱己は怒ってるみたいに、早口で捲し立てた。
「…それにお前が全部背負い込む必要ないだろ。俺もいる。生まれて生きてりゃその間に、他にも沢山の人間と関わる。その中にはきっと、俺らよりもっと大きな存在になる奴だっている筈なんだ」
俺にとっての、お前みたいに。
小さな声でそう呟いたきり、壱己は黙り込んだ。
なんて答えればいいのか、わからなかった。
どうして壱己はいつも、こうなんだろう。
優柔不断で、押しに弱くて。口下手で不精者で、小狡くて。ちっぽけな私のことを、全部知っている筈なのに。丸ごと全部、知っているのに、それでも私を、この世で一番大切な、宝物みたいに扱うんだ。
「…馬鹿だよね」
「馬鹿なんだよ。何回も言うなよ。わかってんだよ」
開き直ってフンと鼻を鳴らす壱己は、どこか子供じみていて、なんだかかわいい。
「…ねぇ壱己。電気消していい?」
「電気?消すの?今?別にいいけど何で…」
話し合いの途中だぞ、と不満を見せながらも、私の希望通りに照明のリモコンを操作する。壱己はいつもそうだ。ぶつぶつ言いながらも、私の希望をちゃんと叶えてくれる。
カーテンを引いた部屋は、電気を消した途端に暗闇に落ちる。うん、これで大丈夫。
目が慣れるのを待って、私はそっと席を立つ。物にぶつからないように慎重に移動して、座ったままの壱己の頭を、まるごと抱いて胸の中に収めた。
「ねぇ壱己。私、壱己のことが好き。この世で一番大切で、大好きで、いとしいの」
壱己がびっくりして、身を強張らせるのがわかる。それもそうか。こういう言葉はいつも壱己がくれる方で、私は一度も、あげたことがなかったから。
「たったこれだけのことを言うのに、私、すごく時間がかかった。これからはちゃんと言うね」
本当は、夢読みの力が消えてから、明るい場所で、ちゃんと目を見て言いたかった。でもそれだと、少し先になりそうだから。今、言おう。
「…子供のことは、もう少し待って。子供が出来たらきっと、壱己が一番だよって言えなくなる。だって他にも同じくらい大切なものが出来るんだから。壱己がもう充分聞いた、満足した、飽き飽きしたって思うまで、言わせて。私まだ全然言い足りない。この世でたった一人だけ──壱己のことだけ、愛してる」
壱己は俯いて、何かを言い掛けてはまた口を閉じる。何と言えばいいのか考えている時の、壱己の癖だ。
「…俺はもう、今ので充分満足したよ」
「駄目。飽きるまでって言ったでしょ」
「そんな日、来る訳ないじゃん…」
壱己の言う通りかもしれない。
私たちは欲深く、どんなに言葉を尽くしても、どれだけ時間が経っても、満たされることはないかもしれない。
でもだからこそ、もっと欲張りになって、もっとたくさん、違う形の幸せも、欲しくなって。
そうして自然に、大切な存在がもっと増えたら、もっといいねと望む日が、きっと来ると思う。
その日が来るまで、もう少し待って。
きっとそれほど、遠くはないと思うから。
壱己はそうっと私の胸に頬を擦り寄せる。よく懐いた子犬みたいな、その仕草。くすぐったい。
「灯里。ベッド行こ」
壱己がねだって、私は頷く。
そうして私たちは抱き合って、甘い余韻の中で微睡む。
意識が淡く滲んで溶けて、隣で眠る壱己の健やかな寝息と混ざり合う。手を引かれて、一緒にあたたかい海の底に沈んでいくみたいに、私も眠りの中に落ちていく。
ねぇ壱己。
その穏やかな呼吸の下で、あなたは今、どんな夢を見ているの。
あなたのあたたかい腕の中で、私は今夜──どんな夢を、見るんだろう。
『今夜見る夢は甘い』 end.
本編ラストまでお読み頂きありがとうございます。次回からは番外編が始まります。
中学時代の二人と現在・本編その後の物語。
引き続きよろしくお願いいたします。




