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 重い瞼を開くと、霞んだ視界に見慣れない天井の木目が映った。

 

 「灯里…!」

 

 ぎこちなく首を動かすと、心配と不安でいっぱいに歪んだ壱己の顔が目に入った。

 「気付いた?大丈夫か?俺の事わかる?」

 壱己は矢継やつばやに訊きながら、手付きだけは慎重に、抱きかかえるようにして私の上半身を起こす。

 意識を失った後、ずっとこうして隣にいてくれたんだろう。顔を見たらほっとして、全身から力が抜けていくのがわかった。

 「壱己…どのくらい経った?」

 「一時間くらい。…灯里、大丈夫?何も忘れてないか?混乱したりしてない?」

 「うん、大丈夫。ちゃんと全部覚えてる」

 壱己の腕に体を預けたまま、辺りを見渡してここはどこか確認する。

 天河さんの実家の部屋の内のどこかだろう、和室の畳の上に寝かされていたみたいだった。私が意識を失ったのは玄関先だった。きっと壱己が運んでくれたんだ。

 「その『覚えてる』が正しいかどうかが、心配なんだよ…」

 腕に抱えた私の肩に額を埋めるようにして、壱己は絞り出すような声を出す。随分心配かけたんだなぁと申し訳ない気持ちになって、私は極力優しく、壱己の頭を撫でた。

 「…大丈夫だよ。戻ったら婚姻届出すんでしょ?合ってるよね?」

 「……合ってるよ。なんなんだお前は、もう…」

 心配をかけたお詫びでなんとなく壱己が喜びそうなことを言ったら、思った以上に感極まった顔で壱己は私を抱き締めた。心なしか涙目になっている。余計なことを言ったのかもしれない、と思う反面、壱己の体からふにゃりと力が抜けるのを感じて、私も同じだけ安心した。

 安心したら、今度は睡魔が襲ってきた。現実には今起きたばかりだったけど、あんなの寝てるっていえない。いえるものか。


 「…そういえば、天河さんが」

 「あ、そうだ。あいつらはどうした?会えなかったのか?」

 「会えた…。二人はまだ、夢の中にいる。あのね、天河さんが、自分の体は雑に扱わないでちゃんと布団に寝かせておいてって、言ってた…」

 「あ?」

 「それから…壱己と友達に、なりたいって…」

 「……あぁん?」


 私の伝言に、壱己は不審げに眉間に皺を寄せた。

 それよりも先に、話すべきことがある筈なのに。私の意識はみるみる、朦朧もうろうとしてくる。


 「…ごめん。少しだけ、普通に寝かせて…起きたらちゃんと、全部、話すから…」


 肌に馴染んだ壱己の腕のあたたかさが、よりいっそう眠気を誘う。もう目を開けていられない。

 壱己が労るようにそっと、髪を撫でてくれる。

 その手の優しさに甘えて、私は再び眠りについた。


 ♢♢♢


 それから数時間眠った後、やけにすっきり目覚め、完全に晴れた頭で先の夢で起こった出来事を壱己に話して聞かせた。


 夢の中での出来事をすっかり壱己に話し終えても、まだあとの二人は眠りの世界から帰って来なかった。もう日が沈みかけている。


 いつ目覚めるかわからない、昏々《こんこん》と眠り続ける二人を置いて、私たちだけ帰る訳にもいかない。その晩は天河家で夜を明かした。

 リビングの他に個室は六部屋あった。その内の一部屋の押入に布団は一式仕舞われていたけれど、壱己は面倒がって畳の上に直接二人を転がした。部屋に運んでやっただけでも有り難いと思え、と言って。

 私たちは別の和室でクッションや座布団をかき集めて敷き詰めて眠った。寝心地は最悪だったけれど、前日の睡眠不足もあって、私は深い眠りについた。


 ♢♢♢


 天河さんが目を覚ましたのは翌朝のことだ。

 「体が痛い。だから布団に寝かせておいてって頼んだのに…」

 最寄りのコンビニまで車で十五分かかる。壱己が朝食を買いに出ている最中に、天河さんはぶつぶつ文句を言いながら起きてきた。

 「…おはようございます」

 急にリビングに現れたから、びっくりした。他に言葉が出てこなくて、小さな声でかろうじてそれだけ呟いた。

 「おはよう、白崎さん。昨日はよく眠れた?」

 寝起きだというのに寝癖だの畳皺だの一切なく、キラキラした朝の明るい光を一身に受けて絵画のように完成された微笑みを浮かべている。本当に同じ人間なのかと疑いたくなった。形状記憶機能を備えてる宇宙人なんじゃないか。


 そこへ戻って来た壱己が、あっと大きな声を上げる。

 「この野郎、やっと起きやがったな。灯里にちょっかい出すなって言ってんだろ」

 「挨拶しただけなんだけど。芦屋君もおはよう。よく眠れた?」

 「眠れる訳ねぇだろ。部屋は埃っぽいし布団もねぇし」

 「押入にあったでしょ?使えば良かったのに」

 「他人の家の布団なんて勝手に使えるか」

 「何で?律儀なの?潔癖なの?」

 朝からうるさい。

 二人の幼稚ないさかいは聞こえない振りして、食卓に壱己の買ってきたパンやおにぎりを並べる。

 「ねぇ、朝ごはん食べよ」

 私が壱己の袖を引っ張ると、ようやく二人は大人しく席に着いた。


 「食べ終わったら東京に帰ろうか」


 サンドイッチを頬張りながら、天河さんは唐突にそう言った。

 「帰ろうって、あんたの親父はどうすんだ」

 「その内起きるから放っといていいよ」

 あんなに会いたがっていたのに、再会を済ませた途端に随分あっさりしたものだ。呆れて横顔を見つめる私に気付いて、天河さんはにこっと微笑んだ。

 「多分二、三日は目を覚まさない。記憶を引っ掻き回されて脳が疲れてるんだ。その回復の為にね。そして起きたら、君の事は忘れてる」

 何気なく放たれたその言葉に、私と壱己は凍りついた。

 「忘れてる…」

 「うん。父にとって君の記憶は、量としてはごくわずかだからね。粉々にして『ゴミ箱』に放り込んでおいた。万が一再会してじっくり対話をする機会があっても、似てる人に会った事がある気がするって程度の感覚しか持たない筈だ。安心していいよ」

 夢の中で見聞きした内容は、ひとつ残らず壱己にも話していた。だから壱己もすぐに理解する。幼い頃の天河さんが祖母にしたのと同じことを、ミフネ君にも実行したということを。

 「本当はさ、僕らのこの能力の記憶を全部、ゴミ箱行きにしたかったんだ。でも父はそれに多くの時間を費やしていたから、さすがに全部は入りきらなかった。無理に入れたらパンクして、そうなるとちょっと、その後どうなってしまうのか僕にもわからない。だからそれは避けたかったんだよね」

 「…それでどうした。そのままにした訳じゃないだろ?」

 壱己がすかさず聞きただし、天河さんはにっこりと笑う。

 「うん、回路を組み替えてきた。多分上手くいったから、心配しなくていいよ」

 「回路?どういう事?俺らにもわかるように説明しろよ」

 その短い説明だけでは不十分だと、壱己は不満げに眉を寄せた。天河さんはパン屑のついた指先をぺろりと舐めて、問い返す。

 「芦屋君、君は現実と空想を、頭の中でどうやって区別してる?」

 「どうやって?…って言われてもな。現実なら多少なりとも記憶があるだろ。なけりゃ空想だ」

 「そう?じゃあ、例えばね。君と白崎さんは中学生の時に出会い親しくなった。これは現実?」

 「うん」

 うん。現実。私も隣で頷く。

 「でもその時白崎さんは既に別の人と結婚していて子供もいた。それでも諦めきれず夫と子供を置いて家を出て、一度は君と結ばれた。ところが君は酷いDV男で、白崎さんは君から逃げてこの離島にやって来た。そこで再会した元同級生の僕と心を通わせ、結婚の約束をする。そして二人で幸せな日々を送る筈だった。ところが君は人探しのプロを雇って居場所を突き止め、白崎さんを追ってここに辿り着き、今、三人で話し合いをしてる。──これは、現実?」

 「いやいやいや」

 壱己は血相を変えて勢いよく否定した。私も隣でぶるぶると首を左右に振る。

 「妄想極まりねぇよ。色々情報混ぜんな」

 「そう?でもひとつひとつの出来事を切り取ってみれば、全て君の言う『多少なりとも記憶がある』話だろう?」

 「──あ…」

 言われてみれば、そうだ。

 家族を置いて家を出たり家庭内暴力があったりこの離島に人を探しに来たり。天河さんの作り話を断片的に切り取れば、私の、壱己の、それぞれの家族の身の上に、実際に起きた出来事ばかり。壱己が言ったように、それらの情報を混ぜただけの話だ。

 戸惑う私たちに、天河さんは底の見えない薄い微笑みを向ける。

 「記憶というのは情報だ。実際に体験した事だけでなく見聞きしただけのものも同じように脳に蓄積される。何らかの理由で脳の一部分を損傷した人が、記憶の時系列や断片同士の繋がりを混乱させて今みたいな作り話を現実だと思い込む事は実際によくあるんだ。はたから見れば妄想に取り憑かれた病人かもしれない。でも本人からしたら、それが真実なんだよ」

 「それは…以前、天河さんが私の記憶を組み替えた時と、同じ構造ですよね」

 恐る恐る私が訊くと、天河さんは「うん」と変わらぬにこやかさで肯定した。

 「元々脳は、空想と現実の判別っていうのが出来ないんだ。外部から情報を受け取って備蓄する過程は等しく同じだからね。だけど健常な脳の持ち主は、自然にこの二種類を区別してる。どうやってるかっていうと眼窩前頭皮質…脳のある部分で、それが今現在と紐付いた情報なのか過去のものなのか他者から見聞きしたものなのかそれとも空想なのか、フィルターにかけてラベリングしてる。僕が夢の中で記憶と空想の仕分けが出来るのもその為だ。その記憶の断片に記された区分や、どんな経路を通ってきたのかという足跡そくせきが、僕には見える」

 そんな大それた事は出来ない──

 天河さんがそう言ったのは、いつ、どんな時、何についてだったっけ。

 嘘ばっかり。

 何てことなさそうに語るその力の実態は、一般的な人間の領域から、明らかに逸脱していた。

 「それで、回路を替えたっていうのは何?」

 壱己の声も冷え切っていた。呆れとか嫌悪感とかを遥かに通り越して、畏怖を感じていることがわかった。それでもかろうじて話の続きを促せる理性が残っている分、言葉も発せなくなった私よりは、ずっと落ち着いている。


 「夢読みの力──そのキーワードを含む記憶がフィルターに掛かった時点で全て空想として処理されるように、回路を組み替えてきた。目が覚めたら彼は、今まで心血を注いできた未知の能力が、全て自分の空想の産物だったという事に()()()筈だ。妄執に囚われて多くのものを、長い時間を失った哀れな男──自分の事を、そんな風に認識するだろうね」


 天河さんは缶のカフェオレを開けて一口飲み、もっと甘いのなかったの?と、壱己に向けて文句を言った。



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